2012年3月10日土曜日


韓国併合(三)伊藤博文 初代統監の真意(20120310)

 “保護条約が締結されると、伊藤博文が初代の韓国統監となり、翌年の明治三十九年(一九〇六年)三月二日に着任しました。

 彼は明治四十二年六月まで統監の地位にありましたが、指導方針は一貫して韓国を近代的独立国家として育成することにありました。約三年に及ぶ統監時代、施政改善に関する協議会を閣僚との間に持つこと九十七回、皇帝に上言すること二十二回に及びました。

 現在、韓国の教科書は、伊藤博文を「韓国侵略の元凶であり、大陸侵略の推進者」と書き、千円札に博文の肖像画が登場した時には、韓国から抗議の声があがったことがあります。しかし彼は韓国を併合することには反対であり、彼の政策は、日本国内では「韓国本位にものを考え過ぎる」として不評を買った程です。彼は統監としてどんな態度で臨んだのか。明治四十年五月二十八日、統監府の課長以上の幹部(日本人)に対して次のように訓辞しています。

 「苟(いやしく)も数千年の歴史と文明とを有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論(当時の日本国内の韓国併合論のこと)に賛成せず、またわが陛下の御思召(おぼしめし)も決してそうではない」

 また同年の五月三十日には、李完用内閣に対して、次のように叱咤しています。

 「凡(およ)そ国家は自ら独立するの要素なくして単に他国のみによりて立ち得るものに非ず。今日の如くして進まむか、夫れ韓国を滅するものは他国に非ずして韓国自身ならむ乎。故に諸君は反復裏表なく専心一意韓国の為に謀らざるべからず。自分は諸君を助け、韓国をして自立せしめ得る様尽力しつつあり、然るに韓人は日露戦争の如き大激戦を目撃するも尚覚醒せざるは何事ぞや」

 「日本は朝鮮の独立を望み、彼の条約(保護条約のこと)を締結せり。故に韓国を強いて独立国なりと言わしめたるは日本なり。……日清の役(えき)にて韓国は清国の羈絆(きはん)(束縛)を脱したり。ロシアの、手を韓国に伸ばすや、之を拒まず、韓国の独立を謀る者は却って之を嫌悪し、遂に日本をして韓国のために露国と干戈相見るのやむなきに至らしめたり。故に今日外交権を日本の掌中に収めるは当然なり。何となれば之を依然として韓国の手に存せんか、韓国はいつまでも列国の競走場となり……それ韓国を滅するは他国にあらず、内外の形勢を察知せず、無謀軽挙を事とする韓人なり」

 ここに明治以来我が国が韓国に対して採ってきた政策の基本があります。…(中略)…
 にも拘わらず、それより三年後の明治四十三年(一九一〇年)、日本は韓国を併合してしまいした。何がそうさせたのか。ここに日韓領国にとって大きな教訓が秘められています。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』より。…(中略)…

 韓国は…(中略)…伊藤博文は韓国が自主独立国になることを願って真剣に指導していることをよく理解して、日韓が友好国になることを願うなら反日を煽る言動は止めて貰いたいものである。”                          (続く)