2012年3月14日水曜日


韓国併合(六)安重根の伊藤博文暗殺(つづき)(20120314)

 引き続き岩間弘著『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。

“「伊藤公遭難について韓国宮中の模様」と題する若林警視総監の報告によれば、大皇帝(高宋)は次のように語っております。

「公はわが国に忠義正義をもって臨み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。実に伊藤はわが国の慈父である。……」(十月二十七日)

「伊藤を失ったことは、わが国と言わず、日本のみならず、東洋の不幸である。日本の天皇は唯一の重臣にして大師の伊藤をなくされた。それなのに伊藤を害した凶徒を出した国の皇太子を、あくまでも輔育する誠意を見せた。山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」(明治天皇が、韓国皇太子の輔育の後任に、岩倉侯爵を命ずる勅語を出された報を聞いて、十月二十八日)(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

伊藤博文としばしば対立した高宗に「……実に伊藤はわが国の慈父である……」と言わしめ、「……山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」の言葉は高宗の真実の言葉であろう。この言葉を今の韓国の金大中大統領も国民もよく考え味わって貰いたいと思う。

また、李容九は伊藤博文暗殺さるの報を聞いて耳を疑い「韓国を滅ぼすのは天か」と長嘆息をした。十一月四日、伊藤公の国葬の日、一進会は「独立館」で追悼会を催した。

伊藤博文が暗殺されると日本国内に韓国併合論が高まり、合併に反対していた曽彌統監は更迭させられ、後任に寺内正毅(てらうちまさたけ)が就任すると一挙に合併に進んだ。”
(続く)

 韓国の純宗皇帝のとき皇太子であった李王根(李根の敬称)は、大韓帝国初代皇帝・高宗の高宗の第七子である。皇宗がハーグ密使事件で皇位を純宗に譲り、純宗の異母弟である李根が大韓帝国皇太子になった。

大韓帝国は日本が韓国を「自主の邦」にするため当時の李王朝と合意の上建てた国家であった。李王朝(李氏朝鮮)は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝であり、高麗の次の王朝である。その高麗王朝は、918年に王建(太祖)が建て、1392年まで続いた王朝で王氏高麗とも呼ぶ。王氏高麗以前も含め、朝鮮半島の各王朝はシナの皇帝の冊封下にあった。そのシナの清朝を滅亡に追い込み、朝鮮をシナの支配から解放して「自主の邦」にしたのは日本であった。

 その「自主の邦」に育て上げるべく命を懸けて努力していたのが伊藤博文であった。その伊藤博文遭難の後、明治天皇の命により岩倉侯爵がその輔育にあたった。

 李王根は日本で、学習院・陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校の教育を受け、帝国陸軍歩兵第59連隊長などを歴任し、陸軍中将になった。日本の皇族・梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚し、純宗薨去後李王家を継承したが、李王家は途絶えた。

 日本人はもとより、韓国・北朝鮮人も在日韓国・北朝鮮人も、大韓帝国成立までの経緯や大韓帝国が韓国併合により消滅後も、李王家が日本で以下に大事にされていたか知るべきである。王家は国民統合の象徴であったのだ。

 今、韓国は、譬は良くないが中学校の生徒会長を選ぶような方法で大統領を選び、その大統領の親族が汚職で摘発されたりしている。韓国の「国家」は、そのよう大統領の行政のための「国家」のようである。もし、韓国に日本の天皇のような国民統合の象徴があれば、韓国の「国家」は日本の「国家」ともっと近い関係になっていたであろう。