2009年12月30日水曜日

小説『後恋』(20091230)


  学級担任が音楽の先生である阿部先生であったので、授業参観日のときの授業は音楽の授業として合唱を親たちに見せることになった。信夫はそのとき先生から合唱の指揮をする役を与えられていて、信夫たちの学級は放課後先生から熱心に合唱の指導を受けていた。いざ本番のとき信夫は親たちの前で教えられたとおりにタクトを振ったつもりであるが、先生から見るとどうも良くなかったようで、先生は恥ずかしそうにしていた。その時信夫が指揮し級友たちが合唱した曲はシューベルトの「セレナード」という曲だった。

  授業参観では各学級の担任がそれぞれ専門の授業を行った。志乃の学級では担任が理科だったので理科の実験を行ったとのことである。理科の実験は参観に来た親たちにも興味があったようである。しかし、合唱の方はその頃の親たちもあまり知らない曲だったので信夫の指揮ぶりと皆の歌いぶりがどうであるかということだけが注目された。参観が終わった後先生が恥ずかしがっていたので、多分信夫の指揮も合唱もあまり良くなかったらしい。中学校を卒業して信夫と志乃はそれぞれ別の道に進んだので、二人が会うことは二人が60近くになるまでなかった。

    50歳のとき阿部先生と再会したことがきっかけで信夫は中学生の頃志乃にほのかな思いを寄せていたことを思い出し、志乃に一度会ってみたいと思うようになっていた。志乃の父親も満州引き揚げの元教師であり、信夫の父親も朝鮮引き揚げの元教師であり、共に大分師範学校出であったということもあり、信夫は志乃とは何か前世から続いている因縁があるのではないかと思うようになっていた。

  信夫が所沢に住んでいたとき世話好きの坂田が幹事役をして「在京高塚中28年卒業同級会」が山手線鴬谷駅近くの料亭で開かれた。そのとき信夫は志乃に会うことができた。お互い家庭を持つ身、45年ほど前の恋は良い思い出の中だけにとどめ、皆それぞれ歩んできた人生のことを語り合った。志乃は音楽教師である阿部先生の影響もあって長崎大学を卒業した後上京し、東京芸術大大学院に進学し指揮法を学んだということである。

  志乃の音楽のキャリアはその大学院だけである。しかし志乃は子供のころから家にピアノがあったので、プロのように上手ではないがピアノを弾くことはできる。ピアノが弾けないと合唱団を指揮することはできない。そもそも合唱団を指揮するということは、合唱する音楽について自分のイメージどおりに表現するように指揮するということである。言うなればある音楽家が作曲したものを基にして「自分の音楽を作る」ということである。

  志乃は東京芸大の大学院で学んだ指揮法を合唱団の設立と運営に活かした。志乃の合唱団は成人男性と女性から成る混成合唱団のほか、子供たちだけの合唱団もある。混声合唱団の名前は「ル・ポン・ドゥ・ラルカンシエル」と言う名前であった。フランス語で「虹のかけ橋」という意味である。児童合唱団の方の名前は「ブリュエット・デ・フルーレット」、日本語で「小さな花達の小さな輝き煌き」という意味である。

  信夫は志乃が指揮する合唱を聴きに行ったことはある。会ったのはそれが最後で、その後信夫の妻に何か言い訳をしながら彼女に電話をかけたことが一、二度あったがその後は年賀状の交換をするだけであった。お互い70を過ぎた年の志乃からの年賀状には、ご主人が脳梗塞で倒れ介護の毎日であると書いてあった。その年賀状も次第に途絶えるようになった。信夫は皆に「隠居」と宣言し、以来誰にも一切年賀状を出さなくなったからである。(終)

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