2009年10月23日金曜日

若者たちのうっぷん晴らし(20091023)

日曜日の朝、20代の男女56名の群れが川の堤防の上の道で悪ふざけをして遊んでいる。マンションの部屋から見ていると彼らは何処からか手に入れて来たらしい氷の塊を堤防の下のコンクリートの道に投げつけて砕けるのを楽しんでいる。そして23人の男の子は堤防の上のコンクリートの道に寝そべって秋の日和を浴びて気持ちよさそうにしている。傍らに氷の塊を入れて来たらしい段ボール箱の切れ端など紙くずを散らしている。ジョギングをしながら傍を過ぎゆく大人たちは若者たちにちらっと目を遣るか無視している。
男はその様子を観察していて思った。彼らは何か日々の不満のはけ口がないのだと。女房は「小さいとき家に帰ってもお母さんが働きに出ていて家にいなかったり、パチンコをしに行って家にいなかったりで淋しい日々を過ごしてきた子たちだと思う。」と言う。高尾山に猿の群れの様子を観察できるところがあるが、その施設の人が「猿の社会でも優れた母猿から育てられた子供は成長して高い地位に就くと言っていた。この親にしてこの子あり、よく教育されていない母親に育てられた子供は、またよく教育されない。
チンパンジーやゴリラなどのオスたちは、「ディスプレイ」と言う示威行動をして、自分の優越性を他の猿たちに見せる。それは、その群れの一団のリーダーを脅かそうとする行動である。人間社会ではそれを集団で行う場合が多い。出来の悪い若者たちは群れを作って自分たちの存在を世に知らせようとする。
男は思う。どんな人たちでも何か優れたものを持っている。それを社会にアッピールできる仕組みが社会に沢山あると育ちの悪かった若者たちにもディスプレイをすることによって不満のはけ口を持つことができるのではないかと。そのキーワードは「多様性」である。アメリカのように沢山の人種から成る国では、いろんな遊びがあり、次々と新しい遊びが生み出されている。それらは日本にも入って来ている。しかし日本では自ら積極的に多様な遊びを開発しようとする動きが少ないように思う。確かにゲーム機やアニメなどは沢山ある。しかしそれは屋内で、独りで楽しむものが多い。日本は土地が狭いせいか屋外で皆が見ている前で遊ぶ施設は非常に少ない。
スポーツは、それをする人にとってある意味でディスプレイである。スポーツ選手になり大勢の観客が見ている前でディスプレイ出来る人は限られている。問題はそのようなスポーツ選手に成らなくても、皆が見ている前で誰でもディスプレイできる場所がないということである。都会の中でも良く考えて智慧を出し合えばそのようなディスプレイができる場所を作ることはできるのではなかろうか。人前でわいわいがやがや騒音を立てて誰でもディスプレイができることを、文化として広める動きを、政府として率先奨励するならば、良い智慧も生まれるはずだ。
男の長男は高校生の時アメリカ留学をしてその高等学校を卒業している。彼が留学の体験として男に語ってくれたところによると、アメリカでは出来の悪い生徒でも、何かで単位を取得して高校を卒業できるという。例えば陶芸をして単位を貰ったクラスメートもいたという。日本にはまだまだ一律性を強調する文化が根強い。多様性をキーワードにして落ちこぼれのない若者を育てるようにしなければならない。
男は堤防の上で悪さをしていた若者たちを非難する気持ちにはなれなかった。彼らが散らかしたものを後で拾って始末して置こうと思った。

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