2012年3月13日火曜日


韓国併合(六)安重根(あんじゅうこん、アンジュングン)の伊藤博文暗殺(20120313)

 “伊藤博文は日露間に協調路線を築く必要を感じロシアのココーツォフ蔵相とハルピンで会談する為、明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、ハルピン駅に到着した。九時二十五分ココーツォフが整列した人達を紹介した後儀仗兵を閲兵しているとき、伊藤の二メートルの距離まで接近した安重根はピストルを発射、七発中三発が腹部と胸部に命中した。伊藤は「ヤラれた。三つばかり弾が入ったようだ」「何者か、森もやられたか」と問い、やがて言葉が通じず、午前十時に落命(六十八歳)した。衝撃は日本国内を走っただけでなく全世界を驚かせた。十一月四日、日比谷公園で国葬の礼をもって弔われた。

 伊藤博文が暗殺されたことに対する世界の反応は、すべてその死を悼み偉大だった伊藤博文の功績を讃えるものであった。

 安重根が伊藤博文の暗殺を行ったのには次の様な事件があったのだった。

 明治四十一年(一九〇八年)三月彼にとって刺激的な事件が知らされた。韓国の外交顧問であったドーハム・スチーブンスが帰米した時、サンフランシスコで記者会見してつぎのような発言をしたのです。

 「韓国の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚昧(ぐまい)に過ぎる。これでは独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」

 これを三月二十二日の新聞で知ったサンフランシスコ在住の韓国人・張仁煥(チョウジンカン)らは激高して、スチーブンスの所に押しかけたが、彼は発言を撤回しません。翌日スチーブンスはワシントンに出発するため駅に出かけました。そこを狙って張はピストルを連発して射殺しました。それを知った安重根は、スチーブンスは日本の傀儡でしかない。彼を操っているのは、伊藤博文である。伊藤こそ撃つべきだと決意するようになったのです。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

 安重根は、韓国に対する日本国内の強硬派を伊藤統監が抑えて、あくまでも併合に反対し、韓国の保護育成に力を注いでいる事などに対する認識がなく、本人はウラジオストックに住んでいて伝聞に基づいて、日本憎しとのみ考えて、その中心人物を殺害することによって、その怨みを晴らそうとしたのであった。

 彼は検察官の尋問に対して、伊藤博文の十五の犯罪と称するものを列挙しているが、それは全く安重根の誤った認識であり、情報不足、勉強不足によるものであることが、名越二荒之助著「日韓二〇〇〇年の真実」の中に詳しく書かれているが、紙面の都合上省略させて頂くことにする。

 安重根は伊藤博文を韓国侵略の元凶と考え、義兵闘争でゲリラをやるよりも直接射撃による暗殺を敢行したのである。その結果は彼が願っていた事と正反対の韓国併合へと進んでいったのである。伊藤統監暗殺は韓国にとっても非常に深刻であった。” (続く)