2011年9月4日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(5) (20110904)

 『決定版 日本史』に“日本の国の根幹となった人たちは、だいたいは南方系と考えてよいだろう。”と書かれていることについて、私は環境考古学者・安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に書かれている次の一節から、「南方系」は「長江流域系」であるだけではなく、それ以前に縄文人がいて根幹の一つをなしていたと考える。『決定版 日本史』は一先ず休んで、『古代日本のルーツ 長江文明の謎』を引用しながら考える。

 “中国の雲南省から長江流域、そして西日本には多くの文化的共通点がある。たとえば、納豆や餅などネバネバした食べ物が好きであるということ。・・(中略)・・雲南省では、日本の長良川の鵜飼いと同じように、鵜に魚を飲み込ませる漁が行われている。雲南省も日本ももともとは主たるタンパク源は魚であった。この他にもお茶を飲み、味噌、醤油、なれ寿司など発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。”

 “湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡は、1万年前から環濠をもった集落を形成していたことがわかっている。水田では稲をつくっていたが、気候が乾燥し干ばつになると稲作は危機を迎える。・・(中略)・・彼らは、城塞をつくったのである。城塞の後ろにため池をつくり、ため池によって水の感慨をコントロールするようになった。”

 “稲作農耕民にとって、太陽の運行は非常に大きな意味を持っていた。このことから推論できるのは、長江文明を築いた人々が太陽に対して特別な思いを抱いていたということである。”この部分は『古事記』の天照大神の話を思い出させる。

 “長江文明を担った人々の末裔だった苗族。なぜ彼らは長江流域から離れなければならなかったのか。・・(中略)・・その原因をつくったのは、北方からの民である。北方の民は、稲作漁労の長江の民と違い、畑作牧畜の民である。・・(中略)・・北方の民にはすでに青銅器が普及していて、彼らは青銅の武器を手にしていた。そして馬に乗っていた。馬と金属器をもった人々と石器しかもたない人々の戦いの結末は見えている。”

 “とくに約3000年前の寒冷・乾燥化は厳しいもので、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。・・(中略)・・多くの人々は、北方からやってきた人々と一緒に暮らしただろう。しかし、そうでない人々もいた。・・(中略)・・江流域の民が向かったのは、中国の山奥ばかりではない。海を渡り、台湾にも行っている。さらに日本列島にも渡り、日本の弥生文化の成立に大きな影響を与えたと考えられる。”

 私は彼らこそが渡来系弥生人であると考える。彼らはジャポニカ種の稲作を日本にもたらした。私は、彼らはY染色体遺伝子のタイプDをもつ男たちに率いられて、長い年数をかけて海岸伝いに北上し、朝鮮半島を経て北九州にやって来たグループあり、海を渡って沖縄・奄美列島伝いに南九州にやって来たと考える。『古代日本のルーツ 長江文明の謎』には、長江流域と日本の考古学的遺跡からの出土品の類似など、長江文明と日本の関係について様々な例を挙げて説明されている。 (続く)

 

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