2010年1月30日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(8)(20100130)

男はこれまで「真理のことば」の第一章を学んできた。この第一章は、そのタイトルが「ひと組づつ」と書かれている。これは対になっている二つの詩が合わせられて一つのことがらを説いている形式になっている。第一章の最後の二つの詩は次のとおりである。男はこの二つの詩を読んで、「自分は到底修行者にはなれない。」と思った。執着から決して離れられないし、情欲も怒りも捨てきれない!しかし、いよいよあの世の入口にさしかかったときには、他者には自分が多少修行者らしく「見える」ようになるかもしれない。しかし、判らない!それでも後で述べる阿羅漢には多少近づけるのかもしれない。

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。

第二章は「はげみ」という題である。この章の訳注に「島」または「洲(しま)」について解説がある。それは「自分のよりどころである真人の境地」を大海の中の「島」又は大きな川の中の「洲」に譬えている。ここで「真人」とは「阿羅漢」と漢訳されている元の語はarahantで「羅漢」とも音写されている。これは、尊敬されるべき人、拝まるべき人、尊敬供養を受けるべき人のことだそうである。埼玉の川越の喜多院に五百余りの羅漢像が鎮座している一角がある。見ると一体一体皆違う表情をしている。笑っているお顔も怒ったお顔もある。男はごく普通の人たちでも向上を目指して教えを受け、学び、努力すれば「自分のよりどころである真人の境地」に至り、「羅漢」に列せられるのだと思う。

この第二章の最初に次の二つの詩がある。
21 つとめ励むものは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は死者のごとくである。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

「不死の境地」は、amatapadamをそのように訳したとある。漢訳『法句経』では、「甘露道」と訳している。amataは「甘露」と訳されている。「甘茶」はそこから来たのだろうか?
訳注には、「「つとめ励む」と因果の連鎖によって影響は無限にひろがり、死ぬことはない。」とある。男は、「因果の連鎖」は親から子へ、子から孫へと続くものだと思う。

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