2012年3月9日金曜日


韓国併合(二)日韓保護条約の締結(20120309)

 「韓国併合(一)一進会(つづき)(20120307)」続編。当時の韓国には①「国家」は憲法に定めるところにより運営される、②「国家」は国民の代表者による議決に基づき運営される、③「国家」の運営には権力を掌握している個人または集団の意思が反映される、の三つのうち①と②はなく、③のみであった。

 今60歳代前後の人たちの中には「ロシアの南下を防ぐにあたり日韓両軍で対処すればよかった」という趣旨のことを口にする人がいるが、その人たちは明らかに自虐史観で洗脳されている人たちである。アメリカの戦後政策によりマインドコントロールされている人たちである。

以下再び『大東亜解放戦争』から“”で引用する。
“この条約を締結するために特命全権大使として明治の元勲伊藤博文が任命されました。彼は明治天皇の親書を持って、明治三十八年十一月四日韓国に出かけました。

 親書の一部には、

 (貴国は不幸にして国防を未だ備(そな)わらず、自衛の基礎未だ固からず、為に従来往々にして東亜全局の平和を確保するに足らざりしは、朕の遺憾とする所なり。故に去歳両国間に協約を訂し、以て貴国防衛の責務を帝国に担任するに至れり。今や幸いに平和は克復せられたりと雖も、之を恒久に維持し、将来事件を起こさない為、両帝国間の結合を一層鞏固ならしむること極めて緊要なりとす。)とあります。

 伊藤博文は明治天皇の意を体して、韓国皇帝に最初四時間に亘って誠意をもって陳奏しました。

当時の韓国には皇帝の任命する内閣はありましたが、議会がなく、いわば皇帝の専制国家でした。しかし韓国国内には保護条約に反対する不穏な空気があり、日本軍は王宮前の街路で武力による示威運動を行い、条約を締結するよう圧力を加えました。

伊藤全権は閣僚を個々に説得し、十一月二十七日には皇帝の加わった御前会議が開かれました。御前会議では、日本側の提案を拒絶する線が打ち出されました。頑強に反対するのは首相の韓圭せつ(かんけいせつ、‘せつ’咼の上に‘ト’ が付いた文字。)です。伊藤全権は首相を説得し、全閣僚の出席を求め、一人一人の意見を求めました。

閣僚の五人は「一応協約を締結することによって韓国の国体を護持し、力を蓄えるよりほかない」として賛成しましたが、首相他二名は反対に回りました。全権は最終的に皇帝の意思を尊重し、「韓国ノ富強ノ実ヲ認ムルニ到ル迄」約定する旨を書き入れ、遂にまとめました。

その経過は「朝鮮の保護と併合」(大正五年、朝鮮総督府)という当時の極秘資料の中にまとめられていますが、これを読めば伊藤博文の外交的凄腕に、さすが明治の元勲だけある、と感嘆させられます。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』(名越先生の筆跡、語調をそのまま引用させていただきました)”                (続く)