2012年3月23日金曜日


第一次世界大戦(一)サラエボ事件(20120323)

 引き続き、岩間 著『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。
 
 “オーストリアの帝位継承者皇太子夫妻が、セルビアの反オーストリア運動の秘密結社「黒い手」に属する一青年によって暗殺された。「サラエボ事件」という。”

 “大戦が勃発した当時、日本は遠いヨーロッパの戦争として対岸の火事視していたが、やがてこの大戦が終わってみれば日本に重大な影響を与えた大戦となったのである。

 英国が対独宣戦を布告したのは八月四日であった。同日グリーン駐日英国大使は、加藤高明外相を訪ね、日英同盟の約に従って、万一戦争が極東に波及し、香港、威海衛が攻撃される場合には、日本の援助を希望する旨申し入れてきたため、我が日本政府は厳正中立の態度を取る旨を表明し、「万一、日英同盟の目的が危殆に瀕する場合は、日本は同盟の義務として必要な措置を取ることがあるべし、しかも政府は切にその然ることなきを希望する」との声明を公表した。その後、英国から「支那海で英国の貿易船を攻撃する仮想巡洋艦を撃破してほしい」との正式な参戦要請があった。

 日本は参戦の根拠を広く日英同盟協約におくこととして、大正三年(一九一四年)八月一五日、ドイツに対して次の勧告を行い、八月二十三日までに回答する様求めた。
一、日本及び支那の海洋からドイツ艦船が即時退却するか、武装解除すること。
二、ドイツは膠州湾(山東省)租借地を支那に還付する目的を以て、九月十五日限り無条件で日本に交付すること。

 兵火を交えることを望まなかった我が国は最後通牒の期限を一週間(八月二十三日)という外交上例のない長期のものとしたが、八月二十三日、ドイツから無回答の意思を通告してきたため、我が国は同日対独宣戦した。

 我が国は直ちに青島攻略を開始、十一月初旬に山東省の膠州湾、青島及び膠済(膠州 ー 済南)鉄道全線を占領した。

 一方、海軍は十月中旬赤道以北の独領、南洋諸島を占領したのであった。(中村 粲『大東亜戦争への道』)

 日本の参戦は表向きは日英同盟の誼(よしみ)を果たすことであったが、その裏には「三国干渉」に対する蟠(わだかま)りがあったのである。”
ブログ『日々是支度』2011716日土曜日公開の『日露戦争前哨戦(続)(20110716)』の一部を“”で再掲。

“日露戦争は、一言で云えば、日本の朝鮮・満洲への進出政策とロシア側の満洲・朝鮮への勢力拡張政策との衝突である。此の戦いに到る10年前、即ち明治27/8(1894/5)、清国と戦って勝利した日本は、417日講和条約(下関条約)を締結しこれを調印した。

 これによって日本は、朝鮮に対する清国の宗主的支配を解消せしめ、朝鮮を独立国家として擁立することに成功した。同時に清国から賠償として台湾、澎湖列島と共に遼東半島の割譲を受けた。

 しかし調印の6日目批准の3日後、ロシア、フランス、ドイツの三国から、日本が遼東半島を領有することは清国の首都を危うくし、また朝鮮の独立を有名無実として、極東の平和に障害をきたすのでこれを放棄すべきであると云う強い勧告(三国干渉)をしてきた。 そしてロシアの艦隊はフランス及びドイツ艦隊と糾合して、日清平和条約の交渉地である芝罘の沖に集結し露骨な示威運動を行った。”

日本は「三国干渉」によって日本は遼東半島を清国に還付することを余儀なくされ、その代償として清国から庫平銀3千万テール(邦貨4500万円)を受け取ることで面目を保った。「三国干渉」があったが、結果的に支那・朝鮮は白人諸国による植民地化を免れることができた。また、対独戦争により日本は赤道以北のドイツ領南洋諸島も解放することができた。このことを今に生きる日本人はしっかり銘記しておくべきである。 (続く)