2012年3月12日月曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(つづき)(20120312)

 “皇帝は伊藤総監と会い、「ハーグへの密使事件は自分の知らないことである。内閣は退位を要求しているが、それは不当だと忠告してほしい」と懇願しました。それに対して伊藤は、「陛下がいかに弁明されても、証拠はすべて臣(伊藤自身)の手中にある。この事件は欧米も知っていることだからどうすることもできぬ。退位問題は韓国自身のことであって、自分は関与できない」と答えるだけでした。

 十八日、第三回の御前会議が開かれました。その時、宋らは、譲位を勧告しても聞き入れられない時は、一死あるのみ、として何人かの閣僚は拳銃を用意して臨みました。会議が開かれ、各大臣が譲位を勧めても、高宗は、「譲位するくらいなら死んだ方がましだ」と答えるのみです。そこで宋は進み出て声を張りあげました。

 「それではお願いだが、死んでいただきたい。陛下が死なれれば国と王室は生きるであろう。もし陛下が死なれなければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国に何の益にもならない。しかし陛下が死なれれば国家社会は救わる。どうぞ死んで頂きたい」 かくして皇帝はやっと第二子坧(せき)(純宗)に譲位しました。

 皇帝をそこまで追い込んだ宗秉畯のすさまじいばかりの迫力には驚くべきものがあります。彼の執念に似た気迫はどこから出るのでしょうか。(中略)

 彼は金玉均に繋(つな)がり、ほぼ十年間にわたって日本各地を巡歴(じゅんれき)しています。妻は日本人であり、日本を知悉(ちしつ)しています。

 それに東亜の大局を見、どうにもならなくなった韓国の国民生活と宮廷の腐敗を立て直すには、日本に接触して刺激を受け、協力するしかないという燃えるような信念を持っていました。日露戦争にも協力し、李容九を会長とする一進会を組織し(一時、百万人の勢力を自称)死地に身を投ずること十数回、波乱万丈の生涯を貫きました。

 現在の韓国では、宋秉畯は、李完用、李容九等と共に、売国奴の筆頭に挙げられていますが、その動機は憂国の至情に発していることを否定できないのです。これら親日派を売国奴と呼ぶなら、親清、親露路線を歩んだ人々も同じ売国奴でありましょう。それよりも韓国にとって大切なことは、当時国際情勢の厳しさを弁(わきま)えず、事大主義に陥って国論が分裂し、国家としての対応ができなかったのは何故か、その点こそ追及すべきでありましょう。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』

(五)軍隊の解散と義兵闘争

  高宗から純宗へ遂に譲位式が行われた明治四十年(一九〇七年)七月二十日暴動が各地に起った。救国を目的とした民衆の自発的な武力闘争を韓国では義兵と呼ぶ。当日は李完用首相の自宅も焼き打ちされた。しかし伊藤統監は七月二十四日韓国政府との間に第三次日韓協約を結び、行政と司法の分離を定め、続いて純宗皇帝の「詔書」により韓国軍隊が解散させられた。

  当時の韓国軍は軍隊内に両班(ヤンバン)(貴族)制がそのまま生きていて、命令が伝わらず、とても規律ある軍隊ではない状態であったので傭兵制度を廃止して徴兵制度を実施する為に一旦解散を決めたのであった。その当時の韓国軍は一万人であった。その解散させられた軍隊が義兵と合流し、義兵運動は武器と組織を得て各地で激しい抗日運動を展開した。

  資料によれば義兵闘争には韓国軍の実態を知っている旧将校は殆ど加わらず、戦闘行動を知らない民間の儒者や下士官が中心であった。

  彼らは自ら「義兵」と称して日本人警察官や一進会会員を狙い特に一進会会員は断髪していたため狙われ易く、一年間に九百六十六人が虐殺されたと言われている。

  やがて義兵の中には盗賊まがいの行動を起こす集団も出てきて民間で「自警団」が作られる始末で、義兵闘争は約四年間で終息した。武装義兵約十四万、日本軍との衝突回数は二千八百回、死亡した義兵は一万四千名以上に上がったと言われている。” (続く)