2009年8月3日月曜日

菊地寛『恩讐の彼方に』に寄せて(20090803)

 詩吟『青の洞門』は、網谷一才という人が菊地寛『恩讐の彼方に』をもとに詩文を作ったものを吟ずるものである。男はその吟詠をブログにアップロードするため、毎日練習して録音し、自分の吟を自分で聴きながら少しでも良い吟詠になるように努力している。
男はその吟詠をしているとき、今様の「罪を重ねし 償いに 立てし悲願の 奉仕行 南無観世音 大菩薩 諾い給え 我が願い」という部分で、『恩讐の彼方に』に登場する了海という僧侶を自分自身に重ね合わせて詠っている。

 男は何かの本で定年を過ぎた一人の男がその妻に「すまなかった」という懺悔の気持ちを抱いている話を読んだことがある。世の定年を過ぎた男たちの一部には、そのような気持ちを抱いている人がいるのではないかと思う。そのような男たちの女房は多分夫によく尽くした女房であるが、その夫の方は過去の生活の中で女房を裏切るような行為をしたことが何度かあるからであろうと思う。

 男の女房は男に「私はお父さんに精一杯のことをして来たから何も思い残すことはない。もし私が先に死んだら、私は満足しきっていたと思ってね」という。男の女房の心は純白で曇りが一点もないほど男に対して精一杯の真心を尽くしてきた。それにひき比べ男の方は女房に対してやましいことが一つもなかったとは言い切れない。そこで、男は老境に入っている今、その今様の歌詞のとおり奉仕行のつもりで女房に対して精一杯のことをしているつもりである。前のように短気にならないようにして女房に優しい言葉をかけているし、どんなに疲れていても女房に対する思いやり、気遣い、心配りを忘れないようにしている。キッチンボーイ(713日のブログ)も一生懸命やっている。勿論、それは男がうわべだけでそうしているのではない。男は心から女房を愛し、いたわっているのである。

 ちなみに「キッチンボーイ」という言葉は昨年男の家にサンディエゴからやってきて10日間滞在していたスエーデン生まれのアメリカ人Eという女性が男に名付けたあだ名である。そのとき男は台所で食器洗いをしていた。彼女はそれを観察していてそう言ったのである。Eは男と同年である。Eの夫Lは男の上司であり友人でもあった。Lは13年前前立腺がんで他界したがその1年前、男は出張の折、ロスアンジェルスで二人に会っている。レドンドビーチのレストランの前でEが撮った男と痩せたLが写っている一枚の写真がある。その時Lは男のことを「オールド・フレンド」と言っていたことを思い出す。
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/06/19xx-20-3-1-2-7-2-10-10-10-10.html

 男はつくづく思う。演歌でもフォークソングでも、歌は人の気持ちを爽やかなものにする。男の場合、詩吟の詩文が演歌やフォークソングなどの代わりになっている。先日女房と京都に遊んだとき、竜安寺の庭で「吾只足るを知る」を一文字にまとめて彫ってある石盤を見た。これは以前に何度も見たものであるが、今回は特別な思いで見た。現在の男には足りないものは何一つない。良寛の『意(こころ)に可なり』は「慾無ければ一切足り、求る有れば万事窮す」と詠い始めるが、これを独り口ずさむ。

 西郷南洲の『天意を識(し)る』は、第4行(尾聯)は「如(も)し能(よ)く天意を識(し)らば 豈(あに)敢えて自ら安きを謀らんや」で結ばれている。「天意を識る」ということは「自分の人生の役割を認識する」ということである。男は天意を全うし、全うしつつあると思っている。