2010年1月3日日曜日

小説『18のときの恋』(20100103)


    70を超えた信夫は自分自身の実践はともかくとして、政治の動きや社会の動向について相手のことにおかまおいなしに友人たちとあれこれ議論するのが好きである。友人たちの中で女性たちは信夫がしゃべりだすと「またか」とあからさまにうんざりする顔をする。

  高校を卒業直前のある日信夫は千賀子と『荒城の月』で有名な豊後竹田城を日帰りで訪れたことがあった。周囲のうるさい目を逃れて親にも誰にも内緒で、初めて遠出のデートをした。そのときのムードに惑わされたのか、信夫は千賀子に「将来時期が来たら」という言葉を省略して、いきなり「結婚しよう」と言ってしまった。千賀子は信夫の急な話に驚いた。年を重ねて人生経験を積んだ今から考えると、千賀子は信夫からの愛の告白を本当は嬉しく思っていたはずである。しかし「まだ18ですよ!」と信夫は千賀子にたしなめられてしまった。信夫と千賀子の交際は豊後竹田への日帰り小旅行を最後に途絶えた。


  信夫と千賀子の交際が途切れた大きな理由がある。信夫は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊し厳しい新隊員教育を受けた。そして護衛艦の砲雷科に配置となり艦が居住する場所となった。艦とともに日本国内だけではなく幹部(士官)候補生たちを乗せた遠洋航海や砲術訓練などで海外にも出るなどして各地を訪れた。艦隊勤務が毎日楽しくて仕方かった。初めの頃は海上自衛隊で海曹(下士官)になり所帯を持てるだけの自信がついたら千賀子に改めて結婚を申し込もうと思っていた。しかしそんなことは忘れてしまっていた。自分には千賀子以外の自分にふさわしい伴侶が必ず現れるはずだと確信するようになっていた。今思えば信夫は千賀子に恋焦がれるほどに千賀子を愛してはいなかったのである。

  信夫は後で知ったことであるが、かつて信夫が高校生のころ千賀子との交際の噂が広まって、千賀子の母親が信夫の家を訪れ、応対に出た信夫の叔父の嫁に「うちの子と交際させないで欲しい」と申し入れられていたことがあった。信夫の母親は信夫が10歳のとき乳がんで他界してしまっていたので、信夫の母親代わりを祖母や同居している信夫の叔父の嫁が務めてくれていた。その嫁は「若い日の時の思い出として胸にしまっておきなさい。そして千賀子さんとは手を切った方が貴方の幸せになる。」と信夫を諭した。

  当時信夫の父親はかつて朝鮮で羽ぶりのよい校長職までしていたが、戦後米1升が教員の月給とほぼ同額であった時代であったので生きて行くために長く教職を離れ、保険の外交員などしていた。しかし教職への夢は忘れられず師範学校時代の級友の助力を得て、42歳にもなって初めは助教という資格で教師として再出発し、その後正教員に復帰することができて、大野郡の田舎の小学校の校長として頑張っていた。しかし安月給のため信夫を養育してくえている信夫の祖父母に信夫や信夫の弟妹たちのための仕送りはできずにいた。ともかく信夫は祖父母や叔父夫婦の援助で高校を無事卒業することができた。

  信夫がある日父親に「大学には将来働きながら進学する。先ずは独りで生きてゆける自衛隊に入る」と言ったら、父親は信夫に「済まぬ」と一言言って「自衛隊でまじめに精一杯頑張るんだぞ」と言った。信夫は陸海空どこに入るか考えた末、視野を広めるため海上自衛隊の入隊試験を受けた。無事合格し、海上自衛隊での人生が始まった。新隊員教育を受けたのち護衛艦きたかぜの砲雷科に配属され信夫の艦隊勤務が始まった。信夫は勤務成績が極めて優秀で昇任試験に合格してトントン拍子に昇進し、最短期間で下士官に昇進した。信夫が24歳になったある日父親から見合い写真が送られてきた。(続く)

2010年1月2日土曜日

小説『18のときの恋』(20100102)


  一方芳郎は父親から相続した家と広い屋敷の管理で忙しい日々を送っている。寛政年間に建てられたと伝わる重厚な建物は管理が行き届いていないので傷みが激しい。雨漏りもしている。2階の天井裏には錆びついた刀や槍などの武具があり、そのまま放置しておくのは勿体ないと考えなんとか建物とともに文化財として後世に遺すことができないかと奔走している。その一方で自分の祖先のことを詳しく知りたくて、郷土歴史研究会というサークルで活動している。信夫はその研究会の研究成果をまとめた資料を芳郎から貰っている。

  信夫や坂田が帰郷する時、二人は必ず辰ちゃんと芳郎君に連絡している。今年の盆休みのとき信夫は2年ぶりに帰郷をした。帰郷前辰ちゃんに帰る日を伝えたら辰ちゃんは「おい藤君、今度の盆休みに江藤千賀子を呼んで一緒に食事しようと思うんだがどうだろうか」と突然言う。江藤千賀子の名字である江藤は旧姓で、今の名前は緒方千賀子である。
千賀子は結婚して福岡に住んでいる。福岡と言っても久大線沿線の浮羽町で信夫の郷里の日田に近い。級友たちが集まる場所として日田は好都合である。

  辰ちゃんがなぜ千賀子のことを持ち出すかと言うと信夫と千賀子の間に恋物語があったのを彼らが知っているからである。そのことは皆が50になったとき学級担任の阿部先生などを呼んで集まった同級会で千賀子が信夫に話していたことを聞いているからである。

  信夫はあのとき千賀子から初めて聞いたのであるが、千賀子は「結婚しよう」とまで言った信夫のことが忘れられず245歳にもなって風の便りに信夫には既に婚約者がいることを知り、悔しくてその女性がどんな人であるかということを知りたくて市役所に行き、いろいろ調べたというのである。千賀子はそのことを同級生の皆の前で暴露したのである。その時はお互いそれぞれ結婚生活も長く、千賀子には東京でスタイリストをしている娘さんもおり幸せな暮らしをしていたので、深刻な状況にならずに済んだのであった。しかし辰ちゃんたちはそのことが信夫をからかう格好の材料にしているのである。

  辰ちゃんが信夫が帰郷するたびに「江藤千賀子を呼ぼうか」と言う。信夫は「いやいやそれはいいよ。彼女も迷惑だよ。」と言うと、「いや、そうでもなさそうだよ。この間同級生名簿を作るため彼女に電話し、今度の盆に‘藤倉君が帰ってくるのだが出て来ない?’と言ったら、‘都合がつけば行くわ、日が決まったら知らせて’と言っていたよ。」と言う。

  信夫は高校時代千賀子と交際していた。当時高校生の分際でアベックでいることが人の目にとまればたちまち大きな噂になった。信夫と千賀子はそんなことを気にせず日田の日隈川や亀山公園などでデートを重ねていた。しかし信夫は千賀子の手さえ握ることもなかった。

  信夫は古本屋に売ってしまい今は手元にないが、千賀子から『千夜一夜物語』をプレゼントされたことがあった。千賀子は女であるから思春期は男よりませている。信夫があれほど千賀子とデートを重ねながら‘その気’が全く感じられないことに千賀子は多少苛立っていたのかもしれない。信夫は千賀子に何もプレゼントしたことがなかった。

  ある日千賀子は信夫の将来を占って信夫に「藤倉さんは将来評論家か技術者が向いている」と言ったことがある。その占いは当たっている。信夫は1級建築士として評判もよく、確かに千賀子の言った通り建築設計技術者である。もう一つ評論家についても当たらずとも遠からずと言ったところである。(続く)

2010年1月1日金曜日

小説『18のときの恋』(20100101)


  坂田も大概2位か3位で時には信夫を抜き1位になることも何度かあった。信夫と坂田は小学校時代から仲が良く、喧嘩もし、ライバル関係にあった。だから70を過ぎた今でもお互い相手の名前を呼び捨てにしているのである。坂田は3男坊であるから、芳郎と信夫のように父親同士は同じ年ではない。坂田の父親は信夫や芳郎の父親より年長であった。

  信夫は坂田のことを‘坂田’と呼ぶのであるが、他の級友たちは坂田のことを敬意をこめて‘泰さん(やっさん)’と呼んでいる。そう呼んでいるのは、彼が中学時代野球選手として活躍し、チームのリーダー的存在であったからでもある。野球仲間で後輩が‘やっさん’と呼ぶようになり、それが皆に広まったのである。しかし信夫だけは坂田と呼んでいる。辰ちゃんや芳郎君と話すときは「‘坂田’に聞いた」などと言い、坂田と話すときは‘坂田’と呼び捨てにしている。坂田も同様に信夫のことを‘藤倉’ と呼び捨てにしている。

  信夫、芳郎、泰治らが中学校に上がったとき町村合併があり、二隈地区が山鹿地区と同じ行政区になった。そのとき旧二隈地区にあった西中から梶山辰夫や中村志乃や江藤千賀子らが移ってきた。先生たちが故意にそうしたのかどうか知らないが、中学合併後も信夫と芳郎と泰治は同じクラスであり、担任の先生は美人で独身で音楽を担当する阿部桃子先生であった。そのクラスに西中からきた千賀子もいた。

  千賀子は色白ではないが目鼻立ちのはっきりしたちょっとおませで利発な女の子であった。あるとき先生が「皆さん、新聞を読んでいますか?」と皆を見まわしながら質問したことがあった。そのころ信夫は先生が何故そのような質問を中学生にしたのか未だに判らない。がしかし信夫が印象に残っているのは、その時千賀子が「はいっ!」と手を挙げて「大分合同新聞を読んでいます」と答え、先生が続けて「何処を読みますか?」と問うたとき「社説です」と答えていたことである。信夫は社説などに目を通したこともなかったので、そのとき「へえっ?」と思ったものである。先生はまじまじと千賀子を見つめながら感心していた。信夫もクラスの皆も千賀子に注目していた。

  坂田も信夫同様東京近郊に住んでおり、郷里にはたまにしか帰らない。坂田は当時山鹿地区で手広く林業を営む旧家の3男坊であった。高校卒業後東京の野田塾政経大学を出て船舶機械輸出を業とする商社日東に入社し、大学時代の後輩と結婚し、海外生活も送っていたが40歳のとき自分で輸出入経営コンサルタント会社を興し、千葉の船橋に豪奢な邸宅を構え、すっかり千葉の住人になっている。奥さんは宮崎県の延岡の出身である。

  辰ちゃんは高校卒業後大阪電機大学を出て東京に本社がある東京電業という大手の電気部品メーカーに勤め、名古屋支店の支店長で定年を迎えた。管理職になって札幌や福岡など転勤が多かった。入社後間もなく建てた田無の住宅を人に貸したままの状態が続き、その家に落ち着いて住む期間は殆ど無い状態であった。そこで辰ちゃんは定年後は郷里で落ち着いた暮らしがしたいという思いが非常に強かった。奥さんを説得して田無の住宅を処分し、大分県山浦郡八田の丘陵地に家を新築した。其処は辰ちゃんの小学校・中学時代の級友、つまり辰ちゃんの竹馬の友・梶原信行がその丘陵地の南面傾斜地で豊後牛の大規模な牧場を経営している土地である。辰ちゃんは企業年金も沢山貰っているので働かなくても食べて行けるのであるが、生産を全くしない暮らしが嫌で自然環境の中で家庭菜園程度の農業と牧場の手伝いで余生を送ることにしたのである。(続く)

2009年12月31日木曜日

小説『18のときの恋』(20091231)


 藤倉信夫は農業を営む藤倉家の跡取りであるが家督は弟に譲り、自分自身は建築設計家として東京三鷹市に事務所を構え、そこに住みついている。家督を実弟に譲ったのは親子2代で、信夫の父親も家督を末弟に譲っている。設計・監理の仕事が忙しく帰郷することは年に一度あるかないかぐらいである。しかし、このところ今年92歳になる母が入院騒ぎを起こしたりしたため、仕事の合間をみてできるだけ帰郷することにしている。弟に家督を譲ったときの条件で、信夫が帰郷したときの居場所として、2階の部屋を信夫専用の部屋とするようにしているので、信夫は帰郷したときでも気持ちよく過ごすことができる。

 信夫には郷里が同じ大分県日田郡山鹿地区で小学校時代・中学校時代同級の、いうなれば竹馬の友である佐藤芳郎・通称芳郎君と坂田泰治・通称泰さん(やっさん)がいる。もう一人樺山英雄がいた。樺山は善福寺というお寺の住職の息子であったが高校生の時肺結核で他界してしまった。信夫と芳郎と英雄が学んだ小学校には三人の父親同士も同じ小学校で学んだ。卒業生名簿の同じ年には三人の父親の名前が載っている。

 芳郎のことを‘君’づけして呼ぶのは芳郎の家柄に由来する。芳郎の家の紋は下がり藤で藤原の血を引いており地域で知られていた名家であった。戦前までは江戸時代から続く旧家で、江戸時代には名主をしていた家柄であり、戦前までは田畑を人に貸してその年貢で暮らす資産家であった。しかし戦後のマッカーサーによる改革で多くの土地を失った。芳郎のことを皆は小さい時から呼び捨てにせず‘君’付けして呼んでいたから、その習慣がその後もずっと続いているのである。

 芳郎君と辰ちゃんは信夫のことを藤君(とうくん)と呼んでいる。何故そう呼ばれているかと言うと、理由の一つは芳郎と信夫の父親同士が同じ年の親友同士であり、お互い相手のことを‘君’づけして呼んでいたのがそれぞれの長男にも及んだのだと考えられる。信夫の先祖は平安末期京都から下って来て山鹿の地区に土着したらしい。遠祖は藤原氏族で長和年間奥州黒河に居住し会津に知行を得たことが信夫の父親が遺してくれた系図に書かれている。多分信夫の遠祖は摂関家の荘園を管理する役目を負っていたのであろう。その嫡子は父親の働きぶりが良かったせいか民部大輔の地位まで昇り詰めている。

 面白いのは信夫の父親が藤君と呼ばれ、その長男である信夫も同じ藤君と呼ばれていることである。しかし芳郎の父親は信夫の父親から‘佐藤君’と呼ばれていたということである。芳郎の父親は戦後まもなく肺結核で他界している。

 信夫らは小学校2年のとき終戦を迎えたのであるが、そのころの担任の先生は荒っぽかった。ある日信夫たち男子生徒は未だにその理由は判らないのであるが教室の中で一列に並ばされ、平川という男の先生からスリッパでパチッパチッパチッとびんたを喰らったことがあった。その先生は軍隊上がりで戦後教職に復職したらしい。まだ9歳の男の子たちをまるで新兵のように考え、罰を喰らわせたのだと思う。別の先生は悪さをした級友に水を満たしたブリキのバケツを両手に持たせて廊下に立たせていたことがあった。今時の教師は口だけ達者な母親の剣幕を恐れ、体罰はしない、皆平等の扱いしかしていないが、終戦後何年もしない頃、保護者にとって先生はエライ人であったのだ。

 昭和25年に入った中学校では期末試験の成績の一覧表が廊下に貼ってあり、信夫はどの科目でも大概1位か2位であった。(続く)

2009年12月30日水曜日

小説『後恋』(20091230)


  学級担任が音楽の先生である阿部先生であったので、授業参観日のときの授業は音楽の授業として合唱を親たちに見せることになった。信夫はそのとき先生から合唱の指揮をする役を与えられていて、信夫たちの学級は放課後先生から熱心に合唱の指導を受けていた。いざ本番のとき信夫は親たちの前で教えられたとおりにタクトを振ったつもりであるが、先生から見るとどうも良くなかったようで、先生は恥ずかしそうにしていた。その時信夫が指揮し級友たちが合唱した曲はシューベルトの「セレナード」という曲だった。

  授業参観では各学級の担任がそれぞれ専門の授業を行った。志乃の学級では担任が理科だったので理科の実験を行ったとのことである。理科の実験は参観に来た親たちにも興味があったようである。しかし、合唱の方はその頃の親たちもあまり知らない曲だったので信夫の指揮ぶりと皆の歌いぶりがどうであるかということだけが注目された。参観が終わった後先生が恥ずかしがっていたので、多分信夫の指揮も合唱もあまり良くなかったらしい。中学校を卒業して信夫と志乃はそれぞれ別の道に進んだので、二人が会うことは二人が60近くになるまでなかった。

    50歳のとき阿部先生と再会したことがきっかけで信夫は中学生の頃志乃にほのかな思いを寄せていたことを思い出し、志乃に一度会ってみたいと思うようになっていた。志乃の父親も満州引き揚げの元教師であり、信夫の父親も朝鮮引き揚げの元教師であり、共に大分師範学校出であったということもあり、信夫は志乃とは何か前世から続いている因縁があるのではないかと思うようになっていた。

  信夫が所沢に住んでいたとき世話好きの坂田が幹事役をして「在京高塚中28年卒業同級会」が山手線鴬谷駅近くの料亭で開かれた。そのとき信夫は志乃に会うことができた。お互い家庭を持つ身、45年ほど前の恋は良い思い出の中だけにとどめ、皆それぞれ歩んできた人生のことを語り合った。志乃は音楽教師である阿部先生の影響もあって長崎大学を卒業した後上京し、東京芸術大大学院に進学し指揮法を学んだということである。

  志乃の音楽のキャリアはその大学院だけである。しかし志乃は子供のころから家にピアノがあったので、プロのように上手ではないがピアノを弾くことはできる。ピアノが弾けないと合唱団を指揮することはできない。そもそも合唱団を指揮するということは、合唱する音楽について自分のイメージどおりに表現するように指揮するということである。言うなればある音楽家が作曲したものを基にして「自分の音楽を作る」ということである。

  志乃は東京芸大の大学院で学んだ指揮法を合唱団の設立と運営に活かした。志乃の合唱団は成人男性と女性から成る混成合唱団のほか、子供たちだけの合唱団もある。混声合唱団の名前は「ル・ポン・ドゥ・ラルカンシエル」と言う名前であった。フランス語で「虹のかけ橋」という意味である。児童合唱団の方の名前は「ブリュエット・デ・フルーレット」、日本語で「小さな花達の小さな輝き煌き」という意味である。

  信夫は志乃が指揮する合唱を聴きに行ったことはある。会ったのはそれが最後で、その後信夫の妻に何か言い訳をしながら彼女に電話をかけたことが一、二度あったがその後は年賀状の交換をするだけであった。お互い70を過ぎた年の志乃からの年賀状には、ご主人が脳梗塞で倒れ介護の毎日であると書いてあった。その年賀状も次第に途絶えるようになった。信夫は皆に「隠居」と宣言し、以来誰にも一切年賀状を出さなくなったからである。(終)

2009年12月29日火曜日

小説『後恋(20091229)


  藤倉信夫の携帯電話に突然竹馬の友・坂田泰治から電話がかかってきた。坂田はどこかの居酒屋で信夫があまり記憶がない成瀬という友人と飲んでいるらしく電話からざわざわと人声などの雑音などが聞こえてくる。「あツ、出た出た。俺だよ。辰ちゃんに聞いて辰ちゃんからあんたの携帯電話番号を聞き出し、今電話したんだ。今成瀬と飲んでいる。前にも言った通り成瀬はあんたのことを知っている。場所はよく覚えていないが埼玉に近いところかどこかで飲んだとき成瀬も一緒で、成瀬はあんたに会ったことがあると言っている。」と言う。辰ちゃんというのは梶山辰夫のことで、坂田とは中学野球チームの仲間である。

  信夫は昭和61年(1986年)の3月まで埼玉の西武線新所沢駅に近いところに住んでいた。成瀬が男に会ったことがあると言うのは、昭和61年年3月以前のある時期のことだと思う。信夫も坂田も同じ小学校、同じ中学校、同じクラスであった。信夫が中学校で生徒会長に立候補したとき、坂田は信夫の選挙運動の応援演説をしてくれたことがあった。その甲斐あって信夫は生徒会長に当選し、副会長には同じ竹馬の友・樺山英雄と中学校合併前西中から来た中村志乃が当選した。信夫が持っている卒業アルバムには運動会の行進で信夫が中央で校旗を持ち、左右に中村志乃と樺山英雄が従っている写真がある。

  信夫は50歳になってから志乃に対しある種の恋愛的な感情を抱いていた。というのは二人が同じ生徒会の役員をしていたというだけではなく、もう他界してしまったが担任の阿部桃子という先生を通じた共通項があるからでもある。その先生に連れられて信夫と志乃は大分県日田郡内各中学校の弁論大会に出て、信夫は優勝し志乃は準優勝した。ある日信夫がある田圃で作業をしていたとき、志乃は志乃の父親が引く何かうずたかく積んでいたリヤカーを後ろで押してゆきながら、信夫が作業していた田圃のそばの道をと通って行ったとき、お互い視線を合わせながら無言のままであったこともあった。

  阿部先生は美人で音楽の先生でもあり、信夫や志乃など音楽部の生徒を引き連れてデパートの食堂でカレーライスを食べさせてくれたことがあった。ある日阿部先生は水着スタイルの自分の写真を見せてくれたことがあった。色気が出て来てき始めた頃の男子中学生の信夫らにとって水着スタイルの女性の写真は刺激的であった。

  坂田は世話好きである。坂田は同級生が50歳になった時郷里で恩師の阿部先生を呼び同級会を行う計画を立てた。阿部先生に何か贈り物をしようという話になり、同級生が営業部門の幹部をしている家電量販店で音質の良いプレーヤーを贈ることになった。その家電量販店というのは秋葉原にあるLAOXという店である。プレーヤーはその店から阿部先生の家に直接届けて貰った。信夫と坂田は同級会が行われる当日阿部先生の家に行き、多少電気製品に詳しい信夫がLAOXから送られてきた梱包を解きプレーヤーをセットした。

  同級会には志乃は欠席したのであるが、後日信夫が阿部先生に電話を入れ、阿部先生の求めに応じて調べ、整理しておいた東京における同級生の消息について報告したとき、阿部先生は志乃から信夫のことを長々書いた手紙が届いたと話してくれた。言外に志乃が信夫のことに強い印象があったというようなことをにおわせていた。信夫は阿部先生から聞かされ志乃の信夫に対する思いのことがいつまでも気になっていた。できれば一度志乃に会いたいと思うようになっていた。信夫も志乃もそれぞれ家庭を築いている。そのような恋愛的感情を持っていて会うということは、ある意味では不倫的な行為である。(続く)

2009年12月28日月曜日

日曜討論(20091228)

今日も温暖な日和である。男は女房と一緒にNHKの日曜討論を視聴した。司会は島田解説員、出席者はキーマン・仙谷行政刷新担当大臣、増田元総務大臣・野村総研顧問、大田元経済財政政策担当大臣・政策研究大学院大学副学長・大学院政策科学研究科教授、水野三菱UFJ証券株式会社チーフエコノミストの4人である。皆軍事・外交の専門家ではない。
今日の討論会を聞いて、男は民主党が来年度税制改革に向けて従来4年間は据え置くと断言してきた消費税の値上げに実質踏み切ると観た。名目は社会福祉税など消費税とは別の形になるだろう。一般消費税と社会福祉税の2本立てにすることについて事務が煩雑になるなど反対が多いかもしれないが、男は、必ずと言ってよいほど物事の構造には‘普遍’と‘特殊’の両面があることを考えれば、2本立ての方がよいと思う。
男は75歳以上を後期高齢者として特別扱い、ある意味で大変失礼な差別をするやり方に対しては不快に思うが、高齢者が一番国費を食い、しかも社会貢献をしている人の割合は多くないのであるから、課税対象物別に税率が考慮されている社会福祉税というようなものを高齢者も広く薄く負担をするということには大賛成である。高齢者だけではなく障害者も生活保護を受けている人も皆この税を負担するのが当たり前であると男は思う。
贈与税についても贈与する対象が既に高齢者であるので贈与額に応じて課税し、一定額以上の贈与については社会的公正の考え方に基づき現行以上に高率課税すればよいと考える。高齢者があの世に行くときそれまで蓄財してきたものを、それまでお世話になった社会に広く薄く還元する形をとるのは非常に良い考え方であると男は思う。
但し土地・建物等で社会一般通念上後世に伝え残すことが望まれるものについては、その資産の一部または全部を公共のものとし、相続を受けた者がそこに引き続き居住することができるように法律を整備すればよいと考える。
今朝の討論会で子ども手当や事業仕訳などいろいろ議論があったが、男は仙谷大臣は増田、大田両氏の意見・提案によく耳を傾け、その意見・提案を参考にして今後真剣に取り組んでゆこうという姿勢のように受け止めた。
普天間基地の問題について、25日鳩山総理は従来の発言と違う発言をした。「普天間移転先は国内で決める。抑止力の観点から見てグアムに普天間のすべての機能を移転するのは無理がある。」と言った。男は鳩山氏もようやく軍事のことが判ってきたのだと思った。沖縄の人たちには大きな負担を強いているが、沖縄にアメリカの海兵隊と空軍が存在していることは東アジア諸国にとって安心なことであるのだ。ヘリコプター部隊が要地から遠く離れたところに駐留しても緊急な軍事発動の際の時間的ロスが多く、全く意味がない。地上戦闘を行う海兵隊員は航空部隊の初動直後大型機で展開すれば、グアムにあってある程度時間的ロスがあるがやってゆけるだろう。軍事は軍事の専門家、つまり実際に用兵を行い、実戦経験もある軍人の意見を十分尊重すべきである。素人が‘専門家ぶって’ はいけない。
鳩山氏は普天間の移転先を名護市以外の場所を望んでいるが、どう探しても最良案は沖縄本島以外にないのだ。下地島や伊江島については考慮の余地がある。極東の戦略上、アメリカの空軍と海兵隊ヘリコプター部隊は沖縄に駐留してもらうことが日本の国益にかなうのだ。沖縄の人たちには申し訳ないが住民税とか所得税を軽減する措置で、少なくとも日本が東アジア共同体の中で主導権を握るようになる時まで我慢してもらうしかないのだ。

2009年12月27日日曜日

お陰さまで(20091227)

 よく日常の挨拶で「お陰をもちまして」とか「お陰さまで」と言う。普通この言葉の深い意味は考えずにこの言葉は使われている。例えば「陰で支えてくれた人への感謝」とか「お互い様」という意味の程度で使われていることが殆どのようである。「お陰さま」についてインターネットで調べてみたらある僧侶が「法話」を載せているのを見つけた。

 「人生には自分の思いにかなうこともかなわぬことも起こって来る。人生で起きて来るすべてのこと謙虚に受け止める言葉として‘お陰さまで’という言葉がある。目に見える現実世界を陽とすれば目に見えぬ世界は陰である。人生で起きるすべてのことを目に見えない世界からの導きとして受け止められるようになったとき‘お陰さまで’という言葉が出て来る。‘お陰さま’は‘仏様’である。」という趣旨のことをこの僧侶は図を示しながら説いている。

 その図というのは五感・意識の世界が現実世界であり、その世界の下に深層心理の世界を示している。以下男は自分が若い頃に買い求めていた書物『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に書かれていることを基に要点を記す。

 五感・意識とは仏教の唯識説で眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識と意識のことである。これら六つの識、すなわち六識は現実世界の識であり、唯識説ではその下に末那識(マナ識)、さらにその下に阿頼耶識(アラヤ識)の二つの識があると説く。マナ識とアラヤ識は深層心理学上の識と同じである。2500年前釈尊は深い瞑想の結果、現代の心理学で明らかにされた深層心理まで到達されたのである。釈尊は常人では到底到達できないところまで到達され、常人では認識できない世界を認識され、弟子たちに説かれたのだと男は思う。

 お陰さまの世界は現実世界の六識と第七識であるマナ識と第八識であるアラヤ識を総合した世界の中にあるのである。深層心理学の書物には「集合的無意識」について書かれている。人の行動は無意識の行動の部分が大きい。人は自分の無意識を自分で認識することは難しい。第八識ともなれば第三者から催眠をかけられて導かれないと自分では判らない。多分、長い時間をかけた習慣により無意識化されたものには気付くことができるだろうが、その下にある、多分生れる前から持っている心には、自分で気付くことはできないのだ。まして、これは信仰しかないと男は確信するが、仏を信じる者には本心から「有り難い」「お陰さまである」という気持ちが湧くものだと思う。

 仏教の経典には「仏は方便をもって人々を教化し導く」というようなことが書かれている。仏の方便は日々の暮らしで常に感じ取ることができる。素直に意識すれば「ああ、これも仏の方便だったのだ。有り難い。」と感じ取ることが出来るようになる。そのように感じ取ることができれば、日々の暮らしで起きることは皆有り難く、有り難いと思うと、物事は思うとおりになっているような‘不思議’を感じることができるようになる。「たまたま偶然」は、実は仏の導きによる「必然」であったのだと感謝することができる。すると日々のすべてのことは仏による「必然」のことで、これが‘不思議’なことであるのである。

 仏は釈尊にしか到達できなかった世界である。仏を信じ、仏に帰依し、仏への道を教える僧を敬い、仏への道を教える経典を重んじ、仏への信心をもって日々謙虚に、感謝の気持ちで過ごすことができれば、それ以上幸せな人生はないのである。
(関連記事:「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/07/20090720-2500-2000.html 」
「仏教の勉強(20090723)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/07/20090723-720-2500.html 」、
「神通力(20090915)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/09/20090915-800-2-1275-77-23-25.html 」、
「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/10/20091002-200909831-20090915.html 」)

2009年12月26日土曜日

鳩山首相の緊急記者会見(20091226)

 昨日(24)、鳩山首相は偽装献金事件について説明するため首相ではなく衆議院議員という立場で緊急に記者会見を行った。男もそうであるが大方の国民は、この問題は巨額脱税行為を鳩山首相は知らなかったというよりか、自分の母親の支援で政治活動を行うことについて税法上のことに注意していなかったため結果的に脱税になってしまったのではないかと思っている。

 一方の小沢代表の方は最近秘書が小沢氏の指示に従い会計処理をしたというようなことを、苦渋に満ちた顔で発言していたようなので、こちらの方は検察が公正に追及してゆけば政治家を辞めなければならないような状況に追い込まれる可能性はあると思う。小沢氏はそのことを一番恐れ、新聞記者たちを恫喝している。男は恫喝は不快だ。

 いずれにせよ、両者の問題が深化してゆけば小沢・鳩山両氏による政権運営(小沢氏は陰で運営)は非常に難しくなるであろう。マスコミは発言の一部を取り上げて、あれこれ継ぎ足して大きく報道すると思うが、小沢氏が韓国で「天皇の先祖は韓国人」というようなことを発言したらしい。週刊誌に大きく取り上げられている。論客・フリージャーナリスト立花隆氏は「小沢一郎は国家主席になったのか」と怒っているようである。

 政治には金が要るが「政官業の癒着を断ち切る」民主党も企業からの大量献金なしではやってゆけないであろう。男は、政党の活動に必要な資金の内訳を公金、献金、個人資産、政党自身による機関誌の販売活動による収入(『赤旗』や『聖教新聞』などの例)などに分け、公金の割合を大きくすべきではないか思う。企業の献金は政党や個人ばかりではなく国の機関が窓口になって集められるように法律を作ったらよいと思う。集めた金は議員数ではなく得票数に応じて分配すればよいのだ。企業が国に出す献金について、国はなにかインセンティヴを与えるようにすればよいのだ。例えば国への献金を公表し、表彰し、公表するなど、なにか良いアイデアを探すのだ。勿論日本は自由主義の国であるから、企業からの献金は政党に対しても個人に対しても制限を設けてはならないのだ。

 男は民主党や自民党のインターネット「ご意見窓口」に対し、このブログの関連記事のURLを示してときどき意見を送っている。先方がその記事に関心を示そうと示すまいと男はどうでもよいと思っている。市井の一老人のたわごとでも、たまには先方にとって価値ある意見であるかもしれないのだ。その価値を見いだせないで失敗し、矛盾にぶっつかればそれは先方の責任であって、たわごとのおせっかいをやく男の責任ではない。男も女房も次の選挙では政党を選ぶのか、人物を選ぶのか、棄権するのか三つに一つの選択をすることになる。従来のように「ベター論」での投票はしないつもりである。

 既存の政党が国民の意識を見誤ると、右翼的政党が現れ、大量票を獲得する可能性だってないとは限らない。男などは今の政党に、自民党に対しても民主党に対しても不満だらけである。テレビに出て来る論客たちはいつも同じ顔ぶれである。彼らよりは、以前NHKがやっていたいろんな人たちを一堂に集めた大討論会の方が魅力的である。一般庶民や普段テレビに顔を出さない識者の中には優れた意見を述べる人が多いと思う。参加者や一般視聴者の意見がオンラインで表示され、考え方の動向が判る。

 民主党への支持は今後も指数級数的に減少して行く可能性はある。民主党は危機感をもって一生懸命やっているようであるが、「象徴天皇を頂く国家主権の維持、安全保障、日米同盟」を最も大事なことであると考えていないように感ぜられる。その点に男は不満がある。

2009年12月25日金曜日

詠って元気になる「至善」(20091225)

 クリスマスイヴの今日も穏やかな暖かい日和である。北極の寒気団の舌が日本列島に垂れ下がって西から東に向かって移動してくると寒冷になり、それが通り過ぎると温暖になる。男はサンルームのような和室を臨時の書斎としてこれを書いている。余りにも暖かくて上はアンダーシャツ一枚にしてしまった。

 政府は診療報酬を10年ぶりに0.19%増額し、勤務医に重点配分することを決定した。自民党の一部から民主党はマニュフェストを守らない詐欺行為だと批判が出ているが、公立高校の授業料を無償化し、私立高校については親の所得に応じて公立高校の授業料に準じる補助を地方自治体から支給させるようにすることになった。また子供手当については現行の児童手当の仕組みを一部継続させて地方負担を残す形で中学卒業まで一人当たり月1万3千円を所得制限なしで支給することになった。

 男は自民党はなんだかんだと言うが、民主党は自民党がどうしてもできなかったことを実行しようとしているのでもう少し様子を見守りたいと思う。普天間の問題でアメリカも対応を苦慮していると思うが、現政権が日米同盟の根幹にかかわる部分を無視・軽視した場合、日本はアメリカから必ずパンチを食らうだろうと思っている。男は民主党は来年度の予算が正式に成立した後社民党と決別し、安全保障や外交など最重要事項について自民党などの協力を取りつけながら少数与党のままで政権を維持し続けた方が民主党のためにも国民のためにも良いと思っている。

 診療報酬のことで男は考えることがある。医療費や福祉費を沢山使う老人たちが、自らの努力で健康を維持・増進し、また他の老人たちの健康を維持・増進させる活動を行うようにすることは「至善」の行為であると考える。老人たちが健康ではつらつとしておれば国の医療費や福祉費を減らし、その分その費用を他のことに回すことができるのだ。

 国も地方自治体も老人の健康維持・増進についていろいろ努力はしているが、老人たち自身の自助努力についてキャンペーンをしていない。多分、老人たちの反発を恐れて敢えてキャンペーンしないのかもしれない。しかし、男はそれは間違っていると考える。

 幸い男にはこのようにブログ上で随筆を書いたり、地域活動として詩吟のサークルを運営し、詩吟を教え、教えているその詩吟の詩文をブログ上で自ら声を出して吟じ、公開することが出来ている。さらに僅かな予算で陶芸も楽しむことが出来ている。お陰さまで男は自分の健康を維持・増進させることができている。

 男は「袖触れ合う縁」の範囲内で社会参加し、それ以上社会参加の範囲を広げようとは全く望まない。人それぞれ自分の時間の使い方があり、何か社会に影響を及ぼすようなことをしようとして自らの時間とエネルギーをそのことに投入したいとは決して思わない。
イエス・キリストでも釈尊でも、自分に触れ合う人しか直接愛することはできなかった。

 イエス・キリストや釈尊の弟子たちがその教えを広めたのでキリスト教や仏教が生れた。まして自分はそれらの聖人に遠く及ばない針の先のような小さな存在である。自分は20歳前後の若い時であればともかくもあの世に手が届く年であり、世間に役立つ才能もない。自分が健康ではつらつし、自分が楽しみながら行っていることを通じて自分の周囲の人に幾ばくかの楽しみや良い刺激を与えることができれば、それが一番の社会貢献であると男は思っている。男の「至善」の行為はそこにある。
(関連記事:「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)

http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/12/20091210-1118-1190-2-2-16-73-14-8-31.html

2009年12月24日木曜日

‘至善を行うこと’は言うは易し行うは難し(20091224)

 今日は朝から雑事あり多忙であった。男が住む28戸の小さなマンションの外壁大修繕が完了し、今期理事長のM氏と修繕委員長である男が住宅管理組合として立ち会い検査を行った。その結果に基づく手直し工事をした後、管理を請け負わせている管理会社N社が最終検査を行い、理事長がサインして2ヶ月半に及ぶ修繕は完了となる。

 管理組合の了承のもと修繕を請け負った管理会社から実際の工事を請け負った小さな会社の経営者H氏の話によると、マンションの定期修理のとき住民との間でトラブルが起きることはよくあるが男が住むこの小さなマンションでは皆非常に協力的であり助かるという。僅か28戸であるが、その中にオーナーが賃貸している戸数は4戸もある。修繕委員はそのうち10人であるから、住民間のコミュニケーションが非常によく、しかも管理組合の役員3名は毎年交代で入れ替わるからお互い状況がよく判っている。役員は実質的には自治会的な仕事も行うことになっている。賃借で入居している人たちともゴミ出し、パティオのような駐車・駐輪場の管理のこと、行政側から送られ、町内会の方で配布数を仕分けして束で持ち込んでくる広報の配布などは本来管理組合の仕事ではないが、別に自治会組織を設けるのは面倒なので当初から管理組合の仕事になっている。こういう状況なのでこの分譲マンションの賃借入居者との間のコミュニケーションも自然にうまく行っている。

 管理組合による検査がほぼ終わる頃、駐車・駐輪場の一角に建てられているゴミ置き場の脇に作業車を止め、ゴミ置き場に設けられている水道の蛇口にホースをつなぎ、隣にある賃貸マンションの1階のある家まで伸ばして高圧洗浄の水を送っているのを男と理事長のM氏が目撃した。不審に思っているとその車で作業している30前ぐらいの男がこちらの所有物であるフェンスを乗り越え隣と行き来している。理事長M氏と男は隣の賃貸マンション内の作業現場に行った。M氏が抗議したらその家の主婦らしき女性が玄関に出てきて「事前に連絡できなくて」という。どうも下水管が詰まったらしい。M氏が「管理会社も違う」と言ったら「ああ、そうなんですか?」と、こちらが分譲マンションであることを知らなかった風である。ちゃんと手順を踏めば緊急時には便宜を図ってあげるものを・・・。

 その種の修理を個人で請け負っているらしい件の男に対し男は年甲斐もなく怒りを爆発させた。こちらの所有物であるフェンスを勝手に乗り越え、勝手に水を引いている行為に我慢ならなかったのである。ひげを生やし強面(?)の腕っ節も強そうな(?)男が「住居不法侵入と同じだぞ!」と大声で怒鳴りつけたら、その男はちじみ上がって今にも泣き出しそうな面になった。そしてまたフェンスを乗り越え、作業を中止した。

2009年12月23日水曜日

縄文人に学ぶ(20091223)

男は陶芸スクールに行くのが多少億劫になっていた。毎週決まった日に行くのを負担に思うようになっていた。先週焼きあがっていた楕円形の大きい惣菜入れと、中くらいのお惣菜入れを見たとたん出来上がりが良くないと思ったので、それらをスクールの自分の棚に置いたままにしてあった。スクールに行く足が重かったのは、以前のように満足できるものが出来ないので気が滅入っていたせいもある。
男はスクールに着いて先週持ち帰らなかった作品を貸室担当のI先生に見せ、「これをもう一度釉がけした方がいいですかね?」と聞いた。彼女は「これよく出来ていると思いますよ。」と言う。男は出来上がりが良くないと思っていた作品を褒められてそれまで滅入っていた気持ちがいっぺんに晴れた。次回もっと良い物を作ってやろうと意欲が湧いてきた。
男が利用している貸室は広くは無いが78人が一度に作業することができる。そこでは男より陶芸歴の古い人たちがそれぞれ立派な作品を作っている。男より年長の男性はユニークな形の花器を仕上げて本焼きに出したあと、手のひらに入るようなフットボールの形をしたものを作っている。聞くとそれは笛だという。テーブルの上に素焼きが終わったその形のものが二つ三つ置かれている。見るとこの中央に丸い小さな穴が開けられている。テーブルの上に4000年前ごろの縄文人の遺跡から出土したという精巧な繊細な形をしたイヤリングとか笛の写真が置いてあった。その人はそれを見ながら笛を作ったという。
男は自分の棚に余った粘土を保管していた。それは縄文人の笛を一つ作るには丁度よい分量である。男はそれを家に持って帰り、家で笛を作り、乾かして年明けてスクールに持って行き素焼きに出そうと思った。明日早速縄文人の笛を作ってみようと思う。吹いて音が出るものが出来たら来年3月満3歳になる孫にプレゼントしてやろうと思う。縄文笛なら形が小さいので粘土さえあれば家でいくらでも作ることができる。笛の形が出来上がれば縄文模様ならぬ現代模様を刻んで乾かし、乾いたものをスクールに持って行き素焼きに出し、素焼きが出来上がれば釉薬をかけて焼く。陶芸の楽しみがまた一つ増えた。
縄文人の頭骨の特徴は眉間が突出し、鼻のつけ根が深く凹み、鼻は高く隆起していて眼窩は四角張っていて、歯は小さく、上下の歯がぴったりと合わさる噛みあわせが特徴であるという。男の顔の特徴からすると、男の遺伝子には縄文人のものが多く含まれているかもしれない。ともかく縄文人に学びながら陶芸をやるのはまた楽しいことである。

2009年12月22日火曜日

物事に良いことずくめということはあり得ない(20091222)

男は年末年始の休みの間、このブログの記事の数回分のものは架空の小説にしてみようと挑戦している。しかし当たり前のことながら70を超えて素人が始めるのは容易なことではない。それでも2回分の記事はなんとか書きあげることはできた。
今日は昨日に比べ風は穏やかで暖かい。男は南向きの和室の窓際に小さなカーペットを敷き、その上に木製の組立て式の小さなテーブルと椅子を置いてそこを臨時の書斎にした。テーブルの上に小さなノートパソコンを置いて、創作というのはおこがましいが一応小説を書くという創作をしている。隣はダイニングキッチンなので女房が「お父さんお茶にしよう」と声をかけてくれば、「ありがとう」と言って席につく。一昨日男が詩吟を教えているメンバーの忘年会をしたとき頂いたケーキと紅茶でしばし寛ぐ。
埼玉の入間に住む女房の親友が千葉に引っ越すという。その親友は山歩きの仲間とよく山に出かけるので、ご主人と一緒に過ごす時間はその分少なくなる。年も年だしそろそろ山歩きの仲間から離れてご主人と二人だけの老後を楽しみたいと思ったらしいと女房は言う。そのご主人は奥さんが泊まりがけで年に何度も山歩きに出かけるのをあまり快くは思っていなかったらしい。男は、それはそうだろうと思う。しかし一番大きな理由は、今住んでいるマンションは5階建てのためエレベータがなく、本人たちは4階に住んでいるが外出にはいちいち階段を利用しなければならず、今後老いて体が弱ってきた時のことを考えて長女が住む町の高層マンションに引っ越すのだという。
男が知っているあるご夫婦は二人の娘さんをそれぞれよい家に嫁がせ、それぞれ子どもを授かり6人の孫がいて年金暮らしをしているが、老後のことを考え、娘たちが住む町の近くの町のマンションに引っ越した。そこは敷地内にマンションの建物がいくつか建ち並んでいる団地である。ご主人は初めての町なので触れ合いを求めて国内小旅行を楽しむグループに入った。ところがそのグループに入って後悔しいているようである。
人との触れ合いを求めて何かの会に入ると、快さと共に必ずある束縛も伴い快くないこともある。物事には必ず快と不快、プラスとマイナス、陰と陽など2面の構造がある。物事には必ず普遍的な部分と特殊的な部分の構造がある。一方が良ければ一方が良くない。良いことずくめということはない。
件の女房の親友も長女の娘さんがずっと元気でいてくれればよいがという不安はぬぐえないだろう。物事には良いことずくめということは絶対あり得ないのである。

2009年12月21日月曜日

師走の風景(20091221)

 日中風もなく穏やかな日和であるが気温は低い。低いと言っても地球温暖化の影響なのだろうか以前のような寒さは感じられない。それでも男はこのころ寒い時には防寒用の衣類を着用して外出するように心がけている。若ければ薄着でも「寒いな」と言いながら自然に耐えているところであるが、男は風邪をひいたら馬鹿らしいと思って用心している。

 つい12年前ごろまで男は乾布摩擦などして皮膚表面を鍛えることをよくやっていた。しかし今はそれを全くやらず、毎朝40数度以上の湯で胸や背中などを流すことをやっている。いわゆる加齢臭となる原因物質ノネナールとかいうものを流すためである。この物質は、皮脂腺に溜ったパルミトオレイン酸という物質が過酸化脂質と結びついて産生されるという。このパルミトオレイン酸はマカデミアンナッツに多く含まれているらしい。

 男は以前背中や胸などを石鹸を付けた入浴用タオルでごしごし擦っていた。このやり方は若い人でも皮膚の表面を傷め、皮膚の健康維持上良くないことが判った。そんなことをしなくても、石鹸をスポンジに塗り十分泡立たせて皮膚の表面にその泡を載せて30秒間程度放置しておけば、界面活性作用でその泡が皮脂を取り除いてくれるようである。このやり方であると皮膚の表面を傷めることもない。加齢とともに皮膚の表面は弾力性がなくなり傷が出来やすくなるので、荒っぽいやり方は止した方が利口である。

 男はそんなことを考えながら温水シャワーを浴びて着替えてさっぱりした格好で気温は低いが穏やかな日和の中、散歩に出た。お天気が良くても悪くても毎日5000歩以上は歩こうと思っている。今日は街中を歩き普段着にするハイネックのシャツを買おうとユニクロという衣料の量販店に行った。そしてダブルハイネックのシャツを色違いで2枚買い求めた。価格は11000円である。男は「安い。これもデフレか。」と思った。

 普段あまり混み合っていない店であるのに日曜日のせいか今日はやけに混み合っている。若いカップルがある衣類を手に語り合っている。「これでこの冬を乗り切ろうと思う。」と夫が言い、妻が頷いている姿があった。その様子を見て男は自分が結婚して間もないころのことを思い出した。熊谷のある民家の2階に間借り生活していたころ、女房と二人でたった1足の長靴を買うのにわざわざ深谷まで行ったときのことを。当時その地はあまり開けていず、店も少なかった。長靴は日用雑貨の店に置いてあったと思うが覚えていない。多分あったかもしれないが、より安い物を求めて深谷まで行った。そして価格も満足できる長靴を1足買って二人で6畳一間の間借りの家に帰って行ったのであった。

2009年12月20日日曜日

集団の自存と闘争・・・政党ごとの手法の違い(20091220)
 
 地上のあらゆる生き物は自らの命をつなぎ、存続させようとする。ウイルスさえもである。他の生物を食べ物とする生物はその存続のため自らの存続を脅かそうとする他の生物から身を護り、種の存続を図ろうとする。イワシや小型の渡り鳥などは群れをなすことにより全体を大きく見せ、自らを護り、種の存続を図っている。生き残ることが少ない生き物は子孫をできるだけ多く作り、その成長の過程で非常に多くのものを他の生物に食べられても種が存続できるようにしている。

 人間も生き物である。人間集団も大きな‘生き物’である。そういう意味では一つの国も‘生き物’である。‘生き物’はそれぞれ自らの存続と繁栄を目指している。この度、ようやくCOP15CO2 削減の数値を決めない形で全員参加の合意ができた。これも国々の集団という地球規模の‘大きな生き物’が自らの存続を図ろうとしているためである。

 21世紀に入り、現生人類は2015万年まえアフリカで誕生したことが判ってきた。今生人類は6万年前ごろからユーラシア大陸を初め世界の各地に拡散していったと考えられている。イヴは一人だったというわけではないと言うことである。おそらくあるチンパンジーの集団で突然変異が起こり、2足歩行が上手な一団が生れたのであろう。類人猿と人とは遺伝子が1パーセントしか違っていないという。

 人類は皆兄弟姉妹である。その兄弟姉妹の子孫は世界各地で社会を構成し、それぞれの社会集団がそれぞれ自らの存続のため他の社会集団と衝突したり、結合したりして国というものになっていった。


 世界にはまだ紛争が絶えず、殺し合いがあちこちで起きている。国と国同士の悲惨な争いは徐々に無くなってきつつあるようであるが、完全になくなることはあってもまだまだ数世紀以上も後のことであろう。その一方で、国の垣根を越えた人々の集団が争いを起こしている。テロリストたちはがん細胞の塊のようである。その塊から普通の検査では判らないような小さな細胞が世界中に拡がっている。日本にもアルカーイダのメンバーが潜入したことが後で判明したことがあったが、今でも潜入して秘かに活動をしているかもしれない。中国に本拠を置く蛇頭のメンバーは日本で犯罪を繰り返している。

 このように他者の存続を妨げようとする決して勢力は無くならない。国と国同士仲良くしようと努力が続けられる一方で、軍備の増強は続けられている。核兵器を手にした国はその核兵器を決して手放すことはない。核兵器による防衛の絶大な効果を知っている弱小の国は何としてもその核兵器を手にしようとしている。

 ヨーロッパはイギリスとフランスが核兵器を保有している。そのヨーロッパは一つの国にまとまる道を歩んでいる。EUに大統領が誕生した。日本はアメリカとの同盟関係で核兵器をもたずとも隣接する核保有国に対峙することが出来ている。

 社民党は非武装中立という理念を掲げている政党である。その政党と連立を組まざるを得なかった民主党は普天間基地の問題で苦慮している。民主党はその存続と繁栄を目指して社民党と国民新党両党と連立政権を組んだ。その連立政権は企業よりも個人に重点を置く個人消費の増加により経済の発展を目指している。

 一方旧政権は企業の発展による個人消費の増加を目指し、個人にも目を向けていた。新政権と旧政権とでは日本の存続と繁栄のためどうするかという手法が異なっている。しかしいずれも安全保障という視点を最重要視してはいない。政治家たちに「集団の自存」に関する哲学観がないと男は感じている。

2009年12月19日土曜日

過去をふり返る(20091219)

  多分10数年前ごろまで男は過去を振り返ることよりも常に未来に目を向けていたと思う。その見方は現世における過去であり未来であった。ところが今の男は現世の過去だけではなく過去世の過去も振り返り、現世の未来だけではなく来世の未来まで目を向けるようになっている。振り返る目も眼、目を向ける目も眼である。

  眼と目との違いについて、‘眼’の右側の字は『学研漢和大辞典』によれば「小刀で彫ったような穴にはまっている目。一定の座にはまって動かない意を含む。」とあり、‘目’は「瞼に覆われている目」のことである。また『広辞苑』によれば‘眼’には「ものを見分ける力、目のつけどころ」という意味があり、‘目’には「ものを見る働きをするところ」という意味がある。‘心’と‘眼’を組み合わせた語である‘心眼’は「物事の善悪、是非を見分ける心の働き。物事の本質を考える心の働き。」とある。

  今日(18日)の読売新聞朝刊に死生観について識者へのインタビューの記事が出ていた。男は花園大学教授佐々木閑氏の「皆同じ道を歩んでいる」という記事に興味を持った。

  仏教は心の在り方や心の持ち方について説いている。2500年前釈尊が説かれた人間の生き方に関する教え、仏教はその後弟子たちによりまとめられ諸法則をまとめた一つの大きな体系として現在に至っている。仏教の経典には人間の生き方の智慧が詰まっている。

  男は電子通信工学を学びその道で月給生活を送ってきて60歳の定年を迎えた後10数年生きてきたのであるが、仏教が説く「輪廻」とか「業」とか「転生」を固く信じ込んでいる。それでも一時期、精神は物質により生じるものであると唯物論的な考え方をしていたことがあった。分子科学のレベルで見ると精神は物質により生じるのだと考えていた。しかし、そのような考え方では人生は味気なくつまらないものになってしまうと気付いた。
釈尊はそのような考え方を「無記」とされた。釈尊は、時間を超えて永遠に存在する本体といわれるものは時間・空間の中に生滅変化して存在する現象世界とは別個の存在であるから、その本体が「ある」とも「ない」とも認識・判断することができないので問題にすることを禁じ「無記」とされたという。(『仏教の基礎知識』水野弘元著、春秋社刊より。)

  佐々木氏は「‘輪廻’や‘業’を含めた釈迦の世界観をすべて受け入れることは難しくても、‘法則に従って世界をみる’という視点は現代科学の姿勢と極めて共通するものがある」と言っている。さらに「死に向かう一人ひとりの歩みは孤独であるが、大事なのは‘みな同じ道を歩んでいる’こと。今後はいかに生き、死ぬかという問題を語りあう‘組織’が必要になるだろう。」と言っている。

  男は佐々木氏が提唱する「いかに生き、死ぬかという問題を語りあう‘組織’」について、昔はお寺がそのような役割をしていたと思う。男が子供の頃、祖父母たちはお坊さんの話を聞くためお寺に集まっていた。隣近所声を掛け合ってお寺に行っていた。今はそのような文化は山村の田舎でも廃れてしまったのではないかと思う。

  同じ新聞のページで松岡正剛氏は『見直したい日本の風土』と題して「私たち日本人はこの半世紀、多くの大切なものを失ってきた。最たるものは‘死生観’である。」と言う。そして「地域社会が崩壊し、祭事が形骸化、死の儀式自体も人任せで空虚になってしまった。」と言う。全くそのとおりだと思う。

  愛する日本が壊れてしまわないように、男は自分なりに出来ることをしなければと思う。

2009年12月18日金曜日

暖かい家(ホーム)(2091218)

暖かい家(ホーム)とはどんなホームなのか考えてみた。先ず、夫婦相和しいていなければならないだろう。では、連れ合いの片方が先に逝ってしまったらどうだろうか。多分、そのホームは家族に囲まれていなければ淋しいだろうな、と男は思う。では、家族の居ないホームはどうなのだろうか。その場合、独居であることに耐えられる何か別の価値を持っていなければ独りでは生きてゆけないだろうと思う。別の価値とは例えば愛犬とか、宗教的なものとかである。独居していても誰かが何くれと声をかけてくれるとか、今の時代時々顔を見せ、電話などでよく連絡があるとか、とにかく「自分は独りぼっちではない」という気持ちでいられると独りでも生きてゆけるだろう。男と女房の母親がそうである。
この冬の寒いとき、失職して路上生活を余儀なくされている人たちには、なにか孤独を慰めてくれるものがあるのだろうか。男は昨日陶芸スクールに通ったが、その道すがら公共のトイレに近いところの無人倉庫のような建物の軒先に腰をおろして何か単行本を読んでいる40代後半ぐらいの男性を見かけた。おそらく彼は毎日職探しをしながら路上生活をしているのだろうと思う。彼の故郷はどこなのだろうか。身内はいるのだろうか。家族はいたのだろうか。今、わが国ではそのような失職した人たちが大勢いる。
彼らの今の境遇について、社会のセーフティネットが十分でなかった面も勿論ある。国際競争に勝ち国を豊かにして行こうとする政策のなかで効率的な人材派遣システム(企業側から見れば人材取得システム)の構築を積極的に支援した面もある。一方、若者たちの中には「働きたいときだけ働き、金がある間は‘自己実現’のため、あるいは‘快楽享受’のため働かない」という安易な考え、甘えた考えもあったと思う。アメリカのように徹底した個人主義の国では自己責任が問われる。しかし日本には古来家族主義が根強いため、働く人たちの中にはそのような安易な考え、甘えた考えがあるのは仕様がないことである。
近頃草食人間とか肉食人間という言葉が流行っている。草食人間は自己責任の観念が薄い人間なのだろうと男は思う。責任を他に転嫁するような人間たちだろうと思う。
明治時代、国民が貧しく、列強の圧力、大陸(当時の明国やロシア帝国など)から蹂躙されることを恐れていた時代、士族、特に下級士族たちは先頭に立って国民を引っ張り、国民もまた強烈な自己責任をもって和魂洋才・富国強兵の方針に従った。中心に天皇がいた。今の時代、為政者たちは国のことより自分のことしか考えていないように男には見える。
暖かいホームには暖かい心の持った人、特に女性がいる。常に他者を思いやり、他者に気遣いをし、他者に心配りをしている。20代、30代の若い女性たちでも、自分の母親がそのような人である場合、意識せずともごく自然にそのような振る舞いができる。父親でも母親でも、自分が親になって自分の子供に関わるとき、注意が自分の子供のことばかりに向くのではなく、周囲の人のことを思いやるものである。『坂の上の雲』には理想的な親の姿が描かれているのであろうが、そのドラマの中の親たちは皆立派である。
暖かい心を持っている女性たちに共通することは、先ず「相手を思いやる気持ち」「自分は一歩下がって相手を立てる気持ち」「相手を喜ばせる気遣いや心配りができること」「礼儀作法がきちんとできること」「家事がきちんとできること」「たとえ貧しい暮らしであっても一本の花を添え、或いは庭先に花を育て、四季折々に沿った形をつくることができること」などである。(関連記事:「六義園と小石川植物園の散策(20091128)」)

2009年12月17日木曜日


子供の顔がぱアっと明るくない(20091217)

 どんより曇った12月も半ばの時節のせいか子供たちにぱアっと明るさが見られない。同じ年のアメリカの子供たちは場所が東海岸の寒いところだろうと陽気で明るい。日本の子供たちが内気で恥ずかしがり屋であるためだろうか?男はそうは思わない。日本の子供たちでも昔は皆元気で明るかった。貧乏で鼻水をたらしボロを着ていても皆明るく元気だった。男が中学生のころある級友は家が極貧であったため学校に日の丸弁当(おかずなく大粒の麦飯の中に梅干し1個)さえも持って来ず、継ぎはぎだらけのしかも破れて布がひらひらした服を着、裸足で学校に来ていたが誰も彼をからかうことなく一緒に遊んでいた。その彼は中学校を出るとすぐ働きに出、その後何処でどうしているか判らなかったが、20年前在京28年卒同級会に来ていて男は彼が埼玉のある街でタクシーの運転手をしていることを知った。20年後の今、彼はある小さなタクシー会社の社長になっている。

 今の都会の子供たちがなぜ元気がないのか男は考えてみた。一つの答えは、子供たちは幼児期母親との会話が少ないだけではなく、子供同士で遊ぶことも少ないためだと思う。要するに他者との間で言葉を交わす回数が少なすぎるのだ。最も大事なことは乳幼児期母親が子供にお乳を飲ませながら赤子と語り合い、少し大きくなったら子供を自分の膝の上に載せて向き合って両手を引きあいながら語り合うことである。そしてさらにもう少し大きくなったら食卓を囲みながら語り合うことである。父親は週末とか休暇の時とか、時々子供たちと一緒に遊べばよい。乳幼児期・学童期の子育ての主役は母親である。母親が自分が産んだ子とよくよく対話することである。しかし今の母親はそのことを自分の母親から教えられていないから、自分が母親になってもそれができない。まして経験豊かな姑と一緒にくらすことは嫌だから、教えられる機会も少ない。

 その点男の女房は最も理想的で100点満点の母親であったと男は思う。普通、男の子は成長して会社員になっているとき一日の出来事をあれこれ母親に話す者はあまりいないらしい。しかし乳幼児・学童期からそのような習慣が母親との間にできていれば、大人になっても子供は母親とよく語り合う。語り合ってお互いいろいろいい勉強にもなる。ストレスも解消される。家庭の中が暖かい。豊かな心、暖かい心は家庭を暖かくする。

 飾り立てた家の中は暖かさはない。家具調度品が高級品でなくてもよいのだ。身につける飾り物が高級でなくてもよいのだ。必要な物が揃っておりそれが機能をよく果たし長持ちすればそれでよいのだ。見栄は一切不要である。ブランド品を持って得意がる人はある意味で可哀そうな人であるが、それを羨むことはもっと哀れである。

 子供手当で子供の顔はパァっと明るくなるだろうか?男はそうは思わない。お金で物事を解決するのではなく、社会教育、学校教育、家庭教育、すべての教育場面で、心の豊かさ、心の暖かさについて、国を挙げて、賢者の智慧を総動員して、取り組むべきではないか?そこに資金を十分注入すべきではないか?

 古の昔、聖徳太子(574-622年)が中国大陸の文明を吸収しながらその空しさと悲哀を感じて仏教の思想を広めようとしたように、また聖武天皇(701749年)が仏教の思想で国全体に人心の安らかさをもたらそうと大仏を建立し全国に国分寺を建設したように、世が乱れて来た今の時代、為政者は仏教の思想に目覚めるべきである。古の昔、危険を冒して中国大陸に渡り、仏教を学び、膨大な数の経本を持ち帰って、人々に説いた古の賢者・聖者の恩を、日本人は忘れてはならないと男は思う。

2009年12月16日水曜日

内臓機能の劣化/民主党に失望(20091216)

男は我孫子の病院で内視鏡検査を受けた結果についていろいろ医療情報をインターネットで探して入手した。
2年前の胃カメラの検査で「胃粘膜が委縮している」という結果が出ていたが男はあまり気にしていなかった。女房が新鮮な油で揚げてくれる天麩羅が美味しくて食べ過ぎたり、食いしん坊で食べ過ぎることがしばしばあった。これがいけなかった。一昨年あたりから夜中に腹が張るなど胃酸過多の傾向があり、トイレに起きたときヨーグルトを口に入れたり、牛乳を飲んだりして、キャベジンなど胃の薬を飲んだりして証状を緩和させていたが・・。

昨日の検査で「びらん性胃炎」と「食道裂腔ヘルニア」を指摘された。元来頑強な身体をしていることを誇りに思い、多少の無理は大丈夫と高をくくっていた男もいよいよこれでは危険だと判断し、インターネットでいろいろ調べたのである。男は田舎で一人暮らししている老母が腹の中にがんができたときも、女房が実母のように思っている親戚の叔母がリュウマチになったときも、妹が乳がんになったときもインターネットでいろいろ調べ、それぞれ教えてあげたり、老母の場合は主治医に話して抗がん剤を制限して貰ったりして、それぞれ回復し、皆元気になっている。男は今度は自分自身のことで真剣になった。
びらん性胃炎についてはピロリ菌の除去もしようと考えている。食道裂腔ヘルニアと合わせて胃酸を抑える薬の服用は続けなければならないようである。男は近所で懇意にしていて女房も世話になっている内科クリニックに行って先生に相談し、要すれば食道裂腔ヘルニアの手術、また今回見つかった「胃粘膜不整」の病理組織検査でもしがん化の恐れがある場合はその摘出手術についてもアドバイスを貰い、女房が通うのに苦労しないように近いところの病院を紹介して頂くなどしようと考えている。2年前、男はその先生から漢方薬を含む薬を処方してもらい、調子が良くなっていたのだが、このところその先生にはご無沙汰している。そろそろまた会わねばならぬと考えていた矢先である。

我孫子の病院の先生は外科医なので、今回の検査結果をもとに内科医の先生に相談しようと思う。我孫子で処方して貰った出血を止めるアドナ錠30㎎と胃酸を中和するなどの作用があるカイマックス錠330㎎は3日分であるが、それも内科医の先生に見せて最良の処方をしてもらおうと思っている。近くにそのような先生がいるということは幸せである。
がんの治療について男も女房も全く同じ考えであるが、もしがん細胞が検出されない状況で全身に拡散している状況であるならば、QOLを大事にして治療はしない道を選択するつもりである。しかし初期の発見で処置する場合は治癒の可能性があるので最善の治療を受けるようにすべきであると考えている。

今夜は大学の同窓会に顔を出すことになっているが、幹事に「酒は飲めず、食べ物もうどんとかおかゆしか食べられない」と伝えたら、「キャンセル料を半分とられるが皆楽しみにしている」と返事があった。男はそのキャンセル料を払って本当に5、6年以上ぶりに皆に会うことになる。顔を出して皆としばらく歓談し、早々に引き揚げるつもりである。

ところで小沢氏の強引なやり方や鳩山氏の決断の無さ、甘さに政情は不安になりつつある。国民は政官業の癒着の解決を民主党に期待したが、象徴天皇を敬い、伝統的な文化を大事にしている国民意識を軽視する今の政権に失望しつつある。政治家たちは自分たちが偉いとは思わずにもっと謙虚になるべきである。驕れるものは久しからずである。