2010年1月24日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(2)(20100124)

 今日もお天気がよい。男は女房と二人で川辺の道を一周した。歩数は約8000歩であった。もう春である。草むらに小さな青紫の花をつけた「いぬのふぐり」が点々とあり、名前は知らぬが小さな黄色い花が一つひっそりと咲いている。男はふと若い頃読んだ聖書の言葉を思い出した。古い聖書は文語体で書かれているが、新しい聖書は口語体である。『マタイオスによる福音』に「あなたたちのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるだろうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働くことも紡ぐこともしない。」という一節がある。

 男は高校生の頃、近くのキリスト教会に通っていた。哲学に興味をもっていてよく判りもしないのにいろいろな本を読み漁っていた。その後教会には通わなくなった。40代、50代になって仏教に興味を持つようになり、いろいろな単行本を買って読んだ。そのうち昨日書いたように、中村元先生の講義をちょっと聞いたことがきっかで、仏教関係の専門書を何冊か買い求めた。それらはたまに気が向いたときに取り出して読む程度で、永い間書棚で眠っていることが多かった。人は老齢になると霊的になると何かのものの本で読んだことがあったが、確かに男は今仏教を本気で学んでみようと思っている。そのうち得度して坊さんにならないまでも、在家の坊さんになると言いだすかもしれないが・・・。

 さて、今日は都内のある区のセンターで詩吟のサークルで詩吟を教える日である。今月の吟題の吟詠が気に入らず何度も詠いなおしてブログ「吟詠」にアップロードしたが、来月の吟題の吟詠に取りかからなければならないため一応改善は打ち切り、今日、来月の吟題である夢窓疎石の『修学』をアップロードした。アップロードして聴いてみたが、あまり気にいらない。そのうちまた録音しなおして、結果が良ければ入れ替えるつもりである。

 昨日に引き続いてブッダの『真理のことば』について書くことにする。

3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにことがない。
4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

男はいつも思うことがある。キリスト教やイスラム教の信者は、信者同士で争い、殺し合う。ところが仏教の国では宗教に関わる争いや殺し合いはほとんど聞かない。何故だろうか?それは仏教は、人間としてどう生きるべきであるか、という「人間の学」であるからである。キリスト教やイスラム教は言うなれば一つの神、天地創造の神を中心に据え、その神の代行者としてイエス・キリストやマホメットがいる構造である。しかし仏教は‘教’という文字が付くけれども人間の正しい生き方を理論的に体系的に説明した‘学’である。
男はその‘学’をももっと深く勉強したいと思っている。