2009年12月19日土曜日

過去をふり返る(20091219)

  多分10数年前ごろまで男は過去を振り返ることよりも常に未来に目を向けていたと思う。その見方は現世における過去であり未来であった。ところが今の男は現世の過去だけではなく過去世の過去も振り返り、現世の未来だけではなく来世の未来まで目を向けるようになっている。振り返る目も眼、目を向ける目も眼である。

  眼と目との違いについて、‘眼’の右側の字は『学研漢和大辞典』によれば「小刀で彫ったような穴にはまっている目。一定の座にはまって動かない意を含む。」とあり、‘目’は「瞼に覆われている目」のことである。また『広辞苑』によれば‘眼’には「ものを見分ける力、目のつけどころ」という意味があり、‘目’には「ものを見る働きをするところ」という意味がある。‘心’と‘眼’を組み合わせた語である‘心眼’は「物事の善悪、是非を見分ける心の働き。物事の本質を考える心の働き。」とある。

  今日(18日)の読売新聞朝刊に死生観について識者へのインタビューの記事が出ていた。男は花園大学教授佐々木閑氏の「皆同じ道を歩んでいる」という記事に興味を持った。

  仏教は心の在り方や心の持ち方について説いている。2500年前釈尊が説かれた人間の生き方に関する教え、仏教はその後弟子たちによりまとめられ諸法則をまとめた一つの大きな体系として現在に至っている。仏教の経典には人間の生き方の智慧が詰まっている。

  男は電子通信工学を学びその道で月給生活を送ってきて60歳の定年を迎えた後10数年生きてきたのであるが、仏教が説く「輪廻」とか「業」とか「転生」を固く信じ込んでいる。それでも一時期、精神は物質により生じるものであると唯物論的な考え方をしていたことがあった。分子科学のレベルで見ると精神は物質により生じるのだと考えていた。しかし、そのような考え方では人生は味気なくつまらないものになってしまうと気付いた。
釈尊はそのような考え方を「無記」とされた。釈尊は、時間を超えて永遠に存在する本体といわれるものは時間・空間の中に生滅変化して存在する現象世界とは別個の存在であるから、その本体が「ある」とも「ない」とも認識・判断することができないので問題にすることを禁じ「無記」とされたという。(『仏教の基礎知識』水野弘元著、春秋社刊より。)

  佐々木氏は「‘輪廻’や‘業’を含めた釈迦の世界観をすべて受け入れることは難しくても、‘法則に従って世界をみる’という視点は現代科学の姿勢と極めて共通するものがある」と言っている。さらに「死に向かう一人ひとりの歩みは孤独であるが、大事なのは‘みな同じ道を歩んでいる’こと。今後はいかに生き、死ぬかという問題を語りあう‘組織’が必要になるだろう。」と言っている。

  男は佐々木氏が提唱する「いかに生き、死ぬかという問題を語りあう‘組織’」について、昔はお寺がそのような役割をしていたと思う。男が子供の頃、祖父母たちはお坊さんの話を聞くためお寺に集まっていた。隣近所声を掛け合ってお寺に行っていた。今はそのような文化は山村の田舎でも廃れてしまったのではないかと思う。

  同じ新聞のページで松岡正剛氏は『見直したい日本の風土』と題して「私たち日本人はこの半世紀、多くの大切なものを失ってきた。最たるものは‘死生観’である。」と言う。そして「地域社会が崩壊し、祭事が形骸化、死の儀式自体も人任せで空虚になってしまった。」と言う。全くそのとおりだと思う。

  愛する日本が壊れてしまわないように、男は自分なりに出来ることをしなければと思う。