2009年6月22日月曜日


日本人は皆同胞(20090622

 男のところに郷里の親友からかつて男が子供の頃よく遊びに行っていたお寺「専想寺」の歴史に関する資料を送ってきた。その親友は男の竹馬の友達で男の父親とその親友の父親同士も親友であった。その親友は「史談会」という会のメンバーである。彼はその史談会が作業して作成した郷里のよもやま話も送ってきた。その資料名は『別保の歴史 四方山話』という題名である。

 男は昔「豊後高田庄」と呼ばれていたところの出である。そこは藤原摂関家の荘園があったところで、後藤、江藤、佐藤など藤原氏族が沢山住んでいるところである。平安時代、京の都から多くの藤原氏族の者が下ってきてその地に住み着いたらしい。だからその土地に昔から住んできた人たちの家々の人は、たとえ親族ではない他人であっても遺伝学的には皆どこかでつながっている筈である。

 というのは、一世代を仮に25年間とすると、240乗だから、1000年も経てばひと組のカップルから1兆人の子孫ができている勘定になるからである。しかも限られた狭い地域である。昔婚姻関係は家柄を重視して見合いで決まっていたし、近所の評判も嫁の嫁ぎ先を決める大変重要な要素であったから、何十年、何百年前血のつながった同士が婚姻関係を結んでいた筈である。実際、男の郷里の昔10軒ほどの集落には男と同じ名字で家紋も同じ家が3軒ある。そのうちの1軒は男が子供のころ新宅と呼んで親しい付き合いをしていたが、もう1軒とは他人同士の間柄であった。男が父親とともに別の土地に籍を置くようになって何十年も過ぎた今ではその3軒とも他人同士の間柄になってしまっている。

 以前、テレビで鳥取かどこかに日本人と結婚して住んでいるモンゴルの女性のことが紹介されていた。彼女はジンギスカン(チンギス・ハン)の直系の子孫だという。テレビで彼女の実家の系図が紹介されていた。ジンギスカンと言えばあの文永の役、弘安の役で日本に来襲した当時の中国の皇帝フビライ・ハンの祖父である。余談であるが中国の支配者は古代からずっと漢人(漢民族)で一系であったわけではなく、元の時代はモンゴル人、日清戦争のころの皇帝は現在の中国東北地方から興ったツングース系の満州族であった。

 日本の場合、天皇は古代日本の統治者であったが武士の時代になってからは武士の家の宗家が天皇に代わって日本を統治するようになった。天皇は神代の時代国の神々をまつる祭祀を行う存在であり、英語でエンペラーと訳されていてもいわゆる皇帝ではない。

 さて彼女によれば、現在モンゴルにはジンギスカンの子孫と称する家が3000軒あるそうである。その家々からジンギスカンの血をひかない家に嫁いだ女性はもっとおいであろう。そうするとジンギスカンの遺伝子のうちY染色体という男系にしか伝わらない遺伝子以外の遺伝子を有する人々はさらに多い筈である。男の郷里のことを考えてみると、その地域に暮らす人々の多くは藤原鎌足の遺伝子を持っているだけではなく、藤原氏は天皇家との間に恋姻戚関係があったので、天皇家の遺伝子も持っている筈である。

 明治天皇がお作りになった歌「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の中の「みなはらからと思ふ世」の「はらから」は同胞ということで『広辞苑』によれば「同じ母親から生まれた血縁」ということである。日本人は皆同胞なのだ。