2010年1月31日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(9)(20100131)

 ブッダ「真理のことば」は膨大な数の詩であるので、第二章以降はその一部を抜き出して男の思いを綴ることにする。

23 (道に)思いをこらし、耐え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する。思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸(しあわ)せである。
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
26 智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財産(たから)をまもるように、つとめはげむのをまもる。
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
 
 訳注によれば、「やすらぎ」とはnibaana(注:前にもそうであったがaの上にバーが付く文字がないので、このブログでは母音を連ねて書いている。)、サンスクリット語では、
nirvaanaのことで「涅槃」と音写されているとのことである。訳注には「これは最高の理想の境地であり、仏教修行者の最後の目的である。そこでは人間の煩悩や穢れがすべて消滅している。」とある。また「幸せ」とは、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」「財産」「生計」「安寧」とある。

 この「真理のことば」を聴いて男が感じたことは、今から2500年前に生きておられた釈尊はわれわれ凡人に決して無理な戒律を要求しておられなかったということである。修行というと、なにかものすごく厳しいルールを実行しなければならないのかなと普通には思うだろう。しかし、例えば11番目と12番目の詩(関連記事:「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(6)(20100128)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2010/01/20100128-50-500-10-11-12-11-12-saara.html)で、「まこと」という言葉の意味が「精、精髄、堅牢、真利」ということであり、常識で理解できるものである。また上の23番目の詩にある「やすらぎ」も同様である。何も悲壮な気持ちになって煩悩を出さないように自分を縛り、どうしても捨て去ることのできない煩悩を押し殺すように懸命に自制しなければならないということではないと思う。「常識的に考えて誤りのない、真(まこと)の行為としての利」が「やすらぎ」であり、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」などが「幸せ」なのである。修行を積み、年を重ね、煩悩の呪縛から遠ざかれば、それはそれなりに高いレベルの来世があるが、凡人は勉強し向上の努力を重ねれば、少なくとも「阿羅漢」になることはできるのだ。ブッダの教えを聴き、内省し、ニルヴァーナに至るよう努力することが、われわれ凡人にとって最も重要なのだと男は思う。

 男にとって最上の「財産(たから)」は、これまで48年間連れ添ってきた女房である。次に二人の息子たちとその家族である。かくして「いのち」は途切れることなく続いてゆく。