2009年10月9日金曜日

「助けて!」と言えず、39歳男性の孤独死(20091009)

男は昨夜あるテレビ番組を見て胸が詰まる思いであった。青年期に母を亡くしていた39歳失職男性が、学生時代に親しくしてくれていた同級生の母親に「おばさんの作った牡丹餅をもう一度食べたい」と言った。その女性はそれを作り重箱に詰めてその男性に渡した。その男性の顔色がさえず、痩せていたのでその母親は心配して「少し痩せたようだが」と言ったら、その男性は「大丈夫です」と言ってにこりと笑顔を見せ、礼を言って帰って行った。それが最後だった。その男性はとうとう食べ物もなくなり、遺書一通を残して自ら命を断った。遺書にはそれまでその男性がどうしても言えなかった言葉「助けて」という文字が書かれていた。その母親は自分の息子と同じ年のその男性と別れた時のことを思い出すたびに、「あのときもう少し話をしてあげれば良かった」と悔やんで涙ぐむ。
その男性は九州のある弱電メーカーで派遣社員ではあったが福利厚生などは正社員並みに扱われ、気持ちの上ではそのメーカーの正社員のつもりで働いていた。しかし不況で失職し、遂に会社の寮を追われ、ホームレスとなってしまっていた。その男性は高校時代まで故郷のある離島で育った。成績は常にトップクラスで将来は故郷からそう遠くない北九州で暮らしたいと思っていた。その男性は今は亡き母が漁業協同組合で一生懸命働きながら仕送りしてくれた学資と、学業の合間に居酒屋のアルバイトをしながら稼いだ金で何とか大学を出た。しかし当時は就職氷河期、なかなか就職はできなかった。
そこでその男性はアルバイトをしながら専門学校で学び、技術を身につけ、ようやくある人材派遣会社に就職することができた。そしてその会社から北九州のある大手の弱電メーカーの工場に派遣され、そこで働くことができるようになった。勤務成績も良く派遣社員ながらその工場である工程の作業チームのリーダーを任された。交際している女性がいて、いずれ所帯を持つ希望を抱いていた。その矢先失職したのである。
その男性が失職する5年ほど前、若いながら会社の社長になり、億万長者になりマスコミにもてはやされる人たちがいた。彼らは勝ち組と言われていた。その一方で負け組になりたくないと頑張る人たちがいた。その男性もその一人である。世界的不況でそうなったとはいえ、失職したのは自分に能力が足りなかったからだとその男性は自分を責めた。他人には自分が落ちぶれた姿を見せたくはなかった。インターネットカフェや公園などで野宿はしていても、常に身だしなみには気を付けていた。故郷にもう親は居ないが故郷の親戚には自分が失職したことを内緒にしていた。そして毎日ハローワークに通い、職を探した。しかし定まった住所がないため面接にこぎつけても、いつも初回で不合格となった。それでもその男性は何とか就職しようと毎日頑張った。他人に「助けて欲しい」という気持ちがあるが、どうしてもそれを口に出すことができなかった。「助けて!」という悲痛な叫びを遺書の中に一言残しただけであった。
男と女房にもその男性と年よりは4歳前後年上だが世代的にはそう違わない二人の息子がいる。お陰さまで二人ともそれぞれ一流の企業の中堅幹部としてばりばり働いている。男と女房の息子たちはたまたま運が良かっただけだとは決して思わないが、同世代の子供を持つ親として、その男性のことは可哀そうでならない。「助けて!」と周囲に言えない文化があり、自分たちもその文化を肯定してきたのではないかと反省もする。これからは不況で失職した40歳前後の人たちのことをもっと思いやらなければならないと思う。

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