2011年9月11日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(12) (20110911)

 「教育勅語の復活」「皇国史観教育の復活」と言うと極右的な考え方であると非難されるだろう。皆が皆でないにせよおそらく在日の韓国・北朝鮮籍の人たちや韓国人・中国人の非常に多くの方々から敵意を持たれるだろう。自虐史観に凝り固まっている日本人や日本人の反日活動家らは、そのような発言を封殺しようとするだろう。しかし冷静になって「教育勅語」や「皇国史観」のどこが悪いのか考えてみることが必要である。 

先ず「皇国史観」について考えてみる。

 『古事記』『日本書紀』に書かれている「神代」のことについて、それを学問的に根拠がない「作り話」であるとする立場をとる人々は、例え自分の子供が生まれたときでも、七五三のときでも正月でも、旅行でたまたま立ち寄った場所でも、神社に全く参拝しないし、天皇陛下・皇后陛下が大震災の被災地を訪れ、被災者を慰められたことを少しも有り難いとも思わないだろうか?自分の日常生活において、自分が日本人であるということを幸せであるとちっとも思わないだろうか?そもそも何故日本人なのだろうか?「神話」は「歴史物語」である。しかもそれは万世一系の今の皇室につながる物語である。

「皇国」は「天皇の国」という意味ではない。「天皇が統治する国」の意味である。古代、天皇は自ら政治を行うお立場であった。しかし平安時代摂関政治が始まったときから天皇は現代と同じように「象徴」となられた。それでも戦前までは「御前会議」で外交・国政上のことで天皇のご意思が示される仕組みがあった。現代では天皇は憲法第一章に定められたとおりに国会の指名により内閣総理大臣を任命し、内閣の指名により最高裁判所の長を任命し、内閣の助言と承認により憲法に定められた国事行為を行うという完全な「象徴」であるが、それでも天皇は上述のような形この国を統治している。従って日本人は「皇国史観」の内容は変化したということを承知した上で、神武天皇以来続いてきた「皇国史観」を捨てる必要は全くないのである。

次に「教育勅語」についてである。教育勅語に書かれている「臣民」とは「明治憲法のもとでの日本の人民であり、天皇・皇族以外の者」のことである。また「朕」とは「天子」のことである。「天子」とは「天命を受けて人民を治める者」であり、「国の君主」のことである。「天命」とは「天から与えられた人の宿命」である。「天」とは「大自然の力」のことである。また「君主」とは「世襲による国家の統治者」のことである。正に「象徴」であらせられる天皇陛下が我が国の憲法に基づく君主である。

このように「教育勅語」に書かれている言葉を解釈してこれを読むと、言葉としては文語調で古臭いが現代にそのまま生かせる凝縮されたものであり、日本人の精神の根本が書かれたものであることがわかる。私はこの「教育勅語」の原文と、例えば「我が臣民」を「国民の皆さん」、「朕爾臣民(ちんなんじしんみん)の倶(とも)に」は「私はあなた方国民が共に」と口語文を併記して小中高校で唱和させればよいと考える。そのことを法律できちんと制度化しておけば日本人の「体外遺伝子」は守られるだろう。 (続く)

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