2009年12月18日金曜日

暖かい家(ホーム)(2091218)

暖かい家(ホーム)とはどんなホームなのか考えてみた。先ず、夫婦相和しいていなければならないだろう。では、連れ合いの片方が先に逝ってしまったらどうだろうか。多分、そのホームは家族に囲まれていなければ淋しいだろうな、と男は思う。では、家族の居ないホームはどうなのだろうか。その場合、独居であることに耐えられる何か別の価値を持っていなければ独りでは生きてゆけないだろうと思う。別の価値とは例えば愛犬とか、宗教的なものとかである。独居していても誰かが何くれと声をかけてくれるとか、今の時代時々顔を見せ、電話などでよく連絡があるとか、とにかく「自分は独りぼっちではない」という気持ちでいられると独りでも生きてゆけるだろう。男と女房の母親がそうである。
この冬の寒いとき、失職して路上生活を余儀なくされている人たちには、なにか孤独を慰めてくれるものがあるのだろうか。男は昨日陶芸スクールに通ったが、その道すがら公共のトイレに近いところの無人倉庫のような建物の軒先に腰をおろして何か単行本を読んでいる40代後半ぐらいの男性を見かけた。おそらく彼は毎日職探しをしながら路上生活をしているのだろうと思う。彼の故郷はどこなのだろうか。身内はいるのだろうか。家族はいたのだろうか。今、わが国ではそのような失職した人たちが大勢いる。
彼らの今の境遇について、社会のセーフティネットが十分でなかった面も勿論ある。国際競争に勝ち国を豊かにして行こうとする政策のなかで効率的な人材派遣システム(企業側から見れば人材取得システム)の構築を積極的に支援した面もある。一方、若者たちの中には「働きたいときだけ働き、金がある間は‘自己実現’のため、あるいは‘快楽享受’のため働かない」という安易な考え、甘えた考えもあったと思う。アメリカのように徹底した個人主義の国では自己責任が問われる。しかし日本には古来家族主義が根強いため、働く人たちの中にはそのような安易な考え、甘えた考えがあるのは仕様がないことである。
近頃草食人間とか肉食人間という言葉が流行っている。草食人間は自己責任の観念が薄い人間なのだろうと男は思う。責任を他に転嫁するような人間たちだろうと思う。
明治時代、国民が貧しく、列強の圧力、大陸(当時の明国やロシア帝国など)から蹂躙されることを恐れていた時代、士族、特に下級士族たちは先頭に立って国民を引っ張り、国民もまた強烈な自己責任をもって和魂洋才・富国強兵の方針に従った。中心に天皇がいた。今の時代、為政者たちは国のことより自分のことしか考えていないように男には見える。
暖かいホームには暖かい心の持った人、特に女性がいる。常に他者を思いやり、他者に気遣いをし、他者に心配りをしている。20代、30代の若い女性たちでも、自分の母親がそのような人である場合、意識せずともごく自然にそのような振る舞いができる。父親でも母親でも、自分が親になって自分の子供に関わるとき、注意が自分の子供のことばかりに向くのではなく、周囲の人のことを思いやるものである。『坂の上の雲』には理想的な親の姿が描かれているのであろうが、そのドラマの中の親たちは皆立派である。
暖かい心を持っている女性たちに共通することは、先ず「相手を思いやる気持ち」「自分は一歩下がって相手を立てる気持ち」「相手を喜ばせる気遣いや心配りができること」「礼儀作法がきちんとできること」「家事がきちんとできること」「たとえ貧しい暮らしであっても一本の花を添え、或いは庭先に花を育て、四季折々に沿った形をつくることができること」などである。(関連記事:「六義園と小石川植物園の散策(20091128)」)

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