2009年6月12日金曜日


三渓園(20090612

 横浜東南部、本牧の地に三渓園という公園がある。この公園は国指定の名勝になっている。三渓園は生糸貿易で財をなした実業家原三渓が、1906年(明治39年)に自宅を公開したことに始まる。男は四季折々によくその公園を訪れる。横浜では70歳を超えると年間少しばかりの出費で「敬老パス」というパスが支給されるので、男はそのパスを使ってその三渓園に無料で入ることができる。

 ある雨上がりの夕刻近く、男はいつものように受付でそのパスを見せながらちょこんと頭を下げてその公園に入った。受付の女性はいつも見る顔である。

 昔は皇族や貴族や殿様などしかこのような庭園を持つことはできなかった。日本各地の庭園はそのような階層の人たちが所有していたものを明治以降、国や地方自治体が管理して公園にしているものである。広さ約175千㎡(約53千坪)の広大な三渓園には原三渓自身が明治時代に建てた鶴翔閣のほか、原三渓が京都などにあった古い建物を買い取って移築した重要文化財の聴秋閣や春草盧などが趣のある池などともに美しく配置されている。聴秋閣は京都の二条城にあったとされる建物であり、春草庵は信長の弟・有楽の作と伝えられている茶室である。原三渓の旧宅・鶴翔閣は、延べ床面積950㎡もある広大な建物である。いまどきこのような風流な邸宅を持っている人は居ないのではないかと思う。

 男は三渓園に来ていつも思う。時間とお金はその人の使い方次第で豊かな気分になれるし、貧しい気持にもなるのだと。男は三渓園に来たときは、その時の状況次第ではあるが平安時代の貴族たちのように花鳥風月を感じるようにしながら、園内をゆっくりとした足取りで散策し、茶席に立ち寄って400円のチケットを買い、ゆったりした気分で菓子と茶を頂くことにしている。

 その日は平日の閉園時間が近づいていたこともあり、雨が続いた後でもあったので、園内には人がまばらであった。茶席のガラス窓の向こう側に小さな池があり、2、3匹のカメが上の草むらのところに上ってじっとしていた。男は女房から昔習った作法どおり、お茶を頂きながらしばらく池の景色を見ていると、右方からアオサギが一羽抜き足差し足移動してきた。抜き足差し足とはまさしくこのような動作のことを言うのだと思うほど、その動作が面白かった。アオサギがなぜそのように抜き足差し足しているのかは分からなかった。4、5歩歩いたのち方向転換して池の面を見つめている。すると何か獲物が見つかったのだろうか、急にひょいと頭を下げ、また上げた。そしてまたじっと池の中に眼を向け続けている。一瞬びゅっと非常な早業で池の中にくちばしを突っ込み、くちばしをぱくぱくさせながら上にあげた。男はアオサギがそのようにして獲物を取ったのを初めて見た。

 傍で着物姿の女性たちが閉店の準備を始めた。「今日は79人と、団体の方が23人だった。」などと話している。男は一人の女性に話しかけた。「ここにはお茶の会が交代で来るのですか?」。女性は「はい、そうです。表千家、裏千家、○○家と交代で来ています。今日は結構忙しかったです。フランスの方が団体でおいでになりましたよ。」という。

 男は「今日の三渓園はとても良かった」といい気分で帰路についた。道すがら携帯電話のカメラをデジカメモードにして、雨上がりの夕刻の三渓園の風景写真を2,3枚撮った。