2009年8月10日月曜日

四苦八苦(20090810)

よく「本当にあれは四苦八苦したよ」というようなことを言う。四苦八苦とは生苦、老苦、病苦、死苦の四つの苦しみに、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦の四つの苦を加えたものであるそうである。男が若いころ買ってときどき手にしていた『仏教要語の基礎知識』という本にそのことが書かれている。男は『仏教の基礎知識』という本も同時に買い求めていた。いずれも水野弘元著、春秋社刊の本である。
男は人生はそれ自体‘苦’であるから、無知ゆえに自ら苦しみをつくらないように、煩悩ゆえに自ら苦しみをつくらないように生きるべきであると、その四苦八苦の意味を解釈している。もともと人間は無知である。先も見えないうちに行動している。自分の行為によって生まれてくる子供が将来どうなるかも予想もできずに夢中で行為する。もともと人は無知で何も知っていないのだ。自分が何も知っていないということを自覚している方が利口である。酒の席で隣の若い者に知ったかぶりをして蘊蓄を傾けるのは御愛嬌である。
自分は何も知っていないから、知るために勉強するしかない。「知は力」である。かといって人生を生きる上であまり必要でないことまで知ろうとして誰にでも平等な時間を無駄に費やすことはない。一番良いのは、良い先生の下で学ぶことである。‘学ぶ’は‘真似る’である。真似る先生が良い先生でないと分かればさっさとその先生の下を去り、新しい先生を求めればよい。今の時代、テレビや新聞などで自分が求める知識を得ることが簡単にできる。しかしそれだけでは耳学問の範囲を超えることはできない。やはり良い先生について習うことが一番であると思う。釈尊の弟子たち、キリストの弟子たちのように。
男はこの年になってどこかの大学の聴講生にでもなって、仏教をも少し深く勉強してみようかなと思っている。それが誰にでもある四苦八苦から逃れる良い道だと思う。今流の出家である。7580にもなって今更出家などと、自分でも思う。だから出家はしないまでも、多少それに近いことをあの世に行く前に実行しようかなと考えているのである。
芭蕉は弟子一人を伴ってみちのくの旅をした。何かの映画に一人の男が老妻を残してちょっと長い一人旅行をする物語があったと思う。男の場合、現実逃避ではなく、修行と執筆である。男のある5歳年上の友人は子供がいないが、奥様と二人で何カ月もかけて四国の八十八か所を行脚した。巡礼姿の写真に「旅をして一切物を持つ必要はないことが分かった」というようなことを書いた手紙を添えて男に送ってきたことがあった。彼の場合奥様もただ歩くことが好きで、お二人で旧東海道を歩いている。男の場合、男の女房は花や風景などを楽しみながら歩くことが好きで、目的地に向かって黙々とただ歩くことなど到底耐えられないだろう。花や風景や人との触れ合いや宿などを楽しみながら旅することは楽しみである。男はそれも楽しいと思っているが、男の心の中の別の男はどうも修行僧に憧れているようなところがある。これも煩悩で、自ら苦をこしらえているようなものである。
しかし7年ぐらい後、人生の締めくくりが近づいたころには何かしなければならないと思っている。芭蕉は旅を終えてまもなく他界した。それを真似たいわけではないが・・・。

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