2009年10月7日水曜日

子供たちが遊ぶところがない!(20091007)

 東京の足立区のある公園で子供たちが歓声を上げて遊ぶのがうるさいと、近くの住民が訴え出て、区はその公園で子供たちが遊ぶのを禁止する措置をとった。男は、行政側は声を大きくして文句を言ってくる人の意見を取り上げてそのような措置をとったのか、ならば逆に親たちは子供たちの遊ぶ権利を主張して逆に‘声を大にして’ 訴え出ればよいのだ、と思った。

 そこではもう何十年も続けて来た朝のラジオ体操の音もうるさがられているという。毎朝ラジオ体操をしている人たちはラジオ体操の音楽のボリュームを下げて秘かに続けているらしい。近頃都会では寛容さがなくなってきたと嘆く人たちがいる。

 一方で、あるお家の人は、窓の外のシャッターの表面を指差して、子供たちがボール遊びをしてそのボールがシャッターに当たり、何か所か凹みができているのを指差しながら、昔はこんあことはなかった、子供たちの遊ぶ声も楽しかった、しかし、今は逆に苦痛を覚えるようになった、という。原因は町内に集合住宅が何か所かできて、その住宅の子供たちが遊びに来ているが、ご近所とのつながりがなく、害だけが目立つことにある。

 ある町内では、わざわざスノーボード遊びができる場所を造り、その場所に各地からスノーボードを楽しむために人が集まる様子が放映された。町の人たちは初め、スノーボードに非常な不快感を持っていた。しかし、スノーボードを楽しむメンバーにリーダーが居て、根気よく町の人たちに理解を求め、ルールを決め、ルール違反を行えば、直ちにその場所が使用できなくなるというペナルティーの規則までつくり、それだけではなく、スノーボードのメンバーが町の人たちとその公園の清掃まで行っている。

 NHKのある番組で、第一線の科学者や哲学者が「人間(ヒト)とは」という定義をしたことが放映されていた。ある方は「ヒトとは、他者の中に自分を見たがる動物である」と定義した。ある方は「ヒトとは、心的世界を持ち、それを他者と共有する動物である」と定義した。ある方は「ヒトとは、深読みをする霊長類である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、他者を通じて‘私’とは何か、を知る存在である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、自分を訓練する存在である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、相手が心を持っていると信じることができる生き物である。」と定義した。

 そう、ヒトは他者との関わりの中でしか生きて行けない存在なのだ。件の公園の騒音問題を‘騒音(そうおん)’ではなく、‘煩音(はんおん)’であると、NHKの番組である方が言っていた。行政に苦情を言ったり、裁判所に訴え出たりする前、誰かが動いてお互い話合うようにすれば良いのだ。行政も裁判所も、先ずその話し合いの仲介、橋渡しをすることが出来ない筈はない。そのような文化を導くことができる立場にあるのだから・・。

 近頃、金儲けに走る寺や生臭坊主がいる。大乗仏教は、人々を仏の世界に導く立場だ。それなのにその役割を果たしているとは言えない。檀家も減ってお寺の経営もままならない状況になってきたのは、彼らが真剣に仏教を広めようと努力しないからだ。中には仏教の仮面をかぶって政治運動にも手を出した団体もある。そのような風潮が広まってきたのは、僧侶たちが団結して立ち上がらないからだ。『夢中問答』(夢窓国師)には、「今生で気が付かずに自らの罪業のため、真の仏法の修行をすることがない。行いによって次生に人間界に生を受けるか、畜生界に生まれる。」というようなことが書かれている。男は、皆心を素直にして、仏教を学んで欲しいと思う。