2009年6月18日木曜日


社会教育(20090618

健康を維持して子供に迷惑をかけないようにしたい、と老齢期にある親は思う。しかし、子供に迷惑がかからないことは絶対にあり得ないだろうと男は思う。春に萌え出でた草木も時の移ろいとともに枯れて土に帰るように、1、2歳のころ可愛かった人もまた老いれば皺だらけになり、話す言葉にも覇気がなくなり、立ち振る舞いにも人の手を借りるようになり、やがて命が尽きてあの世に旅立ってゆく。
自分の子供に対して負い目のある親は、その子供にすり寄り、あれこれ尽くしてその負い目を少しでも補償しようとする。一方、己を犠牲にし、必死の思いで子供を育ててきた親、特に母親にはそのような負い目はない。今日そのような母親は少ないのではないか、と男は思う。母親になった娘の親で今自分の過去を反省し、償いをしている親たちは娘が可愛いという理由だけではないのではないかと思う。
夫や子供の犠牲にはなりたくない、楽しめるときは今しかないのだから今のうちに十分楽しんでおきたいと考え、やれテニスだの、やれフィットネスクラブだのと同じ類の仲間との触れ合いを求め、自己中心の行動にもっともらしい理由を見つけ、同じたぐいの仲間内で互いに納得し合っている。馬鹿げたことである。
人生良いところどりはできないのである。人生の大事業は結婚して子供を持ち、その子供を立派に育て上げて世に送り出すことである。動物たちはみな交尾の相手を求めて、どういう法則によるのかは分からないが子孫を残すものがその相手との間に子孫(赤ちゃん)を作り、その赤ちゃんを育て、巣立ちを促し、やがて親と子は別れて子は新たに子孫を残してゆく。人間はそのような動物に学ぶ必要がある。
男は女房に「お前は子育てに悩む若い母親に行政として何かアドバイスするアドバイザーのような制度があれば、応募して経験を生かしたらどうかね」と言った。ヘルパーをしている女房は「Aさんは目が悪く、80幾つにもなっていて体が不自由で可哀そうだよ、手助けするなら私はAさんのボランティアをした方がいいわ」という。その理由はかつて若い母親がヘルパーの講習を受けたとき子供の面倒をみてやったことがあったが、その講習が終わりその母親が戻ってくるなり、「○○ちゃん、お家に帰ろう」と言っただけで女房に「有難う」の一言もなかった。だからそのような母親の手助けなどしたくないというのである。
男は女房に「そのような母親に‘ありがとうは?’と言ってやればよかったのに」と言ったら女房は「そんな事を云ったものなら意地悪と思われるだけよ。」という。男は重ねて「それでも相手の教育になるのではないか」と言ったら、「だめよ、言っても今の若い母親には反感を持たれるだけだわ」という。
男はこの小さなマンションで顔を合わせる子供に対しても自ら「おはよ」とか「こんにちは」などの言葉をかけている。まず挨拶すること、そして「有難う」と言うこと、これが人間関係の基本で、それはまず家庭の中で夫婦、親子の間でも自然に行われるようにすることが、明るい社会を作る基本だと考えている。
子供の面倒をみてやった女房に「有難うございました」の一言も言えなかった若い母親などに対する社会教育は、まずそこから始めたらよいと男は思う。

0 件のコメント: