2011年9月1日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(2) (20110901)

 私は、万物に備わっている「自存力」をキーワードに、日本人が「自存」のため如何に努力して来たかを考えて来た。

私は終戦の年の8月、9歳のとき、32歳の母、7歳の弟、そして母に背負われた2歳の妹と朝鮮から引き揚げて来た。父は教職にあったので9月末に引き揚げて来た。9月の新学期から転校先の小学校に通った。家でも学校でもまだ戦前の気風が残っていた。

家では家長の祖父が日常生活すべての面で威厳を示していた。朝、起床後洗面し、神仏を拝した後、挨拶を受けるため火鉢の周りに座している祖父母らに「おじいちゃんお早うございます、おばあちゃんお早うございます、お父さんお早うございます」と個別に相手の名前を言って、両手をついて挨拶していた。食事のとき、祖父は食卓の両側に並ぶ家族の中央に位置していた。祖父の脇には祖父用の小さな御櫃があり、白米のご飯が入っていて祖母が御代りのご飯をついでいた。祖母以下は麦飯だった。

学校でも今時考えられないことであったが、ある日私たち2年生男子生徒10名ばかりが教室内に一列に並ばせられて、教師のH先生からスリッパの端で一人ひとりほっぺたを叩かれたことがあった。何か悪いことをしたためだと思うが、叱られた理由は覚えていない。

私は小学校低学年のとき戦前と戦後の変化を経験したに過ぎず、戦前の「良かった」点については、学習でしか知ることはできていない。その中で、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で益田総監の眼前で作法に則り切腹し、森田某の介錯で見事な最期を遂げ、「檄文」を遺したことに強い衝撃を受けた。母は翌年2112月乳がんで死んだが、その死の間際までの母の毅然とした態度・振る舞いなどからも私は強い影響を受けている。その他、私自身の先祖・家系のことも私の思考の原点にある。

私は渡部昇一先生の著書を幾つか買って読んだ。私より7歳年長の彼の著書は、私にとって最も解りやすいものである。彼は『日本史』にこう書いている。

“個々の歴史的事実について丹念な研究は尊い。しかしそれだけでは国史という虹は生じない。無数の歴史的事実から自分の国の美徳を示すのは史観である。無数の事実を見るための正しい視線の方向と距離が必要なのである。

逆説的になるが、私は日本史の素人であるからそれができたと思う。私はイギリス国学史の重要な分野で、文献資料に関係する研究をやってきたので、日本史の学者の論考を見ても、その方法論や資料の用い方の正しさや不適切さを見抜くことができたと思う。”

人はものごとを見るとき、自分のバックグラウンドでしか見ることはできない。人が人を測るとき、自分の器量の範囲内でしか測ることはできない。菅直人氏が「私は原子力の専門家である」と言っても、人びとは彼が原子力の研究に携わってきているのではなく、市民活動や政治をやってきた人であることを知っているので、彼は原子力の専門家ではないこと知っている。知らないのは彼自身である。彼の出自に関するバックグラウンドを含め彼がこの国の総理になったことは、この国の民にとってよい勉強になった。 (続く)

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