2010年1月25日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)

昨日のブッダ「真理のことば」(2)の3番目と4番目の言葉は、キリスト教の聖書にあるイエス・キリストが「悪人には手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉と似たところがある。しかし根本的な違いは、釈尊は自己修養の道を説いたが、イエス・キリストは弟子がとるべき積極的な行為を説いたという点である。
ブッダ「真理のことば」の5番目に、



5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

とある。右の頬を殴られて抵抗せず左の頬を出したからとて、全く無抵抗に相手の為すがままに、「これがブッダによる‘方便’としての、‘化身’(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)としての教え」であると達観しない限り、それは単なる行為に終わってしまうだろう。
ブッダ「真理のことば」の6番目は、



6 「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

仏教における「○○宗」の‘宗’はもともと「根本のことわり」と言う意味だそうである。この6番目の言葉の中に出る「他の人々」とは「賢者」以外の一般の人々、つまり「愚者」のことだそうである。男は「愚者」であるから、あの世に近づくにつれて少しでも一歩でも「賢者」に近づきたい、また近づくように努力すべきであると思っている。
釈尊は生と死の境界のない状態になるように、自分だけを頼りにして修養しなさい、と教えておられる。男は自分が仏教を良く勉強し、座禅し、修養し、そのような生と死の境界がない状態まで自分の精神を高めることができれば、あらゆる煩悩が消滅し、本当の幸せを実感できるのではないかと思っている。しかし、これは容易なことではないと思う。
男は女房とともに日々実に幸せな暮らしをしていると思っているので、本当の幸せが何である実感できていない。そのような目の前に感じる幸せにおぼれ、その幸せが壊れることを恐れながら日々を送るということは、すなわちそのことを拠りどころとしているということであって、自分自身を拠りどころにしていることではないと思う。
ブッダは、自分を洲(しま)とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどことはせず、修養しなさい、と教えておられる。

0 件のコメント: