2012年3月24日土曜日


第一次世界大戦(一)サラエボ事件(終り)(20120324)

 “大正三年八月七日、大隈首相邸で開かれた緊急臨時閣議における加藤外相の参戦発言「……かかる次第で、日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規定が、日本の参戦を命令するような事態は今日の所では未だ発生していない。ただ一つ英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは帝国がこの機会に独逸(ドイツ)の根拠地を東洋から一掃して国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦を断行するのが機宜(きぎ)の良策かと信ずる」

 加藤はさらに「参戦せず単に好意の中立を守って、内に国力の充実を図るのも一策」としたが、閣議は結局「同盟による義務であると同時に遼東還付(三国干渉)に対する復讐(ふくしゅう)戦である」と断じて参戦に踏み切り、二十三日にドイツに宣戦を布告した。(山川出版社『詳説日本史研究』)

 我が国が参戦した一九一四年秋頃より、英、仏、露は我が軍を欧州に派遣するよう懇請してきたが、我が国はこれを拒絶した。英国から再度の出兵要請が来た時、「帝国軍隊の唯一の目的は、国防にあるが故に、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」と述べて強い拒絶の意を表明したのであった。

 この他、ベルギー、フランス、セルビアの諸国からも日本陸軍の欧州派兵を勧誘してきたが、我が国はいずれも拒絶した。しかし、英国は再三にわたり我が艦隊の地中海派遣を要請して来て、船体の損失は補償し、燃料、軍需品は無料で一切の便宜を図るという条件付きではあったが我が国は再三に拒絶した。

 しかしながら、ドイツは一九一七年二月世界の非難を冒して無制限潜水艦作戦を宣言かつ決行、連合国側の船舶は多大の損害を被るに至った。我が国の欧州航路客船の多くも、大西洋、地中海、インド洋で撃沈されて行ったのである。斯かる戦況下、かつては艦隊の地中海派遣を拒絶した我が国がその立場を変えたのも、蓋(けだ)し止むを得ぬ次第であった。

 但し、我が国は、(大隈)前内閣の艦隊派遣拒否の決定を(寺内)現内閣が翻すには、有力な根拠が必要であるとして、山東省と南洋諸島に関する日本の要求に関する英国の保証を得たい旨を申し入れたのに対し、英国は講和会議に際し、山東省のドイツ諸権利と赤道以北の独領諸島(南洋諸島)に対する日本の要求を支持することを「欣然応諾」する旨正式回答してきたのであった(二月十六日)。(中村粲『大東亜戦争への道』)”
 当時のドイツと今のイランが重なり合うようである。
 当時のドイツは世界の非難を冒して潜水艦作戦を決行し、大西洋・地中海・インド洋を経由する和学の欧州航路の船舶も多数撃沈された。
 今のイランはホルムズ海峡封鎖をほのめかしている。ただし、これは米欧の艦隊が威圧しているので実行はされないだろう。しかし、もし我が国のタンカーがイラン海軍の攻撃を受ける可能性がゼロというわけではないだろう。