2010年2月10日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(19)(20100210)

  今日(8日、月曜日)、朝から温暖なよいお天気である。気持ちが良い。女房の帯状疱疹もかなり良くなった。帯状疱疹は一度罹ると免疫ができて今後これに罹ることはないらしい。昨年10月、大分の田舎に独居している91歳になる母(継母)が帯状疱疹になり、かかりつけの病院に入院したので男は女房と一緒に帰省したが、女房の帯状疱疹はそのとき母から感染したのかもしれない。母は退院し、自宅で塗り薬で治療したが、背中を流すとか髪を洗うとかの入浴の世話は女房がした。

  ウイルスは健康な身体の中では静かにしているが、過労とかストレスとか老齢とかの状況になると免疫力が低下し、ウイルスが活動し始めるのだろう。母の場合は入院して治療し、完治したころ退院しているので、ウイルスは残っていなかった筈である。そうであれば、女房の帯状疱疹のウイルスは子供の時から女房の身体の中に存在していて、じっとしていたことになる。多分そうであろう。ウイルスは生きた細胞に寄生しないでは増殖できず、寄生する相手がいなければ何百年でも待ち続けるということであるから・・。

  男のところに横浜地方検察庁から過料3万円を払えと言う納付告知書が来た。平成10年にお特定非営利活動促進法という法律ができてすぐ、男が代表になってあるNPO法人を立ち上げ、事業が順調に運びその法人の資産が増えたのにその届をしていなかったため過料を課せられたのである。男はその頃その届出が必要なことは知らなかった。

  昨年暮れ裁判所から突然そのような過料を課すという通知が来て、男は初めそれは裁判員のことかなと思っていたら、中身は過料のことであった。男はそのNPO法人の代表をもう何年も前に辞任していたのであるが、過料はそのNPO法人で支払ってくれることになっているので、今日は納付告知を以ってそのNPO法人の事務所に行った。そのNPO法人は男の後任者の指導のもと、よく活動して地域から高い評価を受けている。

  ブッダ「真理のことば」第十三章は「世の中」という題である。
この世は前世の来世であると夢窓国師はおっしゃった。(『夢中問答集』講談社学術文庫)
169 善い行いのことわりを実行せよ。悪い行いのことわりを実行するな。ことわりに従って行う人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170 世の中は泡沫(うたたか)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171 さあ、この世の中をみよ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。

175 以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。

177 物惜みする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人々は分かちあうことを喜んで、ゆえに来世には幸せとなる。

2010年2月9日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(18)(20100209)

自民、公明、みんなの党の3党が衆院に共同提出した石川知裕衆院議員に対する辞職勧告決議案について、「審議するに当たらないということで対処していく」と述べ、採決に応じないと言った民主党の山岡国会対策委員長は、小沢氏の側近であるということである。
テレビ報道によれば船田氏はインタヴューに応えて「自分は元小沢氏の側近であったが彼の気に入らないことをしたとして小沢氏から切られた。その後を山岡氏が継いだ。」という趣旨のことを言っていた。
権力により自分の気に入らない者を容赦なく切り捨てる手法は、ある意味では‘みせしめ’であり、古来よく使われてきた手法である。小沢氏は口下手であると聞く。言葉をよく使いこなす人であれば一応口頭で‘解雇’の理由を説明し、相手に一応の弁明の時間を与え、それで‘お別れ’ということになるだろう。小沢氏が野党の要求する国会での説明や参考人招致に応じないのは、彼が口下手のせいであろうと男は推測する。
平野官房長官は、民主党は永住外国人参政権付与については地方自治体の反対の意向に関わりなく国として永住外国人の権利を守るため推進すると言っている。これは「選挙に勝つ」ことが最重要であると考える小沢氏の意向を強く反映したものであろう。
男は民主党が夏の参議院「選挙に勝つ」ために、日本の国として最も重要なことを軽んじてはならないと思う。男は戦前に日本国籍であった在日の人たちと、そうでない人たち、特に戦後徐々に増えてきている中国人たちとを同一に扱うのは間違っていると思う。戦前日本人として扱われていた在日の方々は、日本への帰化により毎年減ってきている。そのような人たち、特別永住外国人には日本への帰化を促進する手段として地方行政への参加をある程度限定した形で認めることについて、男は検討しても良いと思う。古来、わが国は大陸から多数の移住者を受け入れてきた。その子孫は皆日本人になっているのだから。
一方で一般永住外国人の区分に入る中国人は年々増加している。日本は中国との間で近年相互交流が深まり、貿易、食料などの相互関係も非常に深まって来ている。いわゆる‘華人’は世界中の国々の中でコミュニティを作り、助け合っている。我が日本国内においても同様である。そういう状況の中、日本と中国の間で歴史認識、尖閣諸島や日中中間ライン近辺での石油基地の建設、不透明な軍拡などの問題できしみが生じている。そういう中で一般永住外国人に地方参政権を与えた場合、日中間の民族紛争の種子になりかねない。ここは選挙目的でなく、国の安全・安定に関わることとして慎重に考えるべきである。

ブッダ「真理のことば」第十二章は、題が「自己」である。民主党はよく考えて欲しい。
160 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
166 たとい他人とっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。

2010年2月8日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17)(20100208)

 今日(6日)も気温は低いが良いお天気である。男は自分の部屋の窓を全開にしてこれを書いている。女房が廊下を通りがかりに「寒いじゃない」と言う。男は「いや、このままで良い」と応える。女房は「じゃ、部屋を閉めてよ。寒いんだから」と苦情を言う。実は女房は昨年暮れ以来過労がたたって帯状疱疹を患い治療中である。安静が必要なのでお天気が良くても殆ど家の中にいる。ベランダで花に水をやったり、時々ひよどりがやって来て折角丹念に世話している花をかじったりするので、その対策を講じたりしている。

 帯状疱疹は完治するまで若干期間を要する。頬のできものは殆ど治ったが、腹部のまわりの疱疹は治りつつあるがまだ完治まで1、2週間かかりそうである。治療のため服薬と塗り薬を一日3回行っている。頬に発症したとき直ちに対処したことが良かった。

 帯状疱疹はストレスの積み重ねで免疫力が低下して発症する。男は女房の免疫力を高めるためいろいろ知識を総動員している。その一つに指の爪を揉むことと腹式呼吸がある。指の爪は薬指を除いて詰めの両端を軽く揉むのである。腹式呼吸は男が詩吟の吟詠を行うとき実行している方法である。短時間すっと鼻から息を吸い、ちょと腹に貯めて、その後できるだけ長い時間をかけて残りの息を吐き切るまで吐いて吐き続けるのである。

 男が尊敬する100歳のあるお方は指の爪を揉むことと両手の対になっている指先を合わせて両脇を上げて強く押すことをセットにして三回づつ行うこと、及び腹式呼吸法は息を吸うとき頭の額付近から吸い、吐くときは足の裏から吐くようにすることを教えて下さった。また食事は咀嚼を100回行い、消化をよくするように心がける。唾液は免疫力を高めるという。このような方法を実行すれば内臓を強化し、体温を高め、免疫力が高まるということである。事実男はそれを毎日実行して、最近体中に活力が漲った感じがしている。

さてブッダ「真理のことば」第十一章は「老いること」という題である。
146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか? 世間は常に燃え立っているのに。 汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?
147 見よ、粉飾された形体を! (それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知識は増えない。

訳注によれば「粉飾された形体」とはパーリ仏典では人間の身体あるいは人間の個体のことであるという。「どうして燈明を求めないのか?」という言葉にキリスト教の聖書にある言葉を思い出して聖書を取りに居間に行ったら女房がNHKの「永平寺修行の道」を観ている。男もその番組を観ることにした。とても良い番組であった。
永平寺にはバス旅行で行ったことがある。若い雲水たちが修行している姿を見て、男は自分がこの雲水たちにも遠く及ばない全くの凡人であるとつくづく思った。

2010年2月7日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(16)(20100207)

第十章 暴力
131 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

釈尊は過去世が有るとか無いとか来世が有るとか無いとか形而上学的な論議をすることを戒められて「無記」とされた。そういうことを議論するのは実践上全く役立たないからである。しかし、上記のように死後の世界のことを述べられている。昨日書いた「126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。」ということばの中にも死後の世界のことが語られている。男は釈尊は深い瞑想により時空を超越して過去から未来まで見ることが出来たのだと思う。そしてそのことを男は堅く信じている。
しかし男は、いわゆる何かの宗教を‘信仰’するということではない。釈尊をはじめ釈尊のお弟子さんたち、そして仏教を学び修行し、ある高いレベルの状態に達した高僧たち、例えば鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた夢窓国師が語られていることを少しも疑わず、信じているだけである。男が何度も読む『夢窓国師 夢中問答集』(講談社学術文庫)という本の中で良く出てくる言葉は「今生」とか「前世」とか「来世」とかいう言葉である。夢窓国師はこの問答集の中で「人界(にんがい)に生(しょう)を受くる人、貴賎異なりと云ふとも皆これ前世(ぜんせ)の五戒十善の薫力なり。」と述べておられる。
男は、仏(ブッダ、釈尊)と法(ブッダによって説かれた教法。Dharma、ダルマという。)と僧(ブッダに代わって民衆に仏教の理論や実践を伝え、民衆を指導教化する出家者の団体。sangha、サンガという。)(以上『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)より引用。)、つまり‘仏法僧’を心から敬うことの幸せを感じている。
ところで、5日、衆議院予算委員会で自民党の石破氏と伊吹氏の発言とその発言を真摯に受け止めていた鳩山氏始め各閣僚、そして多少の不規則発言はあったが、伊吹氏の時には殆どそのような発言は聞こえず民主党の若い議員たちもよく耳を傾けていた状況を見て、男は日頃不安に感じていた気持ちがかなり和らいだ。民主党には党の綱領もなく、同好会や運動部のようにリーダーの指示に従い、この国を何処に持って行こうとしているのか判らない不気味さが漂っているが、それが特に長老伊吹氏の発言で幾分晴れてきそうな感じに思えた。伊吹氏は‘若い’宰相鳩山氏を‘爺’のように諌め、導いているようであった。石破氏は政権を取ったばかりで経験の浅い民主党議員、鳩山氏始め閣僚たちに、‘教師’が生徒たちを指導しているような感があった。男は今夜は心地よく眠れそうである。

2010年2月6日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(15)(20100206)

小沢氏の不起訴が決まった。しかしその内容は「嫌疑不十分」ということであって「嫌疑なし」ということではない。今後法廷の場で明らかにしてゆくということである。一方、小沢氏を擁護する輿石氏らはこれで疑いが晴れたと喜んでいる。党首の鳩山総理は「小沢氏に幹事長として参院選を戦って行く」と言明した。男は今後小沢氏を告発した市民団体も含め、検察審査会への申立てなどいろいろ攻勢をかけて行くことだろう。
男は民主党が旧政権で出来なかったことをやって行こうとすることは正しいと思う。ただし、条件がある。それは「中庸を外れてはならない。」ということである。昨年夏の選挙で政権をとったからとて、得票率も上で国民の過半数が民主党を支持したわけではない。中庸を外れ、革命じみたことをやってもらっては困る。公共事業の予算を18.5%も削ったことが果たして正しかったかどうか、地方に経済的ダメージを与え、かえって地方を疲弊させる結果にならなければよいがと男は思う。
小沢氏は永住外国人参政権を実現させようとしている。鳩山総理は「個人的にはそれに積極的な思いはある。」という。「参院選で過半数の当選者を出す」ということは、ある意味では‘公’的ではなく民主党の‘私’的な目標である。そのような目標を「国民のため」というのは思い上がった考え方である。それは大義でも正義でもない。こころある人々には「一体この国はどうなるのか。」という言い知れない不安感を抱かせている。旧ドイツのナチス政権は合法的な選挙で多数の議員を出し、ドイツをあのような国にし、人類史上類のない犯罪国家となった歴史を残した。民主党も同じに見える。「怖い」という感じである。

ブッダ「真理のことば」第九章は「悪」という題である。
117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。
120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。
126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。

小沢氏は検察が不公正であると言っていた。その心は「他の政治家もやっているのに。」という思いであっただろう。「清濁併せのむ」ことが必要であるという人がいる。男はそのような考え方は正しくないと思う。結局、小沢氏の‘子分’たちが泥をかぶり、‘親分’小沢氏を守りとおせるだろうか?男は「矛盾はいつか必ずほころぶ」と思っている。

2010年2月5日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(14)(20100205)

第八章は「千という数にちなんで」という題である。

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうが優れている。
110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
114 不死(しなない)境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

「不死の境地」について、著者・中村 元は、訳注に「amatam padam.漢訳『法句経』には「甘露道」と訳している。古代インドでは甘露の汁液をamataと呼んだので、「甘露」と訳したのであろう。しかし原文ではそれを「飲む」とは言わないで、それを「見る」というからamataはやはり「不死」の意味である。」と言っている。

 さて、男はこの第八章を読んで、西行の作詩と夢窓疎石の作詩『修学』を思いだした。『至善』の詩文には「一日を一生として」という句がある。『修学』は;
  一日の学問 千載の宝  百年の富貴一朝の塵
  一書の恩徳 万玉に勝る 一言の教訓 重きこと千金
というものである。(関連記事:2009年12月10日木曜日、「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」、2009年10月2日金曜日「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091002-200909831-20090915.html

  夢窓疎石は夢窓国師とも敬称される。夢窓国師は建治元年(1275年)に伊勢の源氏の家(佐佐木氏)に生れ、母は平氏の出であった。77歳で没している。23歳の時円覚寺で才能を見いだされ、25歳の時元(中国)から来朝していた寧一山の許で建長寺の首座になり、その後紆余曲折はあったが寧一山の教えを受けている。鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、足利尊氏の弟直義と問答をし、世に七朝の帝師と仰がれた方である。(関連記事:2009年10月1日木曜日、「前世、今生、来世(20091001)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091001.html

  今、日本には国師はいない。ニュースで国民新党の亀井氏が国会で永住外国人参政権付与反対の立場で意見を述べていたが、男は亀井氏の発言に幾分救われた気持ちである。しかし小沢氏は起訴・不起訴について4日の時点ではまだはっきりしていない。男は、民主党の心ある国会議員たちまでもが旧海軍のエリートたちが犯した過ちのような「やましき沈黙」をして小沢氏に引きずられ、党首・総理の鳩山氏が煮え切らない態度を示し、この日本を間違った方向に持って行こうとしている不安感をどうしても拭いきれない。(「やましき沈黙」関連記事:2009年8月16日日曜日、「長崎への原爆投下(20090816)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/08/20090816-63km-850-nhk40065-wasp.html

2010年2月4日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(13)(20100204)

 第七章の題は「真人」である。訳注によれば、「真人」とは、「arahant.サンスクリットでは、arhat.尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。漢訳では「阿羅漢」「羅漢」などと音写する。「応供」、「応真」とも訳し、意訳して「真人」ともいう。」とある。

 とかく仏教の用語は難しい。われわれ凡人が仏教に親しもうとしても、なかなか取り付きにくい。でも、男は「阿羅漢」の意味がパーリ語のarahantの音写であること、その意味が「尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人、修行を完成した人。」であることを知った。修行を完成しないと阿羅漢にはなれないのだ。

 となると、男のように煩悩を断ちきれない者はちょっとやそっとでは阿羅漢に列せられることはできない。しかし、人生の旅路の終わりごろになれば、煩悩も断ち切れるかもしれない。人は、必ず訪れる人生の最期に向けて、すこしでも涅槃の心境に近づくように努力すべきものなのだ。それは、政治家でも学者でも宗教家でも皆同じなのだ。

90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みはそんざいしない。
96 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。
97 なにものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。

 「智慧」という用語について『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、智慧には世俗的なものから仏の最高の智慧までいろいろなものがあるということである。その段階の一つに、「初歩の悟りの智慧」があり、その上の智慧は「阿羅漢の智慧」である。仏教の最後の目的は悟りの智慧を得ることにある。最澄や空海の時代には智慧について学ぶにもよい書物やよい師はなかなかいなかったであろう。今の時代には男のような凡人にも理解できる仏教関係の書物が沢山ある。これは大変幸せなことである。
訳注には、「解脱」とは「束縛を離れた自主の境地である。」とある。束縛を離れ

 るにはどうしたらよいか、ブッダはその体系について教えて下さっている。『仏教要語の基礎知識』や『仏教の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社)にはその体系のことが説明されている。仏教について学ぼうという気持さえあれば、まして人生経験を積んだ老人であるならば、それを学ぼうとしない人よりも早く、ある程度の「智慧」を身につけることはできる。

男 は女房とともに、ついこの間100歳になられたある在家の僧侶の方から戒名を頂いた。その戒名に恥じないように「智慧」の習得・会得に努めなければならないと思う。

2010年2月3日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(12)(20100203)

女房が録画していたテレビ番組「サイエンスZERO」を再生したら、アポトーシスのことが出ていた。がん細胞は‘アポトーシス’を忘れた細胞であるとのことである。細胞のアポトーシスはカスパーゼという酵素により引き起こされるらしい。それも一定時間が経つとアポトーシスを引き起こすように予めプログラムされているということである。なぜそのようなプログラムがなされているかというと、それは種の維持のために必要であるからであるという。人間の細胞のアポトーシスは60回ぐらいで終わり、それとともに寿命が尽きるという。亀は120回ぐらいだそうで人間より長生きである。
男はこの四月から放送大学に再入学して「自然と環境」を専攻し、分子生物学や量子科学、宇宙科学などを勉強しようと計画している。その学問は、2500年前に釈尊が語られたものに相通じるものがあると男は考えている。『世界に開け華厳の花』(華厳宗管長・森本公誠、春秋社)によれば、『華厳経』は小なるものの世界に大いなる世界が内包されているという思想を説いているということである。
奈良時代の第45代天皇・聖武天皇(701年‐756年、在位: 724年‐749年)は華厳経の普及を図り、全国に国分寺を建立し、この国分寺に派遣する僧侶を養成するため奈良に東大寺を造営し、見習い僧に声明(しょうみょう)(言語・文法)、因明(いんみょう)(仏教論理学)、内明(ないみょう)(仏教教義)、工巧明(くぎょうみょう)(建築・土木)、医方明るい(いほうみょう)(医術・薬草)の五つの学問を習得させた。
その東大寺の大仏はビルシャナ仏(盧舎那仏)で、ビルシャナとはインドの言葉でヴァイロシャーナと言うそうである。その意味は「宇宙いっぱいに光り輝いているお方」という意味だそうである。確かにこの宇宙は137億年前、一点から光が発して出来たものである。
この大仏建立時、巨大な仏像に塗金するための黄金が必要であったがそれが不足していた。そのようなとき663年の白村江の戦いで日本が百済を救うことが出来ず、王族・貴族ほか多数の避難民が日本に引き揚げてきて日本に帰化していた王族の子孫で陸奥守として陸奥に派遣されていた百済王敬福が陸奥の小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)で金を発見し、聖武天皇に大量の金を献上した。そのことが『日本書紀』に書かれている。

ブッダ「真理のことば」第六章の題は「賢い人」である。
85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)に至るであろう。

彼岸は涅槃のことである。証明されないかぎり頭から信じようとしない現代人は、科学を通じて証明されたことなら信じることができる。男の上記の学問はそのためである。

2010年2月2日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(11)(20100202)

第四章は「花にちなんで」という題である。
46 この身は泡沫(うたたか)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

ここで訳注に「悪魔の花の矢」とは「欲界」「色界」「無色界」の三界のことであるとあり、「死王にみられないところ」とは、「不死の大ニルヴァーナ」をいうとある。本能寺の変の織田信長も、忠臣蔵の浅野内匠頭も、「この身は泡沫(うたたか)のごとく」と思い、死に赴いたのだと男は思う。
先の大戦で戦地に赴き死んだ兵士たちも、戦艦大和の乗組員たちも、特攻隊の隊員たちも、自らの命を捨てる時「大ニルヴァーナ」の状態に近かったのではないか男は想像する。勿論、最期のとき、「無念」「生きたい」「無駄死したくない」などの煩悩もあったに違いない。しかし、そのような人々のことは、「不死のたましい」として何百年も千年も先々まで語り継がれて残ってゆくのである。歴史認識も違う国にへつらって靖国神社を軽んずる政治家たちは、とんでもないやつらである。売国奴である。国賊である。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

50も60もなって、政治的信条に基づき発言し、行動する者には、このことばはあてはまらないと男は思う。「過失」なんかじゃない!彼がしたことは全国民が見ている。それを「見ない」というのは偽善である。ただ、自分のしたこととしなかったことを反省しなければならない。その反省の判断の基準は、「12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しきおもいにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。」ということばにある。まこととは「精、精髄、堅牢、真利」である。打算的な考えで「政治的大義」を掲げることは、人々を欺くことであり、「まこと」ではない。愚かな人々は彼の言う「大義」に騙されたのだ。彼の‘こどもたち’も彼に騙された者が多いであろう。男はこころ正しき指導者の出現を願っている。

第五章のタイトルは「愚かな人」である。
61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱり独りで行け。愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。

この乱れた国を正すため、聖徳太子が姿を変えて現れて下さることを男は願っている。

2010年2月1日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(10)(20100201)

女房は数日前発症したようであるが、右頬におできが出来て医者に行ったら帯状疱疹の可能性があると診断され、化膿止めの抗生物質と帯状疱疹のウイルスを抑える抗生物質などが処方された。一昨日は右側の耳の下の首辺りから頭にかけて痛みがあったが、それは薬で抑えられたようである。ところが昨日は左側の同じところに痛みが来た。帯状疱疹のウイルスをリンパ腺で抑えようとしているらしい。それも今日はだいぶ改善された。
当面安静が第一であるので、女房は家で録画していた紅葉の石山寺などを観ている。男もテレビ画面に写る美しい景色に見とれた。わが国には代々守り継がれてきた素晴らしい歴史的遺産がある。日本は本当に素晴らしい国である。この日本という国の形を、野心家の政治家の、欺瞞的な大義名分をかざした政治家の、私利私欲の行動のために決して壊されてはならないと思う。「国民よ、目を覚ませ!」と男は腸を絞る思いで叫びたい。
そういうわけで今日は男は独りで川の周りを散歩した。お天気もよく気持ちがよい。午後も遅い時間であったので太陽が傾き水面に映えている。鉄橋の上を電車がゴトンゴトンと走っている。釣りを楽しむ人たちが川に釣り糸を垂れたまま語り合っている。ジョギングしているカップルがいる。犬の散歩をさせている女性がいる。老いた女が独りで散歩している。向こう岸では子供たちの野球チームが試合をしていて元気な声を出している。やがて日は丘陵に沈み、人々の暮らしの一こまが終わる。かくして時は流れる。
2500年前、インドの大地で釈尊は弟子たちに法を教えを説いた。釈尊が語られた言葉は書きとめられ、後の世に伝えられ、代々引き継がれてきた。法隆寺の聖徳太子像も、その教えとともに代々僧侶たちによって守られ、伝えられてきた。日本は本当に素晴らしい国である。このようにして、今日に至ってなお釈尊は私たちに生き方の教えを説かれている。本当に有り難いことである。「私は政権獲得という一点だけでこれまで行動してきた」と、もっともらしい大義名分を掲げ、そのようにして私利私欲を欺瞞的な衣で隠している政治家の野心を、党利党略を、人々はやがて見抜き、厳しい罰を与えることであろう。

ブッダ「真理のことば」第三章は「心」と題されている。
40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。しかもそれに執着することなく。
43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

2010年1月31日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(9)(20100131)

 ブッダ「真理のことば」は膨大な数の詩であるので、第二章以降はその一部を抜き出して男の思いを綴ることにする。

23 (道に)思いをこらし、耐え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する。思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸(しあわ)せである。
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
26 智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財産(たから)をまもるように、つとめはげむのをまもる。
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
 
 訳注によれば、「やすらぎ」とはnibaana(注:前にもそうであったがaの上にバーが付く文字がないので、このブログでは母音を連ねて書いている。)、サンスクリット語では、
nirvaanaのことで「涅槃」と音写されているとのことである。訳注には「これは最高の理想の境地であり、仏教修行者の最後の目的である。そこでは人間の煩悩や穢れがすべて消滅している。」とある。また「幸せ」とは、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」「財産」「生計」「安寧」とある。

 この「真理のことば」を聴いて男が感じたことは、今から2500年前に生きておられた釈尊はわれわれ凡人に決して無理な戒律を要求しておられなかったということである。修行というと、なにかものすごく厳しいルールを実行しなければならないのかなと普通には思うだろう。しかし、例えば11番目と12番目の詩(関連記事:「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(6)(20100128)」
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2010/01/20100128-50-500-10-11-12-11-12-saara.html)で、「まこと」という言葉の意味が「精、精髄、堅牢、真利」ということであり、常識で理解できるものである。また上の23番目の詩にある「やすらぎ」も同様である。何も悲壮な気持ちになって煩悩を出さないように自分を縛り、どうしても捨て去ることのできない煩悩を押し殺すように懸命に自制しなければならないということではないと思う。「常識的に考えて誤りのない、真(まこと)の行為としての利」が「やすらぎ」であり、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」などが「幸せ」なのである。修行を積み、年を重ね、煩悩の呪縛から遠ざかれば、それはそれなりに高いレベルの来世があるが、凡人は勉強し向上の努力を重ねれば、少なくとも「阿羅漢」になることはできるのだ。ブッダの教えを聴き、内省し、ニルヴァーナに至るよう努力することが、われわれ凡人にとって最も重要なのだと男は思う。

 男にとって最上の「財産(たから)」は、これまで48年間連れ添ってきた女房である。次に二人の息子たちとその家族である。かくして「いのち」は途切れることなく続いてゆく。

2010年1月30日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(8)(20100130)

男はこれまで「真理のことば」の第一章を学んできた。この第一章は、そのタイトルが「ひと組づつ」と書かれている。これは対になっている二つの詩が合わせられて一つのことがらを説いている形式になっている。第一章の最後の二つの詩は次のとおりである。男はこの二つの詩を読んで、「自分は到底修行者にはなれない。」と思った。執着から決して離れられないし、情欲も怒りも捨てきれない!しかし、いよいよあの世の入口にさしかかったときには、他者には自分が多少修行者らしく「見える」ようになるかもしれない。しかし、判らない!それでも後で述べる阿羅漢には多少近づけるのかもしれない。

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。

第二章は「はげみ」という題である。この章の訳注に「島」または「洲(しま)」について解説がある。それは「自分のよりどころである真人の境地」を大海の中の「島」又は大きな川の中の「洲」に譬えている。ここで「真人」とは「阿羅漢」と漢訳されている元の語はarahantで「羅漢」とも音写されている。これは、尊敬されるべき人、拝まるべき人、尊敬供養を受けるべき人のことだそうである。埼玉の川越の喜多院に五百余りの羅漢像が鎮座している一角がある。見ると一体一体皆違う表情をしている。笑っているお顔も怒ったお顔もある。男はごく普通の人たちでも向上を目指して教えを受け、学び、努力すれば「自分のよりどころである真人の境地」に至り、「羅漢」に列せられるのだと思う。

この第二章の最初に次の二つの詩がある。
21 つとめ励むものは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は死者のごとくである。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

「不死の境地」は、amatapadamをそのように訳したとある。漢訳『法句経』では、「甘露道」と訳している。amataは「甘露」と訳されている。「甘茶」はそこから来たのだろうか?
訳注には、「「つとめ励む」と因果の連鎖によって影響は無限にひろがり、死ぬことはない。」とある。男は、「因果の連鎖」は親から子へ、子から孫へと続くものだと思う。

2010年1月29日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(7)(20100129)

13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14 屋根を粗雑に葺いてある家には雨の洩れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の進入することがない。
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、二つのところでともに喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪の報いを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

新聞に悲しい二つの事件の記事が載っていた。一つは初めテレビでニュースを聞いていたため読みたくない記事である。それは小学校1年生の男の子を22歳の実の母親と、31歳の男(母親の結婚相手)が虐待死させた事件である。もう一つは自分が産んだ幼い娘の裸の写真を携帯電話で送信したり、いかがわしい行為をされると知りながら男に引き合わせたりしたとして、大阪、宮城、神奈川など8都府県の母親ら13人が昨年6月以降、相次いで摘発されたという記事である。
自分が産んだ息子が親をかばい「いじめられていない。悪いことをしたら叱られるけど。」と言っていたが、この子が描いた絵には目を吊り上げた親熊とそのそばに目が丸い小熊が描かれていた。この親もその夫も自分が犯した罪で一生苦しむだろう。自分の娘を小遣い稼ぎの道具、しかもいかがわしい情欲の道具に使った母親たちも同じである。
釈尊はここで来世のことを語られている。釈尊ご自身、「前世」が有るか無いかとか「来世」が有るか無いかとか、「我」が有るとか無いとか、形而上学的に存在の有無を論じることを「無記」として禁じられている。しかし男は、「前世」から「今生」へ、「今生」から「来世」へと永遠に続く‘もの’があるということは、それを思惟して確信することができる者にしか理解できないことであると思っている。
前に、ブッダの「化身」についてこのブログに書いたことがあるが、男は上記のような罪を犯した人たちもブッダの「化身」であると理解する。「化身」はブッダが人々に真理を教え、人々を真理の世界に導く「方便」として現れている姿である。(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)

2010年1月28日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(6)(20100128)

 普天間基地の問題で男は一つの解決策を提案したい。

 沖縄に米軍基地、とりわけ空軍及び海兵隊の航空部隊が存在することは日本の安全保障及び東南アジア地域の安全のため必要である。この必要性については一定の見識をもっている者でなければ理解できない。この必要性が薄れる条件は北朝鮮が核兵器を放棄し、中国や北朝鮮と日本の間で価値観を共有する度合いが非常に濃くなった段階に至るということである。それまでは地道な外交努力と交流促進を積み重ねて行かなければならない。
以上の前提に立ち、当面の解決策について提案する。当面といっても上記のような親密な関係ができるまで少なくとも50年以上の年月がかかるであろう。それまでの間の暫定的な解決策について男は提案するものである。

 それは、沖縄の人たちに目に見える形で精神的な苦痛を補償することである。この補償のため、沖縄以外の自治体で一人当たり年間で500円~10万円程度の負担をすることである。そしてその具体的補償とは、沖縄県民の所得税や住民税をゼロまたは大幅に軽減するのである。つまり我が国の安全を全国民で守るのである。このため‘平和安全税’のような特別税を創設するのである。

 男はもうあまり天下国家のことで思い患いたくないが、今の政治家たちのものの考え方にときどき我慢がならないときがある。ブッダ「真理のことば」の11番目と12番目の詩は、政治家たちに座右の銘としてもらいたいと男は思うのである。

11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

 ‘まこと’とはsaaraであり、精とか精髄とか堅牢なものをいうそうである。ブッダ「真理のことば」の漢訳である法句経では‘真利’と訳しているとのことである。漢訳者は‘本当にためになる’という意味に解したということである。

 そうすると、日本の国というある意味では一個の人間のような有機体として、周りを見る場合において、防衛とか安全保障とか周りの安定という局面で見ると、‘本当にためになる’こととは何か、おのずと明らかになるであろう。この場合の‘正しき思い’とは、日本の安全のために沖縄の人たちに過重な負担を強いるのでもなく、いろいろなハコモノ、コンクリートもの、天下りを建設し、これらを管理する組織を設けることではない筈である。

 いろいろなハコモノ、コンクリートものを建設し、これらを管理する組織を設けることは表向きのことであって、実は利権や官僚の利益のための工作である。これは欺瞞であり、正しいことのように見せかけて、実は悪しきことをやっているのである。

2010年1月27日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(5)(20100127)

9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。

10 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

 この二つのことば(詩)は出家修行者のために説かれたものであるとのことである。汚物とは煩悩のことだそうである。当時の修行者は汚れたボロ切れを集めて綴った衣を着ていたということである。

 男は今のところ出家修行者になる意志はまったくなく、また煩悩を抑えきれる自信は全くない。西行のように‘在家(ざいか)’と言えば恰好が良いが、そのような意味での‘在家’修行者になることはおこがましい。男は親鸞の教えについてまだ勉強していないが、親鸞は男のような煩悩のかたまりの人間でも‘あの世’と‘この世’の境目がなくなるほどの心境に達することができると教えているのだろうか、勉強してみたいと思う。

 平安時代に栄華を極めた道長は糖尿病で死んだということであるが、生前阿弥陀如来を崇めるお寺を建て、黄金に輝く仏像群をお寺の堂内に飾って阿弥陀如来に帰依したという。いよいよ死の床についたとき、僧侶に阿弥陀経を唱えさせ、自らは阿弥陀如来像につないだ紐を手に持ち、阿弥陀如来に迎えられる空想をしながら没したという。(『栄華物語』)

 男は、道長のようにいろいろ造作をしてまで心の安寧を得たいとは全く望まないし、そうしなくても、今の煩悩の状態のまま、意識のうえでは‘あの世’と‘この世’の境目がないような状態で‘あの世’に逝けると思っている。

 昨日書いたように、武蔵は仏教に帰依していたかどうかは別として、『五輪書』を書き終わって、それを書いた洞窟のなかでそのまま死のうと思っていたらしい。武蔵を客分扱いでもてなしていた細川家が無理やり武蔵を洞窟から連れ帰ったからそれがかなわなかったのだ。男は武蔵のような気持ちにはなれると思う。

 その気持ちになれるのは、男の生母が33歳で没するときのことが男の心に強く刻まれているからである。男の母親の胸には朝鮮から引き揚げた20年夏、既にがんのしこりができていた。病院でがんに侵された左右両方の乳房を間をおいて順番に切除する手術を受けたが既に手遅れであった。死の床に臥していた母親の背中にはがんが転移し沢山の小さながんのこぶができていた。「起こして、また背中をさすっておくれ」と言うたびに当時10歳の男は母親を寝床から起こして上げ、背中をさすってやっていた。母親は苦痛の顔を少しも見せることはなかった。いよいよ死期を知ったと母親「起こしておくれ」と言ったが「背中をさすっておくれ」とは言わず「東を向けておくれ。お仏壇からお線香を持ってきておくれ。お父さんを呼んできておくれ」と言って東に向いて両手を合わせていた。男の母親は‘在家’にして、その精神は上の10番目のことばのようであったのだ。

2010年1月26日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(4)(20100126)

 年暮れには胃カメラと大腸カメラの検査をし、ポリープも切除した。血液検査と尿検査で殆どの検査項目は網羅するので人間ドックに入る必要は無い。

 このような検査は、電子通信機器などの定期的検査のようなものである。電子通信機器のメンテナンスでは、スケジュールに従って予め定められる検査項目の検査を行う。このとき、たまに問題が起きることがある。人間の検査でもなにか間違いが起きないとは限らない。そのことを予め念頭において検査を受ける姿勢が重要である。



 今日は男は女房と一緒に定期健康診断を受けた。二人とも特定検診も兼ねてそれぞれ気になるところの検査も受けた。男はずっと前から肝臓にのう胞があってこれが大きくならない限り問題ないのであるが、毎年超音波検査を受けている。そのほか今回は胸部レントゲン検査も受けた。

 さて、昨日の「真理のことば」の5番目に「怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」という言葉がある。この言葉で男はふと旧約聖書の『ヨブ記』のことを思い出した。

。苦しみに遭ったとき、ヨブの妻が「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言ったら、ヨブは「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」と言った。5番目のことばの精神は、表面的にはヨブの精神と同じようなものである。しかし、ヨブが崇めるものは全知全能の神である。一方、ブッダの教えは「(誰にも頼らず、)自分自身を洲にし、自分自身をよりどころにせよ」というものである。そこには一個の人間としての生き方についての深い教えがある。

ブッダ「真理のことば」;
7 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(目などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は悪魔にうちひしがれる。弱い樹木が風に倒されるように。
8 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(目などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。岩山が風にゆるがないように。

男は新免(公家につながる父方の姓)宮本(母方の姓)武蔵の生涯の閉じ方は、正にこの6番目の言葉のとおりであったと思う。武蔵は終生孤高の精神を保ち、熊本の金剛山の中腹にある霊巌洞という洞窟で、寛永20年(1643年)から正保2年(1645年)にかけて『五輪書』を書いた。宮本武蔵は熊本の細川藩に客分として招かれていたとき藩主・細川忠利から居宅を与えられていたが、藩主の命を受けてそれを書くときその洞窟に籠って書いたという。そして「『五輪書』を正保2年の春に書き終わって、その年の5月に没したという。
武蔵はその洞窟内で死を待とうとしたが、細川家では武蔵を無理やり居宅に引き戻し十分な看護をしたが、ほどなく僅かな弟子たちに看とられて波乱の生涯を閉じたのである。

2010年1月25日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)

昨日のブッダ「真理のことば」(2)の3番目と4番目の言葉は、キリスト教の聖書にあるイエス・キリストが「悪人には手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉と似たところがある。しかし根本的な違いは、釈尊は自己修養の道を説いたが、イエス・キリストは弟子がとるべき積極的な行為を説いたという点である。
ブッダ「真理のことば」の5番目に、



5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

とある。右の頬を殴られて抵抗せず左の頬を出したからとて、全く無抵抗に相手の為すがままに、「これがブッダによる‘方便’としての、‘化身’(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)としての教え」であると達観しない限り、それは単なる行為に終わってしまうだろう。
ブッダ「真理のことば」の6番目は、



6 「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

仏教における「○○宗」の‘宗’はもともと「根本のことわり」と言う意味だそうである。この6番目の言葉の中に出る「他の人々」とは「賢者」以外の一般の人々、つまり「愚者」のことだそうである。男は「愚者」であるから、あの世に近づくにつれて少しでも一歩でも「賢者」に近づきたい、また近づくように努力すべきであると思っている。
釈尊は生と死の境界のない状態になるように、自分だけを頼りにして修養しなさい、と教えておられる。男は自分が仏教を良く勉強し、座禅し、修養し、そのような生と死の境界がない状態まで自分の精神を高めることができれば、あらゆる煩悩が消滅し、本当の幸せを実感できるのではないかと思っている。しかし、これは容易なことではないと思う。
男は女房とともに日々実に幸せな暮らしをしていると思っているので、本当の幸せが何である実感できていない。そのような目の前に感じる幸せにおぼれ、その幸せが壊れることを恐れながら日々を送るということは、すなわちそのことを拠りどころとしているということであって、自分自身を拠りどころにしていることではないと思う。
ブッダは、自分を洲(しま)とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどことはせず、修養しなさい、と教えておられる。

2010年1月24日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(2)(20100124)

 今日もお天気がよい。男は女房と二人で川辺の道を一周した。歩数は約8000歩であった。もう春である。草むらに小さな青紫の花をつけた「いぬのふぐり」が点々とあり、名前は知らぬが小さな黄色い花が一つひっそりと咲いている。男はふと若い頃読んだ聖書の言葉を思い出した。古い聖書は文語体で書かれているが、新しい聖書は口語体である。『マタイオスによる福音』に「あなたたちのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるだろうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働くことも紡ぐこともしない。」という一節がある。

 男は高校生の頃、近くのキリスト教会に通っていた。哲学に興味をもっていてよく判りもしないのにいろいろな本を読み漁っていた。その後教会には通わなくなった。40代、50代になって仏教に興味を持つようになり、いろいろな単行本を買って読んだ。そのうち昨日書いたように、中村元先生の講義をちょっと聞いたことがきっかで、仏教関係の専門書を何冊か買い求めた。それらはたまに気が向いたときに取り出して読む程度で、永い間書棚で眠っていることが多かった。人は老齢になると霊的になると何かのものの本で読んだことがあったが、確かに男は今仏教を本気で学んでみようと思っている。そのうち得度して坊さんにならないまでも、在家の坊さんになると言いだすかもしれないが・・・。

 さて、今日は都内のある区のセンターで詩吟のサークルで詩吟を教える日である。今月の吟題の吟詠が気に入らず何度も詠いなおしてブログ「吟詠」にアップロードしたが、来月の吟題の吟詠に取りかからなければならないため一応改善は打ち切り、今日、来月の吟題である夢窓疎石の『修学』をアップロードした。アップロードして聴いてみたが、あまり気にいらない。そのうちまた録音しなおして、結果が良ければ入れ替えるつもりである。

 昨日に引き続いてブッダの『真理のことば』について書くことにする。

3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにことがない。
4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

男はいつも思うことがある。キリスト教やイスラム教の信者は、信者同士で争い、殺し合う。ところが仏教の国では宗教に関わる争いや殺し合いはほとんど聞かない。何故だろうか?それは仏教は、人間としてどう生きるべきであるか、という「人間の学」であるからである。キリスト教やイスラム教は言うなれば一つの神、天地創造の神を中心に据え、その神の代行者としてイエス・キリストやマホメットがいる構造である。しかし仏教は‘教’という文字が付くけれども人間の正しい生き方を理論的に体系的に説明した‘学’である。
男はその‘学’をももっと深く勉強したいと思っている。