2009年6月25日木曜日


縁(20090625

 人は自分の一生の間に自分の力を発揮すればなしうることと、自分の力ではどうにも為し得ないこととがある。前者といえども最善を尽くして天命を待つほど真剣にならないと、本人がいくら願望していてもその願望を達成できないであろう。

 問題は後者の方である。何が自分の力ではどうにも為し得ないのかについては、当人の状況判断によって決まるものである。状況判断は、何が当人にとって最も重要であるか、その重要な物事のためにどういう態度をとり、行動しているか、客観的に冷静に考えてみる必要がある。自分は他者に何をしてあげて、その他者から自分は何をしてもらったかについて、過去から現在に至る時間軸でよく考えてみる必要がある。

 男は、良寛の作詞『意(こころ)に可なり』をよく口ずさんでいる。その詩は「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す」で始まる。無欲であるということは、自分に最も身近な人に対する深い愛がなければ無欲にはなれないと男は思う。良寛の場合、世俗を離れ、独り庵に住み鹿などの動物たちを友にし、村の子供たちと戯れて遊び、常に古の賢い人たちの教えを学んでいた。何十歳も離れた良寛を何かと世話をする一人の若い女性がいた。一日5合の米を提供する支援者もいた。

 真に情けないことであるが、かつて政府の高官が金銭欲のため牢獄につながれた例がある。「求むる有って万事窮す」例は多い。元皇族が書いた本『旧皇族が語る天皇の日本史』の中で戦後GHQの指令で皇籍を離れる皇族に、当時の宮内庁長官が「いずれ将来また皇族に復帰することもあると思うので、お身をお慎み下さい」と言われたそうである。皇族と旧皇族は一つの会を通じて交流をしておられ、「身を慎む」ことができているのだろうが、件の高官は自らの家の先祖のこともおろそかにし、「身を慎む」文化がなかったのであろう。「身を慎む」ための文化をもっているかどうかで「自分の力、自分の人生ではどうにも為し得ない」事柄を悟る判断の仕方が異なると男は思う。

 一般に成り上がりの者にはそのような文化がないから、「○○は▽▽会社の社長をしている」とか「□□は県議会の議長だ」と称賛し、自らも「もっとエラクなりたい、もっと資産家になりたい」などと思って頑張る。その頑張ること自体は決して非難されるべきものではない。その欲望がなければこの世は発展しない。最も重要なことは、他者を大事にし、他者の成長を助け、他者に助けられていることを自覚しながら自らも向上を目指す志である。「衣食足りて礼節を知る」というが、たとえ「衣食足らなくても礼節を知る」ことが大事である。

 何が自分の力ではどうにも為し得ないのかについては、当人の状況の判断によって決まるものであるが、その「状況」とは、仏教で教える「縁」であると男は考える。「縁」は一期一会の気持ちがないとなかなか分からないものではないかと男は思う。お茶を学んだ者がすべてこの一期一会のことが分かっているとは到底思えない。その中で男の女房はこの一期一会の心掛けが良く出来ている一人である。その精神は女房が幼少のころから思春期のころまで過ごした女房の祖父の家の文化の中で培われたものである。

 男は、人の精神の良し悪しはその人が育った環境による、武士の家には武士の気風がある、誰にも同じ時間がどのように使われたかにより、その気風は違ったものになるのであると思う。