2009年8月12日水曜日

昭和万葉集(20090812)

 昨日(6日)は広島平和記念日であった。毎年この日、蒸し暑い広島の原爆記念公園で行われる式典に、今年は国民の人気度は対抗馬民主党鳩山代表よりはずっと低いが、逆境にもめげずに愚直なまで一所懸命に、政権政党としての政策とこれまでの成果を国民に訴え続けている麻生太郎首相が出席された。

 男は何年か前、女房と一緒に広島を訪れている。『男たちの戦艦大和』という映画があって、二人でその映画を観たあと、広島、厳島神社、呉にある戦艦大和記念館などを観て回った。原爆記念公園の片隅に、被爆して亡くなられた朝鮮人たちの霊を弔う記念碑が建っていた。名野球選手だった張本勲氏は広島のご出身であったという。二人が泊まった宿はインターネットの楽天のホームページで探した駅前のグランヴィア広島というホテルだった。

 男は若いころ買っておいてほとんど目を通さずにいた『昭和万葉集秀歌』(講談社現代新書)を書棚から探し出して目をとおした。その中に幾つか目にとまった歌があった。その中に「(山東出兵)すがりきて 得耐へ兼ねたる涙声 あぎもをおきて 吾はゆくなり」「兵士らの 列にしたがひ急げるは その妻ならむ 児を負ひにけり」「死のきはの 兵が微笑に光たち やさしき母の 声よばはりぬ」「焼けた爛(ただ)れ 見分けもつかず なり果てど 穿(うが)てる靴は まさに吾子の靴」「吾が捕獲せし 若者の後を纏足(てんそく)の 母は追い来る 杖にすがりて」などがある。

 この中であぎもは吾妹、つまり妻のことである。纏足は当時中国で女性の足が大きくならないように幼児の時から布を巻きつけてそのように小さくなった足のことである。これらの歌は、『昭和万葉集』全20巻の中から、戦争と人間をテーマにした秀歌を、島田修二という人が編者となって選出したものである。この方は横須賀の方で1928年生まれである。中学校の授業でアメリカ人教師に英語を習い、お兄さんに続いて海軍兵学校に入り卒業しないまま終戦となった。江田島の兵学校で広島に落とされた原爆の赤いきのこ雲を見たという。『昭和万葉集』の撰者のひとりであられる。この方のお兄さんはフィリッピン沖で戦死されたということである。

 この『昭和万葉集秀歌』について、編者は「私はいうところの反戦主義者ではない。戦争が今後再びあってはならぬという点では人後に落ちないつもりだが、‘反戦’という言葉に戦争をもてあそぶひびきを感じて好きになれない。」と言っておられる。この方と思想は違うであろうが、男は社会には警察、国家には軍隊なしは社会や国家の秩序は保ちえないし安全も守られない、と考えている。

 日本はアジアを西欧の列強による浸食から守り、大東亜共栄圏を築くという理想のもとに、その地の政府から要請を受けて大陸に出兵し、その結果欧米やソ連との戦争に突入せざるを得なくなり、手痛い敗北を喫し、自国民はもとより戦場となった他国民にも甚大な被害を与える結果となった。今の時代と違ってその当時の日本は、資源も乏しく輸送力も乏しく、諸判断の基礎となる情報通信力も貧弱であった。その責任と結果について今を生きる日本人は誰をも国をも批判すべきでなく、全国民が等しくその責任を負うべきである。

 終戦記念の日に当たり男は数多の戦没者・戦死者の御霊に鎮魂の祈りをささげつつ、今の平和な世の中はその方々の犠牲の上に成り立っていると思っている。二度とあのような悲惨な戦争に日本が巻き込まれないようにしなければならにと思う。しかし、「戦争反対! 平和! 平和!」とただ叫んでいるだけでは日本は決して生き残れないと思っている。