2009年8月18日火曜日

年寄りを看るということについて「(20090818)

 男の母(継母)、90歳は5年ほど前がんを患ったがそのがんが消滅し、住み慣れた九州のある田舎町で独り暮らしをしている。ところが今月の8日、男のもとにその町でホームドクターの役割を担っているK病院から緊急連絡が入った。母がヘルペス(帯状疱疹)に罹っているので入院させたと言うのである。男は急きょ田舎の家に帰った。

 このK病院を経営しているK先生は母の健康状態を常続的に把握しておくため、毎月母の血液検査を行ってくれている。K医師は母の血液検査の結果について男に説明してくれた。それによれば、白血球数は2000前後、赤血球は8.5前後であり、葉酸やB12を与えても増えなくなってきて、骨髄の造血機能が低下しているということである。

 母は5年ほど前、十二指腸のあたりに出来ていた悪性リンパ腫を外科手術で取り除いた。K医師の判断により悪性リンパ腫の切除を先行させたのは、6cmほどもあった腫瘍が原因で一本の尿管を圧迫し、腎臓の機能に影響を与えていたからである。母はK医師の判断で、隣接する町にある泌尿器科で尿管にステントを入れ、尿通を一時的に良くする手術を受けていた。腫瘍はK医師が「便通が悪い」という母の訴えを聞いて腹部の超音波検査をして見つけてくれた。K医師によれば、普通腫瘍は便塊と区別しにくいので超音波ではなかなか見つけにくいということであるが、母の場合腫瘍が出来ていた個所が便塊のない場所であったから見つけることが出来たそうである。

 男はK医師に紹介状を書いてもらって、男が住んでいるところからアクセスしやすいK市民病院で母の腫瘍を取り除く外科手術を受けさせることにし、母を横浜の男の家に連れて来た。執刀してくれたI医師は術後化学療法を行うよう勧めてくれたが母がどうしても田舎の住み慣れた家に戻りたがるし、都会では血液内科が少なく高齢者を受け入れてくれる病院が当時は見つけることができなかったので、やむなく母を田舎に連れて帰った。

 悪性リンパ腫に対して本来行うべき化学療法を行っていなかったため、1年後にがんが再発すべくして再発した。そこで今度は母が住む県内のA病院で化学療法を受けた。その時は幸いにして腫瘍が他の臓器に悪影響を与えていなかったため、主治医のM医師により初めから最も適切な化学療法が選択されて施されたお陰でがんは緩解し、現在に至っている。
しかし8月に入って帯状疱疹が発症した。これは今年になって母の造血機能が衰えて来たのが原因であると考えられる。これは血液のがんが再発している状況にあると考えられる。どこかに腫瘍ができているかどうかは分からない。K医師は赤血球が7を切る状態になれば、輸血しか延命の方法はないという。男もそう思う。

 それまで男は母を母の住む町にある特別養護老人ホームに入居してもらおうと、5年前から手続きをしていた。しかし老人ホームでは血液のがんを患っている母を良く看てくれないと思う。男はK医師に「私は今決心した。母を老人ホームに入居させることは適切ではない。母がおむつをあてるようなったり、痴呆になったりするようであれば別であるが・・」と男の判断を伝えた。

 K医師は、輸血には7000人から8000人に一人の割合で移植片対宿主病(いしょくへんたいしゅくしゅびょう、graft versus host disease; GVHD)という問題が起きる可能性があるという。男がインターネットで調べたところによれば、輸血製剤製造過程中にどうしても残ってしまうリンパ球のため、状況によってGVHD起ききてしまうらしい。輸血には状況により発熱・発疹などの副作用も起こり得るらしい。K医師は母に対する輸血が必要になったとき輸血は120日に一回の割合で行うことになるが、そのとき1週間から10日間、家族の者が母の近くにいて欲しいと言う。

 母は一見元気そうである。K医師が言う通り母の状態をみれば母は決して痴呆になることはないし、おむつを当てて暮らすような状況にもならないと思う。しかし男は母の寿命はあと数年であろうと予測する。もし帯状疱疹が再発するようなことがあれば、母の免疫力はかなり低下していることになる。入院するようことがまた起きれば、その時は母は病院で寿命を終えることになるかもしれない。男はK医師からいろいろ話を聞いてそのように状況を判断した。その判断を男の弟妹や母の弟妹に語った。

 男は女房に電話でそのことを話した。数日後男がまた横浜に戻るが、その後は毎朝8時にモーニングコールをして母の状況をチェックし、何かあれば第一優先順位ですぐ母のもとに帰ることにし、そのうち母の赤血球数が8を切るようになり、白血球も1500を切るようになれば、その時には母のそばにいてやり、母がいよいよ寿命を終えるときまで母のそばで母を看て上げようと思う。

 男は今後女房と一緒に頻繁に帰省して母の状況をチェックし、母の血液検査の結果の推移についてK医師に聞こうと考えている。そしてその都度適切に対処する。それが年寄りを良く看ることであると男は考える。

 母は明日(818日)昼食後退院させる。明日、男はホームヘルパーを派遣してくれているK.園と、デイサービスを受けている老健Hに電話を入れ、母が入院前受けていた福祉サービスを再開してもらうようにする。そして数日後10日ぶりに女房がいる横浜に戻ることにする。この10日間、男はブロードバンドのインターネットにアクセスすることができて、この田舎町で割合気楽に、毎日楽しみながら過ごすことが出来たのはとても良かった。

2009年8月17日月曜日

非核三原則(20090817)

15日、NHK番組で<日本のこれから「“核の時代”とどう向き合うか?」>が非常に熱っぽく討論されていた。核の持ち込みや核武装について、核が抑止力になるかならないかの意見が概ね半々に分かれていた。半数いる否定者の中で「核の傘が必要か、必要でないか」という問いに対して「必要である」と考える人が結構多かった。男はそれを見ていて感じたことがある。
一つは、核抑止力を肯定する半数の中に中年以下の世代の多いということに戦後65年目という時代の流れを感じたということである。一昔前であれば、肯定者が半数もいなかったであろう。
二つは、核抑止力否定者でも「身の安全はアメリカの核よって守ってもらいたい」という、核に対する屈折した考え方をする人間が多いということである。
三つは、核が戦争を抑止しているという認識が深まり、核問題に対するアレルギーは解消する方向にあるということである。
四つは、もし日本とアメリカの間の信頼関係が揺らぐようなことがあると、日本は急ピッチで核武装することになるかもしれないということである。
五つは、上の四つに関連するが、日米の信頼関係はお互いに相手を強く必要とする関係であり続ける限り揺らぐことはないということである。そのためにはお互いに相手が求めていることを満たしあうということが重要であるということである。
六つは、将来何かの事情で日米関係が壊れる、あるいは無くなるということがあるかも知れない、ということを常に考えておく必要がある。そのとき日本はどの外国にも頼らず自立してゆける力を身につけておかなければならない、ということである。
七つは、上の六つに関連するが、もし日本がどの国にも頼らず自立してゆくことになった場合、再び「やましき沈黙」(下記)のため過ちを犯すことがないようにしておかなければならないということである。
男は日本海軍反省会で出た「やましき沈黙」の元となる精神構造は、日本が多民族・多様性の国にならない限り変わらないと考えている。それは日本の古来の精神文化に起因するものであると考えている。そのシンボルは神社である。日本は世界に類例のない天皇や神道や神社や神社の鳥居などを持っている。日本人はこれらこれを全く無くすことは絶対できないであろう。それらを無くすということは日本人の自己否定につながり、日本が秩序ある国としての体をなさなくなるということである。
その恐ろしさゆえ、男は日本が「やましき沈黙」のため誤った方向に向うことがないようにする、なにか特別のシステムを構築する必要があると考えている。<日本のこれから「“核の時代”とどう向き合うか?」>という討論会の発言者の中に誰一人として男が懸念しているようなことについて発言がなかったのは、誰も自分自身の深層心理を気づくことが大変難しいからであると思う。男はその切り口から自分の哲学を深めてゆきたいと思う。
男はそう思いながら横浜の自宅で同じ番組を観ていた女房に電話した。実は男はこの番組があることを女房から聞いて知ったのであった。折しもこの田舎の家に男の妹が同窓会で帰って来ていたので話していた電話機を妹に渡し、男はコンピュータに向き合った。

2009年8月16日日曜日

長崎への原爆投下(20090816)

 アメリカ人の6割ぐらいの人たちは、広島と長崎への原爆投下が正しい行為であったと考えているということである。正しいと考える理由は、その行為によって戦争を早く終結させ、戦争による死傷者や破壊をそれ以上拡大させずに済んだからであるというものである。キリスト教徒が多い長崎への原爆投下は、当時の爆撃機搭乗者の証言によれば投下目標は市の中心から3km外した場所だったということであるが、天候不良によりその場所への投下ができず、市の中心部に落としてしまったということである。

 戦後アメリカは原爆投下により2人のキリスト教神父、850人のキリスト教徒を殺し、聖母マリヤ像・天主堂などを破壊してしまったことを悔やみ、長崎から原爆投下の痕跡を消し去ることを欲し、当時の長崎市長らに働き掛けて浦上天主堂や聖母マリヤ像など原爆で破壊された一切の痕跡を消し去ることに成功した。

 当時訪米した長崎市長はアメリカ各地で大歓迎を受け、長崎はアメリカのセントポール市との間で姉妹都市関係を結び、アメリカがキリスト教徒の多い長崎に原爆を投下したという事実は世界中に宣伝されることがなくなった。その一方で広島の名前は世界中の人たちに良く知られている。オバマ大統領の非核化宣言に勇気づけられヒロシマはカザフスタンの核実験被爆者たちと連携し、ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクトを発足させた。アメリカ人の識者の中には、ヒロシマはいつまでも原爆の後遺症を引きずっているが長崎はそうでないというようなことを言っている人たちもいる。

 男は戦争は冷酷なものだと思う。広島、長崎への原爆投下は当時の日本国民の心理状況を考えると、終戦を早めることに役立ったかもしれない。当時の日本国民は情報に乏しく、平和を志向する人々の思いは集団心理のもと、それぞれの胸の奥に無理に抑え込んでいた。先般NHKテレビ番組『日本海軍400時間の証言』で、当時の海軍将校たちが‘やましき沈黙’を反省していた。‘やましき沈黙’がなければ戦争は早く終結し、広島、長崎への原爆投下は行われなかったかもしれない。‘やましき沈黙’は戦後65年目になる今の日本人の間にも ‘一種の美徳’のように存在していると思う。

 ‘やましき沈黙’を生じさせる日本人の古来からの深層心理‘セルフ(自分自身)’は、未来にわたり日本人の心から無くなることはないであろう。その‘セルフ’は日本人が神代の時代から培ってきた深層心理であり、日本の文化の根底にあるものだからである。

 それは組織の団結に役立つ一方、組織をその組織の個々の成員の意思とは無関係に誤った方向に向かわせてしまう。男は余り好きな言葉ではないが、‘内部告発’、言葉を変えれば‘密告’の制度と‘密告者’を保護する制度は必要だと思う。その制度が正しく機能しているかを憲法で保護された報道機関が第三者として監視する。そのようなシステムがこの日本には必要ではないかと考えたりする。

 アメリカにはWASPといって白人でアングロサクソンでプロテスタント系の人々のネットワークが存在している。長崎から原爆投下の痕跡を無くそうとしたのは彼らに違いない。

2009年8月15日土曜日

田舎に暮らす楽しみ(20090815)

 男は田舎で独り暮らしをしている母(男の継母・女房の実母、但し彼女が男の父親の後入りになったため8歳の時以降母娘別居)を看るため時々九州の田舎に帰っている。今回はその母が軽いヘルペスを発症しかかりつけの病院に入院したため帰ってきた。母はこの夏90歳になった。5年ぐらい前、そのかかりつけの病院で検診を受けた時、超音波検査で大腸に6cmほどの大きさのしこりがあるらしいことが分かり、母を九州から連れてきてK市民病院で手術を受けてがんを切除してもらった。その病院を退院するとき、執刀してくれたI医師は「再発防止のためには抗がん剤を打ったほうがよいのだが・・」と言っていた。

 案の定1年後がんが再発した。A病院に入院させ、今度は抗がん剤で治療することになった。男は担当のM医師に「母は高齢なので、治療する必要はない。がんと共生する程度の治療の仕方でお願いしたい。」と要望した。N大医学部出の若いその医師は男の希望を聞き入れてくれて、抗がん剤を通常の3分の1程度の量で投与し、血球数が上がらないので投与の間隔も3週間以上開くような状態で投与してくれた。抗がん剤は何十種類もあるそうで、M医師は母の体質に最も適すると考える抗がん剤を投与してくれた。その結果不思議なことに3回の投与でがんが消滅した。その後ダメ押しのため、リツキサンとかいう高価な薬を8回投与してくれた。その結果がんはひとまず治った。

 そのようなことがあって、長男であり先祖の祭祀もしなければならない男は女房とともによく田舎に帰っている。母は手術のためわずか1カ月男の家に滞在していただけで、慣れない都会よりは住み慣れた田舎がよいと言って田舎に戻った。以来、男と女房は母があの世に逝くまで年に数回田舎に帰ることになった。今回は男だけが田舎に帰っている。

 この田舎でブロードバンドのインターネットに接続していろいろ出来るようになったので、男は都会に住んでいるときと同じような楽しみを得ることが出来るようになった。田舎に暮らしていて退屈するようなことはなくなった。

 この町は人口1万7千人余りの風光明美な地の中央にある。温泉もあちこちにあり、幹線道路沿いに大型の店も何軒かあり、男の家のすぐ隣にはお惣菜や弁当など作って売っている店があり繁盛している。独り者でも暮らしやすい町である。総合病院はないがしっかりした病院が3、4か所あり、眼科、耳鼻咽喉科、歯科などの専門医院もある。人口の割には医療施設が充実している。老人が多いがその親族は比較的近い都市に住んでいるので、何かあればすぐ飛んで帰ることができる。ケアマネージャーによれば、男のように遠隔地に親族が住んでいるケースは非常に少ないとのことである。

 昨日は医師に勧められて母を病院から連れ出し、デパートの一角にある喫茶室でココアを飲みながら話しをした。今日も連れ出して川の景色を観、その後タクシーを呼んで墓参りに連れていった。毎日午後の点滴が終わった後、3時過ぎに母を連れ出して運動をさせる。それが日課でそれ以外男の戸外の活動は庭の植木の手入れをしたり、草をむしったり、母の楽しみのため植えておいたナスやトマトやキュウリやゴーヤの成り具合を見たり、家の手入れをしたりすることなどである。夕食時、テレビを観ながらの独り晩酌も楽しい。

2009年8月14日金曜日

ブロードバンド(20090814)

 老母がヘルペスを発症し入院したので、九州の田舎に一時帰省している。この町ではまだ光ケーブルが引かれていず、ADSLを追加契約してようやくインターネットに接続することができた。もし光回線が引かれていれば持参した携帯パソコンを接続してすぐこのブログを書くことができたのに、月々1300円余り通信経費が増えることになった。

 男はこの携帯パソコンさえ持って行けば、日本中どこでも世界中どこでもインターネットに接続して通信ができると思い込んでいた。ところが、通信プロバイダーとの契約は光かADSLかあるいは無線かによって個別の料金体系があるのである。言われてみれば確かにそのとおりである。男が契約しているのは光とダイヤルアップ回線だけである。しかし、今時ダイヤルアップ回線は通信速度が極端に遅く、せいぜいEメールにしか使えない。まして、この携帯パソコンにはダイヤルアップ接続のポートなどついていない。

 NTT西日本116番の窓口担当嬢Sさんは大変親切であった。男はなんとしてでも今すぐこの携帯パソコンでインターネットに接続したかった。プロバイダーOCNの窓口担当では、認証IDなどを得るのに数日かかると言っていたが、SさんはOCNにかけあってくれて、1時間もしないうちにADSL用の仮の認証IDとパスワードを知らせて来た。本物は文書で数日中に横浜の男の自宅に届けられることになった。

 男はNTT西日本116番に電話し、独り暮らしの老母のために町が準備してくれている緊急連絡装置との接続のことを相談したついでに、Sさんに男の感謝の気持ちを伝えて欲しいと、電話に出たGさんに言った。Sさんは職務として当然のことをしたまでであろうが、男はこの田舎でようやくブロードバンドに接続できたことが嬉しく、Sさんには是非感謝の気持ちを伝えたかったのである。SさんもGさんも若い女性で、男のような不特定多数の顧客からのいろいろな相談や苦情を裁く仕事をこなしているのであろうと思う。

2009年8月13日木曜日

幼児の躾(20090813)

公共の場で2歳くらいの男の子がぎゃんぎゃん泣いてわめいている。その親は黙って取り合わずにいる。幼児がいくら自分の要求を通そうとしても聞き入れない。幼児は執拗にわめき続けている。男の女房がそれを見ていて「頬っぺたの一つでもひっぱたいてやればよいのに」と言う。男もそう思う。
その幼児は日頃家の中でも、自分の要求を通そうとして泣きわめいているに違いない。三つ子の魂は百までと言うが、善いことはよい、悪いことはわるいと善悪のけじめを三つ子の時からしっかりと植えつけておかないと、そのこどもが成長したときに親は苦労することになる。
女房は、「年取ってできた子供は格別可愛いものらしいよ。」という。男も若いころ叔父が50歳ころ出来た子供を可愛がっていたのを知っている。ある日その子供の名前を呼び捨てにして話していたところ、後でその叔父から電話がかかってきて何の電話かなと思っていたら「さっきお前は○○のことを、○○と呼び捨てにしたな。」と怒っている。男は血のつながった甥っ子であるので親愛の情をこめてそう呼び捨てにしていたのであるが、それがいけないというのである。その時女房は、「それはあなたが間違っている。○○君と呼ぶべきよ。」と言った。男もその時それはそうだな、と反省したものである。しかし一般に親が年をとって出来た子供は可愛いものらしい。
男も女房も子供の躾には厳しいところがあった。しかしお陰様で子供は委縮せずに立派に育ってくれた。それは善いことについて男も女房も大変おおらかに認めていたからであると思う。善いことには危険を伴うこともある。男は全く気にしていなかったが女房の方は子供が善い経験をするため万一命を落とすようなことがあったとしても、それは運命だと覚悟を決めているところがあった。先日男は初めて聞いて知ったことであるが、女房は息子たちがそれぞれ留学や遊学で海外に出るとき「これが今生の別れになるかもしれない」、と思って息子たちを見送ったそうである。女房は男が会社の研修でアメリカに行くときも空港でそういう思いをしながら見送ってくれたのであろう。
結局、子供が立派に育つかどうかは、父親よりも母親の影響が極めて大きいと実感する。近年女性が強くなって男性が女性の尻に敷かれている情景をよく見かける。そういう女性たちでも「子供を立派に育て上げ社会に送り出す」という、動物たちが本能的にやっているようなことができる女性であれば、立派な母親になれると思う。一方、父親たちも子供たちを育てるにあたり男は逞しく、女は美しく、という遊牧民的な野性的な理念を持っていれば子供は立派に育つと思う。
男はこの間自分の娘をあたかも自分の親友のようにして道を歩いている母娘連れを見かけたことがあった。「きっとあの母親は淋しいに違いない。」と言ったら、女房は「友達親子が多い。」と言う。近年子育てができない母親が多いようである。政府は育児経験者をボランティアとして募り、子育てアドバイザーにしたら良いのではないかと考える。

2009年8月12日水曜日

昭和万葉集(20090812)

 昨日(6日)は広島平和記念日であった。毎年この日、蒸し暑い広島の原爆記念公園で行われる式典に、今年は国民の人気度は対抗馬民主党鳩山代表よりはずっと低いが、逆境にもめげずに愚直なまで一所懸命に、政権政党としての政策とこれまでの成果を国民に訴え続けている麻生太郎首相が出席された。

 男は何年か前、女房と一緒に広島を訪れている。『男たちの戦艦大和』という映画があって、二人でその映画を観たあと、広島、厳島神社、呉にある戦艦大和記念館などを観て回った。原爆記念公園の片隅に、被爆して亡くなられた朝鮮人たちの霊を弔う記念碑が建っていた。名野球選手だった張本勲氏は広島のご出身であったという。二人が泊まった宿はインターネットの楽天のホームページで探した駅前のグランヴィア広島というホテルだった。

 男は若いころ買っておいてほとんど目を通さずにいた『昭和万葉集秀歌』(講談社現代新書)を書棚から探し出して目をとおした。その中に幾つか目にとまった歌があった。その中に「(山東出兵)すがりきて 得耐へ兼ねたる涙声 あぎもをおきて 吾はゆくなり」「兵士らの 列にしたがひ急げるは その妻ならむ 児を負ひにけり」「死のきはの 兵が微笑に光たち やさしき母の 声よばはりぬ」「焼けた爛(ただ)れ 見分けもつかず なり果てど 穿(うが)てる靴は まさに吾子の靴」「吾が捕獲せし 若者の後を纏足(てんそく)の 母は追い来る 杖にすがりて」などがある。

 この中であぎもは吾妹、つまり妻のことである。纏足は当時中国で女性の足が大きくならないように幼児の時から布を巻きつけてそのように小さくなった足のことである。これらの歌は、『昭和万葉集』全20巻の中から、戦争と人間をテーマにした秀歌を、島田修二という人が編者となって選出したものである。この方は横須賀の方で1928年生まれである。中学校の授業でアメリカ人教師に英語を習い、お兄さんに続いて海軍兵学校に入り卒業しないまま終戦となった。江田島の兵学校で広島に落とされた原爆の赤いきのこ雲を見たという。『昭和万葉集』の撰者のひとりであられる。この方のお兄さんはフィリッピン沖で戦死されたということである。

 この『昭和万葉集秀歌』について、編者は「私はいうところの反戦主義者ではない。戦争が今後再びあってはならぬという点では人後に落ちないつもりだが、‘反戦’という言葉に戦争をもてあそぶひびきを感じて好きになれない。」と言っておられる。この方と思想は違うであろうが、男は社会には警察、国家には軍隊なしは社会や国家の秩序は保ちえないし安全も守られない、と考えている。

 日本はアジアを西欧の列強による浸食から守り、大東亜共栄圏を築くという理想のもとに、その地の政府から要請を受けて大陸に出兵し、その結果欧米やソ連との戦争に突入せざるを得なくなり、手痛い敗北を喫し、自国民はもとより戦場となった他国民にも甚大な被害を与える結果となった。今の時代と違ってその当時の日本は、資源も乏しく輸送力も乏しく、諸判断の基礎となる情報通信力も貧弱であった。その責任と結果について今を生きる日本人は誰をも国をも批判すべきでなく、全国民が等しくその責任を負うべきである。

 終戦記念の日に当たり男は数多の戦没者・戦死者の御霊に鎮魂の祈りをささげつつ、今の平和な世の中はその方々の犠牲の上に成り立っていると思っている。二度とあのような悲惨な戦争に日本が巻き込まれないようにしなければならにと思う。しかし、「戦争反対! 平和! 平和!」とただ叫んでいるだけでは日本は決して生き残れないと思っている。

2009年8月11日火曜日

ハンディな録音機(20090811)

男はオーディオのファイル変換について苦労していた。というのは、男は吟詠のブログを出しているのでるがせっかく録音したものを聴いてみるとプルルというような余計な雑音が混じっていたからである。ファイル形式はMP3である。録音機はS社製の旧式のものであるが、AM/FMラジオ録音ができてパソコン接続対応の機械である。これは男が女房にプレゼントしたものである。女房が放送大学で勉強する時、145分の講義を15回まで、タイマー録音ができる優れものである。ただし録音操作は男が手伝ってやっていたが・・・。
男はこれを吟詠の録音に使いブログに載せていた。男はMP3という形式がどういうものか知らないまま録音したものをブログに載せるとプレイヤーのサムネイルが表示されて、そのサムネイルの再生ボタンをクリックすると音が流れる。雑音混入だけが問題であった。録音する時マイクの位置を変えてみたり、反射音がはいらないようにいろいろやってみたり、マイクを変えてみたりしたが、音質の悪さは改善できなかった。
別の録音機に変えてみようと思い新横浜駅ビルに入っている家電量販店のアーディコーナーに立ち寄って店員に「圧縮雑音が出ないものが欲しい。」などといろいろ技術的なことを聞いた。その店員は「SP社製のように知られていませんがこの録音機が一番良いですよ。私は小説を書いていますが、その作業の時これを使っています。」と言う。誠実そうな好感のもてる好青年である。男はその店員が勧めてくれたものを買うことにした。すると女房が「私が買ってあなたにプレゼントする」と言って代金を支払ってくれた。
家に帰って早速その録音機を試した。再選音も非常に明瞭でプルルというような雑音は入らない。録音機能も優れている。ところが出力形式がWMAというもので、録音したものをブログに載せると今まで入っていたサムネイルが表示されない。MP3という拡張子でないと駄目らしい。インターネットでいろいろ調べてみるとMP3に比べWMA形式には良いところがあまりないらしい。調べてみるとWMAからMP3に変換する方法がいろいろあり、インターネットで入手できるソフトを使うのが最も良いことが分かった。
店員のアドバイスで無料ソフトでできるらしいことが分かったので、インターネットで探してみた。オーディオコンバーターというソフトをダウンロードして使ってみたら店員の言う通り非常に簡単にWMAからMP3に変換することができた。ところが再生してみると一定間隔で女性のある言葉が入る。そのソフトは英国で作られたもので、使用権を得ないとその言葉が消えないようになっていた。結局、そのソフト会社のソフト全てを無料で使用することができる権利を得るため、インターネットで6000円近くの料金を支払った。これは安い買い物であったと思う。男は今後映像も含むマルチメディアを自由自在に使いこなす能力を身につけることができるようになったのだ。女房に「やっと出来たよ!」と言ったら、「そう? 良かったね。」と喜んでくれた。
これからは男のブログに変な雑音が混じらない奇麗な吟詠の音声を載せることができる。下手な吟詠ではあるが・・・。

2009年8月10日月曜日

四苦八苦(20090810)

よく「本当にあれは四苦八苦したよ」というようなことを言う。四苦八苦とは生苦、老苦、病苦、死苦の四つの苦しみに、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦の四つの苦を加えたものであるそうである。男が若いころ買ってときどき手にしていた『仏教要語の基礎知識』という本にそのことが書かれている。男は『仏教の基礎知識』という本も同時に買い求めていた。いずれも水野弘元著、春秋社刊の本である。
男は人生はそれ自体‘苦’であるから、無知ゆえに自ら苦しみをつくらないように、煩悩ゆえに自ら苦しみをつくらないように生きるべきであると、その四苦八苦の意味を解釈している。もともと人間は無知である。先も見えないうちに行動している。自分の行為によって生まれてくる子供が将来どうなるかも予想もできずに夢中で行為する。もともと人は無知で何も知っていないのだ。自分が何も知っていないということを自覚している方が利口である。酒の席で隣の若い者に知ったかぶりをして蘊蓄を傾けるのは御愛嬌である。
自分は何も知っていないから、知るために勉強するしかない。「知は力」である。かといって人生を生きる上であまり必要でないことまで知ろうとして誰にでも平等な時間を無駄に費やすことはない。一番良いのは、良い先生の下で学ぶことである。‘学ぶ’は‘真似る’である。真似る先生が良い先生でないと分かればさっさとその先生の下を去り、新しい先生を求めればよい。今の時代、テレビや新聞などで自分が求める知識を得ることが簡単にできる。しかしそれだけでは耳学問の範囲を超えることはできない。やはり良い先生について習うことが一番であると思う。釈尊の弟子たち、キリストの弟子たちのように。
男はこの年になってどこかの大学の聴講生にでもなって、仏教をも少し深く勉強してみようかなと思っている。それが誰にでもある四苦八苦から逃れる良い道だと思う。今流の出家である。7580にもなって今更出家などと、自分でも思う。だから出家はしないまでも、多少それに近いことをあの世に行く前に実行しようかなと考えているのである。
芭蕉は弟子一人を伴ってみちのくの旅をした。何かの映画に一人の男が老妻を残してちょっと長い一人旅行をする物語があったと思う。男の場合、現実逃避ではなく、修行と執筆である。男のある5歳年上の友人は子供がいないが、奥様と二人で何カ月もかけて四国の八十八か所を行脚した。巡礼姿の写真に「旅をして一切物を持つ必要はないことが分かった」というようなことを書いた手紙を添えて男に送ってきたことがあった。彼の場合奥様もただ歩くことが好きで、お二人で旧東海道を歩いている。男の場合、男の女房は花や風景などを楽しみながら歩くことが好きで、目的地に向かって黙々とただ歩くことなど到底耐えられないだろう。花や風景や人との触れ合いや宿などを楽しみながら旅することは楽しみである。男はそれも楽しいと思っているが、男の心の中の別の男はどうも修行僧に憧れているようなところがある。これも煩悩で、自ら苦をこしらえているようなものである。
しかし7年ぐらい後、人生の締めくくりが近づいたころには何かしなければならないと思っている。芭蕉は旅を終えてまもなく他界した。それを真似たいわけではないが・・・。

2009年8月9日日曜日


子供の躾(20090809)

これは男の女房の話である。女房が先日ある女子トイレに行った時、そこに4歳ぐらいの女の子がいた。その子は手を洗おうとして洗面台に手を伸ばし水道のコックを触ろうとするが手が届かない。傍らにいた女房を見てこのおばちゃんなら手伝ってくれると思ったのか、女房に訴えかけるような顔をしている。女房がその子を抱えて手を洗わせてやった。その後手を拭くペーパーボックスにも手が届かない。そこでまた女房がその子を抱えてやってその子に自分でペーパーを取らせてやった。
ところが、その子は女房に「ありがとう」の一つも言わずに去って行った。女房が外に出るとその子のおじいちゃんらしい人がベンチに座ってその子に何か話しかけている。そのおじいちゃんは女房を見たが何も言わなかった。
以上のような話を女房は男に話した。男は女房に言った。「その女の子に‘ありがとうは?’と言ってやればよかったのに。俺だったらすぐそう言うね。社会教育だよ。」と。女房は「それはそうだけど、その時唖然としてすぐには言えなかった。」と言う。男は「そのおじいちゃんにも一言言ってやればよかったのだ。‘子供に、ありがとうと言わせるようにして下さい’とね。教えざるの罪というものがあるのだよ。」と言ったが、女房は「私にはそんなことは言えない。何十年も生きてきた人間が今更変わるわけではない。」と言う。
件のおじいちゃんも女の子も言語障害を持っているわけではあるまい。ただ人に頭を下げて「ありがとうございました。」と言う習慣が身についていないだけなのだ。道にぽいと投げ捨てする人間も、行楽地の川に平気でゴミを捨てる若者たちも、皆悪い習慣を身につけているだけだ。つまりよい習慣について小さいときから誰からも教えられていないのだ。氏や生まれが悪いわけではない。生後の教育が悪かったのだ。電車やバスの中で「携帯電話は電源を切るかマナーモードにして周囲のお客様に迷惑にならないようにして下さい。」と繰り返し車内放送されるから、人々はその行為を自制しているのである。もし女性のマナーについて「社内ではお化粧はやめましょう。」と放送されるようになれば、そのような行為はなくなるだろう。
日本では公共の機関が公衆道徳について繰り返し呼びかけても、あまり非難の声は上がらない。わが国は日本国家として精神の背骨をしっかり確立し、日本人が昔から身につけている「他人に後ろ指をさされないようにする。」「名誉を重んじる。」と言うような秩序を大事に考えるべきである。日本人は日本人である。外国の、特にアメリカの悪いところを真似すべきではない。美しい日本、古い文化と伝統のある日本が一番である。
日本人はいくら洋装しようと、また世界の中で生き抜くため白人のような思考様式を身につけようとも、心の中ではちょんまげ姿で、着物を着、袴を穿き、腰に大刀を帯び、悠然と立っている姿のイメージが最も似合うのである。今の時代でも武士道の精神を身につけている日本人を欧米の心ある人たちは尊敬の眼で見るのである。心の中まで白人のように変わる必要はない。若者よ! 幕末から明治の父祖たちのごとく、真の日本人であれ!

2009年8月8日土曜日

国家の背骨の精神を考えよ(20090808)

今月30日の衆議員議員の選挙に向けて各党は政策を訴えるのに懸命である。日曜討論会では子供手当のことが議論されていた。子供の養育については各党それぞれ表には直接出さないが、潜在的基本的な考え方、すなわち子供は未来を担う社会の宝と考えることは同じであると思う。そのため社会がどう関わるかという具体的方法については、各党まちまちな考え方をしている。子供の養育について自民党は社会的支援を与えるべき家庭をその家の所得を考慮して決めようと考える。一方民主党は家庭所得に関係なく一律にしようと考える。その他の党もそれぞれ視点が違う。違っていて当然である。
ところが、各党とも一番肝心な視点が抜けていると男は考える。それは、国家として子供たちをどう育て上げるべきかという視点である。動物たちは種族を保存するために本能的な行動をする。それは動物の種類によってそれぞれ生物学的特質が違っているので、その違いに応じてそれぞれ違っている。国家もその成り立ちや資源や国土の大きさや地政学的状況などによって当然違って然るべきである。わが日本国家として国家の将来を担う子供たちをどのように育て上げ、国家の存続、繁栄を守ろうとするのかという視点がまずあって、その上でわが国の現状に見合う対策はこうである、という考え方をすべきである、と男は考える。「子供は国の宝であるから今更そのようなことを取り上げなくても皆分かっていることである。」と各党は思っているのだろうか?
善きにつけ悪しきにつけ明治憲法下では子供を育てる上での国家の目標があった。国家としての秩序があった。だからわが国は開国後非常に短い期間で世界の列強に伍する力を身につけることができた。今年横浜開港150周年が祝われている。長い鎖国の夢から覚めた日本人はドイツやフランスやイギリスやアメリカから優秀な人材を非常に高い報酬で雇い入れ、急ピッチで日本の近代化を推し進めた。海外に出て活躍していた多くの中国人たちに居留地を与えて日本と列強諸国を結びつける役目を担わせた。士族も平民も、また最下層の人たちも四民平等にし、貧乏人の子供でも優秀な子供には社会が教育の機会を与え、国家の発展に必要な人材の育成を推進した。当時の政府も国民も日本国家としての問題を共有していた。「御国の為」という言葉を誰もが日常に使っていた。
今自民党も各党もそのようなことは棚に上げ、国の繁栄、国民の所得を増やして豊かになるといった経済的なことだけに視点をおいて政策を議論している。男に言わせれば「どいつもこいつも旦那に媚を売る妾のような根性の持ち主のようなもの」である。確かに選挙に勝たなければどうにもならないであろう。しかし、国家としての筋道を立てるためならたとえ選挙に負けても構わないという気骨を秘めた政党が、人気取りではない、しっかり地に足のついた政策を掲げて国民に信を問うようになって欲しいと男は思う。自民党は国民の人気を落とすようなことを多少述べてはいるが及び腰である。
民主党は官僚の数を減らすと言っているが、しっかりとした官僚組織あってこそ国は成り立つ。その視点の上で天下り対策等現状の問題の解決法を国民に問うべきである。民主党は「政権交代願望症候群」で、地に足のつかない人気取り政策を前面に押し出している。
男は立候補者たち、政党のリーダーたち、中央官庁の官僚たちに対して、古の昔からわが日本国はどのような国家体制で近現代に至るまでの歴史を辿ってきたかよく勉強し、国家の背骨の精神が何であるかということついて改めて思いを致して欲しいと願っている。

2009年8月7日金曜日

心のブレーキをかけ過ぎない(20090807)

 BS-2で『気ままに寄り道バイク旅』を放映していた。男はこのブログを書くのに忙しく番組を観ている女房が「わー!見て!」などと歓声を上げているたびに居間に行きその番組に目をやるのであるが、青森の旅では去年ツアーで行った日本海側の千畳敷や本州最北端の大間崎などの風景が放映されていて懐かしく思った。男と女房は若いころ青森に2年半ほど住んでいた。子供たちもそれぞれ小学校、中学校に通っていた。その頃は若かったので週末や休日のたびに子供たちを連れて奥入瀬、十和田、下北などよくドライブして回ったものである。女房が還暦のとき二人の息子たちはそれぞれ家族があるのに昔の親子4人になって、今度は息子たちが車を運転して再度青森を訪れた。その当時の学校や家の近くの三角屋根の家などは当時のままであった。

 番組では、瀬戸内海の島々をバイク旅で回る様子が放映されていた。男と女房は瀬戸内海にはまだ一度も行ったことがない。大阪に二人の息子たちが住んでいて、「今度いつか車で四国に連れて行きたい。」と言ってくれている。しかし四国の今治から尾道に至る島々を巡る旅は、男と女房の二人だけで3日くらいかけて気ままに巡ってみたいと思う。番組の中で清水さんという方が「心のブレーキをかけ過ぎないことだ」と一緒に回っているエッセイストの若い女性に語っていた。そう、男も女房ももう既に余命が何十年もあるわけではないので、やっておきたい、と思うことはすぐにでも実行した方がよいと思っている。

 老母を看るためこの秋また九州の田舎に帰るが、その途中瀬戸内海の島々を気楽に回る旅をしながら帰ろうと思う。90歳になった老母はまだまだ元気である。途中寄り道をしながら帰っても問題はない。この計画には女房も賛成である。男も女房もバイクの趣味はないので番組で放映されたようなことはできないが、公共の交通機関と、どうしても必要な所ではタクシーやハイヤーを利用し、なるべく自転車や徒歩で、是非訪れておきたいと思うスポットを、美味しい海の幸や山の幸を頂きながら、最も効率よく最も低コストで巡ろうと思う。宿は気楽に気持ち良く泊まれるところなら民宿でも安宿でもどこでもよい。高級なホテルや旅館などには泊まりたいとは思わない。

 男はこれから毎日のように旅行計画を立てるため情報を集めたり、調べたりするつもりである。情報収集、企画、立案などは男の最も得意とするところである。今度の旅には番組のエッセイストが携帯していたようなパソコンを携行し、旅をしながら旅の状況を記録したり、随筆を書いたり、短歌を創ってみたり(?)、ブログに投稿したりしようと思う。女房は女房でカメラワークを楽しむことだろう。この秋、いい旅になりそうだ!

2009年8月6日木曜日

横浜港花火大会(続き)(20090806)

 81日土曜日、女房が小さなソファに寝そべって、窓から見える横浜港の花火を見ている。打ち上げ花火がパッと開いて暫くして「ポン」と音が聞こえてくる。715分から始まった今年は横浜開港150周年の花火らしく、かなり大きな花火が沢山華やかに上がっているようである。昨日歩いたみなとみらいの海岸では、3日がかりで場所取りした人たちが大きな歓声をあげながら観ていることであろう。昨日の血相を変えて場所を探してせかせか歩いていた60代女性と、その後をのんびり歩いてついて行った背の高い男性のカップルも、間近で迫力ある打ち上げ花火を楽しんでいることであろう。

 男が女房に、「来年はどこか適当なところに場所を確保して、花火を観ようね。」と言ったが、女房は無言である。時折大きな花火が高く上がっているのを観て「ほら、ほら、観て!観て!奇麗でしょう?」と言う。男が2、3度「来年は近くで観ようね。」と語りかけたが、女房のほうは花火に夢中なのか、来年のことは分からないと思っているのか、敢えて前もって場所を確保しておいてまで観ることはないと思っているのか、返事がない。

 男はふと来年花火を観ることができないことが起きるのかもしれない、と悪い予感がしたように思った。女房は昔お茶を習っていて免状までもらっているので一期一会の気持ちが強い。男もそう考えて、いつも今のこの時を大切にしなければならないと思っている。
花火が終わってまたいつものように夜のスロージョギングとウオーキングに出かける。女房にはLEDで遠くまで黄色の光の点滅が見えるバンドを持たせ、男はLEDの懐中電灯を持つ。これらは先日東急ハンズで買ったものである。

 女房が「今日は歩くだけにする。昨日随分歩いてちょっと疲れたから」と言う。そこで今夜はT側の水辺の夜景を楽しみながら歩くことにする。「今夜は彼らはいないだろう。連中は横浜の花火に行っているはずだから」と言ったが、今夜も彼らはいた。‘彼ら’というのは、156の子供たちのことである。不良少年たちではないが、それぞれチャリンコで川辺の暗い所に集まり、別に悪いことをしているわけではないが、友達同士でいろいろ語り合っている。歩きながら見ていると、一人の子がもう一人の子にタックルしたようで、タックルされたらしい子がしゃがみ込んでいる。他の45人の子たちは楽しそうにだべっている。歩きながら男が「いじめられているのではないか」と言ったら、女房は「違うと思う」と言う。それでも男は気になって、何度も振り返りながら彼らの様子を見た。暗いのでそのうち彼らは男の視界に入らなくなった。

 男は、来年こそ必ず横浜港の花火大会を見にゆくことにしようと、心に決めた。家に帰り着いていつものように歩数計を見たら7000歩ほどカウントされていた。そのうち今夜のウオーキングの分は6000歩ほどである。昨日は二人とも12000歩ほど歩いていた。昨夜は歩くだけでなく、コースの半分ほどは二人足並みを揃えてタッタッタッタッとスロージョギングした。シャワー浴びて体脂肪を測ったら二人とも一応合格の数値であった。女房は毎朝毎晩血圧を測り、一日に歩いた歩数と体脂肪などを記録票に記録している。

2009年8月5日水曜日

横浜港花火大会(20090805)

7月末日、曇り空の昼下がり、横浜みなとみらい象の鼻公園を散歩しているとあちこちにビニールシートを敷いたり粘着テープで一定区画を囲ったりしている。金曜日だというのに大の男が2、3人シートの上に寝そべって会話している。60代後半と思われるカップルが何か持って、背の低い女性の方がせかせか血相を変えて場所探しをしている。その後を背が高く、髪が薄く禿が目立つ男性がのんびりとついて歩いている。女房はそれをみて可笑しがる。「男はお人よしなんだから」と言う。
70代後半ぐらいと思われる小柄な品の良い女性が小さな空きスペースに青いビニールシートを敷いている。女房が「ご苦労さんです。花火はどこで打ち上げるのですか?」と聞く。女性は「あそこですよ」と港の大黒埠頭のあたりを指さす。「花火大会はいつなんですか?」と重ねて聞く。「明日の夜7時からです。私はこの近くに住んでいるのです。」とその女性は答える。男が「毎年来ているのですか?」と問うと、女性は「いえ、初めてなんですよ。今年は孫が来るので見せてやろうと思いましてね。来てみたらもう一面場所取りされていて。みな昨日から場所を取っているみたいです。会社関係の人たちが多いみたいです。」と驚いている。男も女房もそれを聞いて同じように驚いた。明日の花火大会のために昨日から場所取りしているのだ。
女房はこの花火大会を何年か前に見たという。「お父さんとけんかして、一人で横浜に来た時、そごうの上で見たのよ。」と言う。男はそれを聞いて、悪いことをしたな、と思った。けんかの原因は男だけにあるわけではない筈であるが、一点曇りのない純白な心を持っている女房に対しては、男は自らを責めなければならない部分を自覚しているからである。
仏は女房を‘方便’として男を仏に近づけて下さっている。一方、仏は男も‘方便’として女房を仏に近づけている。この世の人間は皆、仏の‘方便’として存在しているのだ。

2009年8月4日火曜日

年寄りの靴(20090804)

横浜のみなとみらいの象の鼻公園を老いた男が中年の女性のガイドに付き添われて楽しそうに会話しながら散歩している。その老人は若い人が好んで履くような格好の良いスニーカーを履いている。しかしそのスニーカーのかかとの部分が23センチも隙間があるようなぶかぶかの靴である。女房は「年寄ってあんなぶかぶかの靴を履きたがるのよね。履き易いのかしら。」と言う。
男は「そうだと思う。福祉用品の靴で、横でぱちっととめるような履きやすい靴があるよね。でも店で売っているものはどれも格好が良くない。メーカーは体が不自由になった年寄りの靴はそのような靴がよいと頭から決めてかかっている。しかし年寄りは若い人のような格好の良い靴を履きたいのだ。」と自分があのような一人では散歩できないような年寄りになったときのことを想像しながら、女房の言葉に応じた。
男はメーカーが若者が履くような格好の良いもので年寄りが履きやすい靴を作れば、多少値段が高くっても年寄りはその靴を買うだろう、年寄りの心理をよく汲み取った靴を作れば、年寄りは買うはずだ、とそのとき女房には話していた。しかし今これを書いているとき、男は自分があの老人のような年齢になってみないと、あの年齢の老人の本当の気持ちは分からないだろうな、と思っている。

2009年8月3日月曜日

菊地寛『恩讐の彼方に』に寄せて(20090803)

 詩吟『青の洞門』は、網谷一才という人が菊地寛『恩讐の彼方に』をもとに詩文を作ったものを吟ずるものである。男はその吟詠をブログにアップロードするため、毎日練習して録音し、自分の吟を自分で聴きながら少しでも良い吟詠になるように努力している。
男はその吟詠をしているとき、今様の「罪を重ねし 償いに 立てし悲願の 奉仕行 南無観世音 大菩薩 諾い給え 我が願い」という部分で、『恩讐の彼方に』に登場する了海という僧侶を自分自身に重ね合わせて詠っている。

 男は何かの本で定年を過ぎた一人の男がその妻に「すまなかった」という懺悔の気持ちを抱いている話を読んだことがある。世の定年を過ぎた男たちの一部には、そのような気持ちを抱いている人がいるのではないかと思う。そのような男たちの女房は多分夫によく尽くした女房であるが、その夫の方は過去の生活の中で女房を裏切るような行為をしたことが何度かあるからであろうと思う。

 男の女房は男に「私はお父さんに精一杯のことをして来たから何も思い残すことはない。もし私が先に死んだら、私は満足しきっていたと思ってね」という。男の女房の心は純白で曇りが一点もないほど男に対して精一杯の真心を尽くしてきた。それにひき比べ男の方は女房に対してやましいことが一つもなかったとは言い切れない。そこで、男は老境に入っている今、その今様の歌詞のとおり奉仕行のつもりで女房に対して精一杯のことをしているつもりである。前のように短気にならないようにして女房に優しい言葉をかけているし、どんなに疲れていても女房に対する思いやり、気遣い、心配りを忘れないようにしている。キッチンボーイ(713日のブログ)も一生懸命やっている。勿論、それは男がうわべだけでそうしているのではない。男は心から女房を愛し、いたわっているのである。

 ちなみに「キッチンボーイ」という言葉は昨年男の家にサンディエゴからやってきて10日間滞在していたスエーデン生まれのアメリカ人Eという女性が男に名付けたあだ名である。そのとき男は台所で食器洗いをしていた。彼女はそれを観察していてそう言ったのである。Eは男と同年である。Eの夫Lは男の上司であり友人でもあった。Lは13年前前立腺がんで他界したがその1年前、男は出張の折、ロスアンジェルスで二人に会っている。レドンドビーチのレストランの前でEが撮った男と痩せたLが写っている一枚の写真がある。その時Lは男のことを「オールド・フレンド」と言っていたことを思い出す。
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/06/19xx-20-3-1-2-7-2-10-10-10-10.html

 男はつくづく思う。演歌でもフォークソングでも、歌は人の気持ちを爽やかなものにする。男の場合、詩吟の詩文が演歌やフォークソングなどの代わりになっている。先日女房と京都に遊んだとき、竜安寺の庭で「吾只足るを知る」を一文字にまとめて彫ってある石盤を見た。これは以前に何度も見たものであるが、今回は特別な思いで見た。現在の男には足りないものは何一つない。良寛の『意(こころ)に可なり』は「慾無ければ一切足り、求る有れば万事窮す」と詠い始めるが、これを独り口ずさむ。

 西郷南洲の『天意を識(し)る』は、第4行(尾聯)は「如(も)し能(よ)く天意を識(し)らば 豈(あに)敢えて自ら安きを謀らんや」で結ばれている。「天意を識る」ということは「自分の人生の役割を認識する」ということである。男は天意を全うし、全うしつつあると思っている。

2009年8月2日日曜日

自民・民主のマニフェスト(20090802)

 830日の衆議院議員の選挙に向けて自民・民主のマニフェスト合戦が盛んである。男が最も関心があるわが国の安全保障について、民主党はあれほど反対していたインド洋の給油活動やソマリヤ沖の海賊対策についてまだまだ踏み込み足りていないが、一応前向きな姿勢を示したし、北朝鮮の貨物船検査については自民党と変わらない考え方を示した。自民党は道州制移行についてマイルストーンを示した。所得も100万円アップの計画を示した。自民党は及び腰であるが、民主党はアメリカ並みに高速道路の無料化を打ち出した。

 民主党は高校生まで義務教育化することについてまでは言及していないが、授業料の無料化も打ち出した。自民党は民主党に対して財源の裏打ちをどうするか疑問を呈しているが、民主党の鳩山代表は、「よく精査した結果財源の裏打ちは出来ている。」と反論し、「もしマニフェストという国民に対する契約を履行できなかった場合は責任をとる」と全国行脚の説明会で訴えている。男には鳩山代表の後者の言、「責任をとる」という口上は、掲げた政策を100%実行できないことを前提にした逃げ道を予め用意しているように見える。

 一方横浜の中田市長は辞任することを発表し、議長に辞表を提出した。「衆議院議員選挙には立候補しないが、新たな政治団体を立ち上げる、現状では日本は滅びてしまう」と言っている。男は女房に「衆議院は自民党も民主党も過半数を取れず、友党との寄り合い所帯で選挙で掲げたマニフェストは実現できない。そうなるとまた1年もしないうちに衆議院は解散されるだろう。そうなると寄り合い所帯で国政を運営するのではなく、党派を超えて考え方の近い国会議員同士が集合して新たな政党を立ち上げることになる。中田市長はそのことを念頭に置いて行動を起こしたのだと思う」と話した。

 男は男のような老人層、大東亜戦争(男は太平洋戦争とは言いたくない)のトラウマを引きずる古い世代の者は、政財界から身を引くべきであると思っている。中田市長がもし、男が願っているように万世一系の皇統を維持し、国軍を持ってそれを外交推進の力とし、国家秩序や家庭の秩序を大事に思うという理念を共有できるならば、老躯ながら中田氏を応援したいと思っている。ふわふわしたような国家ではなく、背骨のしっかりしている国家として、わが国は世界をリードするようにならなければならない。「光は東方から」である。わが日本国は古来日出る国、東海の扶桑の茂る国である。

 四面海洋に囲まれているわが国は、資源小国どころか資源大国になり得る可能性を秘めている。女のように笑みをたたえて誰かにすりより、自らの身を守ろうとするのではなく、逆に日本国は世界のリーダーとして、この宇宙に浮かぶ宇宙船地球号の船長として、人類の平和共存を推進するようにならなければならない。それが日本が未来永劫平和で安全で栄え続ける唯一の道であると男は思っている。

 自民党でもない、民主党でもない第3極の政党が近い将来必ず旗揚げするであろう。恐らく多くの自民党議員も民主党議員も、特に若い世代の議員は少なくとも潜在意識的にそう予想しているに違いない。

 元大リーガー井口氏の趣味は国会中継を見ることだと言う。歴史は大体70年周期で変わると言われているが、世代交代により70年周期で歴史が繰り返すのではなく、西暦2010年から2015年にかけてわが国は新たな時代に入ることになるだろう。男はその新たな時代に入るわが日本国を、この目で確かめたいと思う。多分それはできると思う。

2009年8月1日土曜日

なかなか大人になれない青年男女が多い(20090801)

私立大学は在籍学生数が減少するとその経営を圧迫する。某私立大学では中途退学者が3割を超える状況であるため、学生を大学に踏み止まらせようといろいろ苦心しているようである。その一つとして大学内に学生が夜遅くまで残っていて仮眠もできる部屋を用意している。学生の居場所を作るというわけである。また、大学の授業の中で3年後、4年後の自分の履歴書を想像して書かせるという。教員が学生に「これを書いてくれるかな?」と頼んでいる。男はそのテレビ報道を見て顔をしかめた。
昔はそんなことはなかったが、もう10年も前ごろから大学の入学式や卒業式に「わが子」の晴れ姿を見て自分もその雰囲気を共有したいと親が参加するようになっている。もう234歳にもなる青年男女の卒業式に親も出席する。もう189歳にもなる青年男女の入学式に親が同伴する。今の時代は子供が245歳になってやっと成人するということか。
高校卒業後すぐ就職したり、専門学校に行って生きる力を身につけたり、自衛隊や警察や消防などに就職したりする青年男女がいる一方で、まだまだ大人になりきれない青年男女がこの日本には沢山いる。特に女性は、もうとっくに結婚して子供を育てているべき年齢に達しても、いつまでもカワイイ女の子でありたがる者が多い。電車の中で人目もはばからず化粧をしている。尤も時々いい年のオバさんが、そのようなことをしている場面をみかけることがあるが・・・。
日本全国の青年男女の中で大人になりきっていない者はどのくらいの割合で存在しているか調査しているのだろうか。多分どこかの調査機関でそのような調査をしていると思うが、男はそのような未熟の青年男女は青年男女全体の数の34割はいるのではないかと思う。来月末衆議員議員の選挙が行われるが、立候補者の中でどのくらいの人が、次代を担う世代に潜在する問題を、問題として認識しているだろうか。
調査機関が発表する統計データを鵜呑みにするのは危険である。街頭を歩きながら、或いはテレビや新聞や雑誌の報道を大雑把に入手しながら、自分自身の感覚で状況を把握し、問題があるかないか判断することが大変重要である。その上で統計データを参照し、自分の判断が正しいかどうか判定すればよい。
男はそのような統計データを見ずに言うのであるが、親の庇護から離れられない大人が多いことは確かであると思う。親と同居していれば衣食住には困らない。親も身近に相談できるわが子が居れば安心である。そのような親子が我が国の全体の親子の56割はいるのではないかと思う。男の近くにもそのような親子がいる。
男が息子たちを育てていたとき、男の子は意志が強くて体が丈夫であれば人生を生き抜いて行くことができる、子供は塾に無理やり行かせる必要はないと考えてそのとおり実行した。男の女房も子供にはいろいろ経験させる、経験がいい勉強になると言ってそのとおり実行した。二人の息子たちには希望通り、高校や大学を休学させて、それぞれ1年間海外での経験をさせた。その間、息子が命を落としたかもしれない危険にも遭ったこともある。二人とも20歳前後のときに家から出て、列車を利用すれば1時間ぐらいで行けるところに住んだ。男と女房は、それぞれ家を出て一人住まいさせるとき、アパートの敷金、権利金、テレビ、冷蔵庫、エアコンなどの初期費用相当分を補助してやった。
上の息子は小学校4年のときからアルバイトをした。勿論親である男の了承なしには新聞店は雇わなかったが本人が希望するのである新聞店に雇ってもらい、数ヶ月間早朝の新聞配りをした。その後冬のまだ朝も明けやらぬうちから豆腐屋で働き、得た給金で男に冬の防寒着を買ってくれたことがある。高校生になって夏の暑い日に鉄工所で板金加工のアルバイトをしたこともある。男の家では子供にそのようなことをさせなくても十分豊かな暮らしが出来ていたが、男と女房は、子供の教育のためそのような経験をさせたのである。息子は高校2年の時カルフォニアの公立高校に留学したが、帰国後教育について書いた論文に「日本の教育は‘教’であり、アメリカの教育は‘育’である」という趣旨のことを論述してあった。男は息子のその論文を読んで非常に感心した。また「アメリカでは息子が18歳になると親父は息子にポイとボストンバッグを与え、この家から出てゆけ、と言う。」と話してくれたことがある。
下の息子は大学4年の時1年間インド、ネパール、パキスタン、中近東諸国、ギリシャ、イタリー、オーストリー、ドイツなどを独り旅して回った。インドでひと月ほど滞在していた。その間香港で知り合った韓国の画家と一緒に11000円前後の経費でインド国内を旅し、水が合わず下痢をし、インド人が進めてくれた治療薬で治ったこともあった。
トルコでドイツの青年と知り合い、その縁でドイツ南部のある町のその青年の家に泊めてもらった。ドイツからオーストリーのウイーンまでヒッチハイクで行き、そこから韓国まで飛び香港で知り合った画家の家に泊って数日間過ごし、ようやく日本に帰国した。その資金の多くは自分でアルバイトをしながら貯めたお金である。息子が旅行中の連絡はアメリカンエキスプレスカードの各国の現地事務所である。そこに手紙やちょっとした品物を送っておけば、事務所を訪れた息子が受け取ることができた。インドでは息子が求めてきたのでせっかく送ってやった味噌などが本人に届かなかったこともあったが・・・。
今二人の息子はそれぞれ267歳で結婚し子供ももち、それぞれ青年時代の経験が役に立って、それぞれ海外にもよく出張する大きな仕事を成し遂げている。特に上の息子はひと月の大半を日本や韓国の取引先の顧客と一緒に海外に出張しているような仕事をしている。男の父親も韓国で教職に就いていた。何か見えざる糸で繋がっているのだろうと思う。
男も女房も親として思い残すことは何もない。息子たちは男が自分の人生で出来なかったことを次々成し遂げている。男も女房もそれぞれ自分たちの人生に十分満足しきっている。一日朝が来て晩になり、また明日の一日を迎える。自然とともに、宇宙の運行とともに、余生を静かに送るだけである。それぞれ生かされ、天命の役割を果たした人生である。
人にはぞれぞれ天に与えられた役割がある。その役割は何か、若いうちに自覚することが重要である。それには人生の先輩からの教え導きが必要である。大河ドラマ『篤姫』の義父・島津斉彬や実父実母が篤姫を教え導いたように・・・。