2012年3月11日日曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(20120311)

 “明治四十年六月、オランダのハーグで開かれた「万国平和会議」に皇帝は三人の密使を送り保護条約の無効を訴えようとした。しかし保護条約はすでに各国に通知されていたので、ロシア代表の平和会議議長は、韓国に外交権が無いからと密使の出席を拒否した。

この事件は当然日本に知れて、その真意を皇帝に質すと、皇帝は例によって「その様な命令はした覚えはない」と否定した。この事件が報道されると、伊藤の軟弱政策の失敗を衝き一挙に合併すべしとの世論が上がった。さすがの伊藤も自分の真意を裏切る行為に激怒し「日本は韓国に対し宣戦布告する理由がある」とする抗議文を韓国政府に提出した。(以下名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』より)

 それを受けて七月六日より皇帝を迎えて午前会議が開かれました。農商工部大臣宋秉畯(ソウヘイシュン)は勇気を振るって皇帝に詰め寄りました。(この会議の模様は田端元氏の『東亜先覚士伝・中』・韓相一『日韓近代史の空間』等に詳しい。)

 「伊藤総監は決して韓国を奪おうとしているのではない。……彼の欲心といえば、貧弱な我が国を扶けて日本のようにしたいだけである。それに対して陛下は日本の善隣を破るために一億からの金を費やされた(ハーグへの密使派遣を指す)。この巨額の資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった。……これまで陛下が日本の信義に背かれた事十三回、事実が暴露されれば必ず、知らずと言い、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るが如きであった。今や新聞事件(英人トマス・ベッセルが発刊する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する新翰が掲載)を合わせて十五回目の背義に及ぶ。ただ伊藤総監が寛容の心を持って陛下の悔悟を待つ態度をとっているにすぎない。

 今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし統監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるどうか」

 彼はこの様に切々として直言しました。すると皇帝は、
 「それではどうせよと言うのか」
 「およそい二つの方法がある。一つは日本の行幸をして、親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝するか。さもなくば日本との開戦しかない」

 それを聞いて皇帝は激怒し、「お前のような男を重用するのではなかった」と捨台詞(すてぜりふ)を残して奥へ入ってしまいました。

 その後何回か閣議を開き、宋は閣僚に対して、「今回の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍いではないか。退位して謝罪して貰うよりほかはない。陛下と国家とどちらが重要か」と迫りました。

 李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うよりほかはない。それが王室を守る道である」と考え、その旨を皇帝に上奏しましたが、皇帝は聞き入れません。

この御前会議の模様が外部に伝わり、「李内閣は乱臣賊子の団体で、宋秉畯はその巨魁である。彼を斬るべし」という声が起き、首都は騒然となりました。”       (続く)