2009年6月29日月曜日


冤罪(20090629

  足利事件の菅家さんは冤罪で17年間も牢獄につながれていた。痴漢事件の冤罪は30件に及ぶそうである。取調官は調書を作って被疑者に読んで聞かせ、厳しい取り調べに被疑者は根気が尽きて、調書に署名押印してしまう。そのようにして無実の者が犯人になる。
おれおれ詐欺には絶対引っかからないと言っていた老婦人が言葉巧みな話術につい騙されてしまうように、余程精神がしっかりしていないとその場の雰囲気にのまれてしまうのだ。

 男は若いころ「戦い」というものについて何かの本で読み、納得したことがある。それは、「一般に戦いはシステムとシステムとの戦いであり、システムの優劣が勝敗を決める。」というものである。それはスポーツにおける戦いでも言えることである。一人よりはあらゆる専門家と組んだ組織の方が強いに決まっている。正直な菅家さんは単独で警察組織に立ち向かわなければならなかった。菅家さんが逮捕された時の映像が放映されたが、その時菅家さんはうつむいて何度か首を振っていた。「違う、違う」と言っているようであった。

 男は「冤罪を防ぐには、被疑者が単独で警察組織と相対するとき、取り調べの状況を映像に撮り、取調室からは見えない隣室で取り調べの様子を第三者が見ている仕組みを制度化するなどして、被疑者側のシステムを補強することが必要である。取調側も被疑者の脳波を測定したり嘘発見器を使うことなど制度化して、システムを補強することが必要である。」このように「システム対システム」という考え方をしたらどうかと思う。

 倭国が律令制の国・日本国となって朝廷、今でいう中央政府が国を統治していた平安時代中期も冤罪は多かったと思う。聖武天皇が皇族の血をひかない、今で言うところの「民間人」を后に迎えようとしたとき、そのことに反対していた長屋王は後年冤罪により自殺に追い込まれた。聖武天皇(在位724749年)は藤原不比等の娘・光明子を后に迎えたのである。光明子は皇族以外から皇后になった初めての女性である。『続日本紀』によれば、長屋王の事件の3年後、聖武天皇は天平4年(732年)「詳しく冤罪で獄にある者がいないか調べよ」と詔りしている。

 男は冤罪が問題となった平安時代と今とで、取り調べられる側と取り調べる側をシステム対システムとして考えた場合、大きな違いがあるのだろうかと思う。長屋王は下級官人の偽りの密告で罪を着せられ、厳しい尋問を受けて結局自殺させられたのである。長屋王は軍を動かすことができる立場にあった。そのため、その行動を起こさせないように天皇の命を受けた軍隊が都に入る道筋の三つの関所を閉め、宮廷に最も近い場所にあった長屋王の邸宅を包囲し、身動きができないようした。その上で尋問団が長屋王を取り囲み、長屋王の罪を追及して尋問したのである。結局長屋王は罪を着せられ、自殺させられ、妻や子たちも自殺させられたのである。このいきさつが『日本書紀』に詳しく書かれている。

 余談であるが、今で言うところの「民間」から出た皇后は宮中に住むことなく、長屋王一家が暮らしていた邸宅を皇后宮としてそこに住んだらしい。「民間出」は初めてのことなので、当時の事情として宮中で暮らすことができなかったのかもしれない。『平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏著、講談社学術文庫)によれば、長屋王邸宅付近から木簡の削りくずが大量に出土して、その歴史的事実が次第に明らかになったそうである。