2012年3月20日火曜日


韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(20120320)

 金完燮氏『親日派のための弁明』について『大東亜解放戦争』著者・岩間 氏はこう書いている。以下、“”で引用。

 “さて、ここで私は何故に韓国が、併合せざるを得なくなるような情けない国なったかという、本当の原因を考えてみたいと思う。

 それは、今迄も中国を宗主国とする宗属関係と事大主義にあったと言われていることは、私もその通りであると思っているが、私はそれをもう少し突っ込んで宗属事大主義がどうして何故韓国をここまで情けない国にしたのかを考えて見たいと思うのである。

 韓国の歴史を辿れば遠く、紀元前一九五年頃、漢の時代、燕に仕えていた満という人物が徒党千人余りを率いて朝鮮に行き、そこに国を開いた。それが衛氏朝鮮の始まりである。

 後漢代の『潜夫論』からは衛満として登場する。衛満は朝鮮に定着した後、遼東太守との間で漢の外臣となることを約したとある。外臣とは帝国の外において皇帝の臣下となるもので、漢と諸国とが君臣関係で結ばれることになる。実に紀元前から漢との間に宗主宗属関係があったのである。

 歴史は降って李王朝に移ることにする。李王朝の始祖李成桂(廟号太祖(テジョ))は武人で功績を揚げたが、一三九二年七月高麗の高官による都評議使司の決定を得て恭譲王からの禅譲という形式を整えて、王位に即いた(在位一三九二――九八)。そして直ちに永年の慣例に倣って明に使節を送り国王交替の承認を求めた。この時の国号は高麗を踏襲し、肩書も「権知高麗国事」といういわば仮の国王であった。

 この年の冬、明が国号の改定を問題にしたので、太祖政権は「朝鮮」と「和寧」の二つを候補として明に打診、明は「朝鮮」を由緒あるものとして勧め一三九三年朝鮮という国号が決まった。

 一三九五年に都を開城(ケソン)から漢城(ハンソン)(現ソウル)に定めた。しかし、大租は相変わらず「権知国事」のままであり、明から正式に誥命(こうめい)(辞令書)との印章の伝達を受け、正式に朝鮮国王に任命されたのは 一四〇一年第三代の太宗のとき恵帝建文帝によってであった。靖難(せいなん)の変で即位した成祖永楽帝も国際環境の安定を望み、一四〇三年には誥命と印章を伝達した。

 この正式の任命で、王氏高麗から李氏朝鮮へという易姓革命(えきせいかくめい)が、名分のうえでも成就するとともに、朝鮮は以後、中国(明、清)を中心とする当時の東アジアの国際秩序である宗属関係の中に組み込まれた。

 朝鮮は君臣関係を結んだ宗主国に朝貢して正朔(せいさく)を奉じ(歴、年号の使用)、朕、詔、陛下、太子、後宮、京師、上奏など皇帝にかかわる用語を使用しないといった事大(じだい)の礼をとることで、善隣友好関係の維持をはかった。(武田幸男編『朝鮮史』山川出版社)

 ここで明治八年の江華島事件の発生の原因は遠く一四〇三年の第三代太宗の時代に遡ることが判るのである。” (続く)