2009年10月18日日曜日

老いれば時の移ろいの中に身を委ねた方がよい(20091018)

  電車の中で男より年長と思われる男性がきちんとスーツを着込んで、床上に大きな黒い鞄を置いて、手に日本経済新聞を持ってドア付近に立っている。痩せ顔で鼻がとんがっていて唇は薄くへの字に閉じている。その男性が座席に座っている男をちらりと見て、にやりと笑った。何を思って笑ったのか男には理解できない。多分、「俺はこのようにまだ現役で働くことが出来ているのに、まだお若いお前さんは手に職もなく何処かに遊びに行くようだ。俺は偉いぞ」とでも思ったのだろうか。

 隣に座っていた女房は「あの方は働くことが生き甲斐なのよ。働いて沢山お金を貯めて、死ぬ時は子供に‘有難う’と全部持って行かれるのだ」と言った。男はその男性のように働いて稼ぐ能力がないため、毎日日曜日のように過ごしているだけである。その代わり、その男性にはできないような生き甲斐を持っている。そして毎日あの世に逝くための支度をしながら時の移ろいを楽しんでいる。

 人間年を取ると霊的になるようであるが、男も前世とか来世のあることを信じて、自分が生かされてきたこと、そして今なお生かされていることを感じつつ、もっと仏の道を学ばなければならないと考えているところである。

 こういうとき夢窓国師の『夢中問答集』に出会えたことは大変幸せなことである。男はこの本をいつも携行して折に触れ読んでいる。今日読んだところに「祖意」について問答があった。「祖意」とは「誰でも具えている本体の根本」で、「初心の修学者は先ず第一に祖意(根本の意味)を会得するがよい。句のもとにじっとしていてはならぬ。昔の人も根本の中身が判ってから三十年、五十年と綿密に練磨して前世からの悪業の障害をかたづけることを長養(長く修行すること)の工夫と名づけている。長養がすっかり熟れてしまえば、これをば打成一片(一つに成りきる)という。こうなると自然にたくみな話しぶりの優れた働きも出て来るので、他人のためにつくす手立てもまた自由自在である。これを意句倶到(中身も表現もともにととのった)の人と言う」とその本に書かれている。

 男はそのような立派な人には到底なれない。しかしこのような本を読み、仏教のことをいろいろ勉強し、少しでもそのような人になれるように努力したいと思う。男は決して豊かではないが、さりとて貧乏でもない。日々の暮らしは質素であるが、十分満ち足りている。足りないものは何一つない。女房も同じ心境である。これは明らかに前世からの縁である。その幸せに甘んじていると次の生れたときその生で苦しむことになる。従って仏法の勉強をしながら修養しなければならぬ。しかし男は修験者のような厳しい修行はしたいと思わない。そんな苦しみをわざわざ進んで行うことはしたくない。普通どおりの暮らしの中で楽しみながら仏道に励めばよいと思っている。古事に「厚く仏法僧を敬え」とある。そのことだけは大事に思って可能な範囲で実行したいと思っている。(関連記事「前世、今生、来世(20091001)」、「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
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