2010年2月8日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17(20100208)

 今日(6日)も気温は低いが良いお天気である。男は自分の部屋の窓を全開にしてこれを書いている。女房が廊下を通りがかりに「寒いじゃない」と言う。男は「いや、このままで良い」と応える。女房は「じゃ、部屋を閉めてよ。寒いんだから」と苦情を言う。実は女房は昨年暮れ以来過労がたたって帯状疱疹を患い治療中である。安静が必要なのでお天気が良くても殆ど家の中にいる。ベランダで花に水をやったり、時々ひよどりがやって来て折角丹念に世話している花をかじったりするので、その対策を講じたりしている。

 帯状疱疹は完治するまで若干期間を要する。頬のできものは殆ど治ったが、腹部のまわりの疱疹は治りつつあるがまだ完治まで1、2週間かかりそうである。治療のため服薬と塗り薬を一日3回行っている。頬に発症したとき直ちに対処したことが良かった。

 帯状疱疹はストレスの積み重ねで免疫力が低下して発症する。男は女房の免疫力を高めるためいろいろ知識を総動員している。その一つに指の爪を揉むことと腹式呼吸がある。指の爪は薬指を除いて詰めの両端を軽く揉むのである。腹式呼吸は男が詩吟の吟詠を行うとき実行している方法である。短時間すっと鼻から息を吸い、ちょと腹に貯めて、その後できるだけ長い時間をかけて残りの息を吐き切るまで吐いて吐き続けるのである。

 男が尊敬する100歳のあるお方は指の爪を揉むことと両手の対になっている指先を合わせて両脇を上げて強く押すことをセットにして三回づつ行うこと、及び腹式呼吸法は息を吸うとき頭の額付近から吸い、吐くときは足の裏から吐くようにすることを教えて下さった。また食事は咀嚼を100回行い、消化をよくするように心がける。唾液は免疫力を高めるという。このような方法を実行すれば内臓を強化し、体温を高め、免疫力が高まるということである。事実男はそれを毎日実行して、最近体中に活力が漲った感じがしている。

さてブッダ「真理のことば」第十一章は「老いること」という題である。
146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか? 世間は常に燃え立っているのに。 汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?
147 見よ、粉飾された形体を! (それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知識は増えない。

訳注によれば「粉飾された形体」とはパーリ仏典では人間の身体あるいは人間の個体のことであるという。「どうして燈明を求めないのか?」という言葉にキリスト教の聖書にある言葉を思い出して聖書を取りに居間に行ったら女房がNHKの「永平寺修行の道」を観ている。男もその番組を観ることにした。とても良い番組であった。
永平寺にはバス旅行で行ったことがある。若い雲水たちが修行している姿を見て、男は自分がこの雲水たちにも遠く及ばない全くの凡人であるとつくづく思った。

2010年2月7日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(16(20100207)

第十章 暴力
131 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

釈尊は過去世が有るとか無いとか来世が有るとか無いとか形而上学的な論議をすることを戒められて「無記」とされた。そういうことを議論するのは実践上全く役立たないからである。しかし、上記のように死後の世界のことを述べられている。昨日書いた「126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。」ということばの中にも死後の世界のことが語られている。男は釈尊は深い瞑想により時空を超越して過去から未来まで見ることが出来たのだと思う。そしてそのことを男は堅く信じている。
しかし男は、いわゆる何かの宗教を‘信仰’するということではない。釈尊をはじめ釈尊のお弟子さんたち、そして仏教を学び修行し、ある高いレベルの状態に達した高僧たち、例えば鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた夢窓国師が語られていることを少しも疑わず、信じているだけである。男が何度も読む『夢窓国師 夢中問答集』(講談社学術文庫)という本の中で良く出てくる言葉は「今生」とか「前世」とか「来世」とかいう言葉である。夢窓国師はこの問答集の中で「人界(にんがい)に生(しょう)を受くる人、貴賎異なりと云ふとも皆これ前世(ぜんせ)の五戒十善の薫力なり。」と述べておられる。
男は、仏(ブッダ、釈尊)と法(ブッダによって説かれた教法。Dharma、ダルマという。)と僧(ブッダに代わって民衆に仏教の理論や実践を伝え、民衆を指導教化する出家者の団体。sangha、サンガという。)(以上『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)より引用。)、つまり‘仏法僧’を心から敬うことの幸せを感じている。
ところで、5日、衆議院予算委員会で自民党の石破氏と伊吹氏の発言とその発言を真摯に受け止めていた鳩山氏始め各閣僚、そして多少の不規則発言はあったが、伊吹氏の時には殆どそのような発言は聞こえず民主党の若い議員たちもよく耳を傾けていた状況を見て、男は日頃不安に感じていた気持ちがかなり和らいだ。民主党には党の綱領もなく、同好会や運動部のようにリーダーの指示に従い、この国を何処に持って行こうとしているのか判らない不気味さが漂っているが、それが特に長老伊吹氏の発言で幾分晴れてきそうな感じに思えた。伊吹氏は‘若い’宰相鳩山氏を‘爺’のように諌め、導いているようであった。石破氏は政権を取ったばかりで経験の浅い民主党議員、鳩山氏始め閣僚たちに、‘教師’が生徒たちを指導しているような感があった。男は今夜は心地よく眠れそうである。

2010年2月6日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(15(20100206)

小沢氏の不起訴が決まった。しかしその内容は「嫌疑不十分」ということであって「嫌疑なし」ということではない。今後法廷の場で明らかにしてゆくということである。一方、小沢氏を擁護する輿石氏らはこれで疑いが晴れたと喜んでいる。党首の鳩山総理は「小沢氏に幹事長として参院選を戦って行く」と言明した。男は今後小沢氏を告発した市民団体も含め、検察審査会への申立てなどいろいろ攻勢をかけて行くことだろう。
男は民主党が旧政権で出来なかったことをやって行こうとすることは正しいと思う。ただし、条件がある。それは「中庸を外れてはならない。」ということである。昨年夏の選挙で政権をとったからとて、得票率も上で国民の過半数が民主党を支持したわけではない。中庸を外れ、革命じみたことをやってもらっては困る。公共事業の予算を18.5%も削ったことが果たして正しかったかどうか、地方に経済的ダメージを与え、かえって地方を疲弊させる結果にならなければよいがと男は思う。
小沢氏は永住外国人参政権を実現させようとしている。鳩山総理は「個人的にはそれに積極的な思いはある。」という。「参院選で過半数の当選者を出す」ということは、ある意味では‘公’的ではなく民主党の‘私’的な目標である。そのような目標を「国民のため」というのは思い上がった考え方である。それは大義でも正義でもない。こころある人々には「一体この国はどうなるのか。」という言い知れない不安感を抱かせている。旧ドイツのナチス政権は合法的な選挙で多数の議員を出し、ドイツをあのような国にし、人類史上類のない犯罪国家となった歴史を残した。民主党も同じに見える。「怖い」という感じである。

ブッダ「真理のことば」第九章は「悪」という題である。
117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。
120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。
126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。

小沢氏は検察が不公正であると言っていた。その心は「他の政治家もやっているのに。」という思いであっただろう。「清濁併せのむ」ことが必要であるという人がいる。男はそのような考え方は正しくないと思う。結局、小沢氏の‘子分’たちが泥をかぶり、‘親分’小沢氏を守りとおせるだろうか?男は「矛盾はいつか必ずほころぶ」と思っている。

2010年2月5日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(14(20100205)

第八章は「千という数にちなんで」という題である。

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうが優れている。
110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
114 不死(しなない)境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

「不死の境地」について、著者・中村 元は、訳注に「amatam padam.漢訳『法句経』には「甘露道」と訳している。古代インドでは甘露の汁液をamataと呼んだので、「甘露」と訳したのであろう。しかし原文ではそれを「飲む」とは言わないで、それを「見る」というからamataはやはり「不死」の意味である。」と言っている。

 さて、男はこの第八章を読んで、西行の作詩と夢窓疎石の作詩『修学』を思いだした。『至善』の詩文には「一日を一生として」という句がある。『修学』は;
  一日の学問 千載の宝  百年の富貴一朝の塵
  一書の恩徳 万玉に勝る 一言の教訓 重きこと千金
というものである。(関連記事:20091210日木曜日、「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」、2009102日金曜日「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091002-200909831-20090915.html

  夢窓疎石は夢窓国師とも敬称される。夢窓国師は建治元年(1275年)に伊勢の源氏の家(佐佐木氏)に生れ、母は平氏の出であった。77歳で没している。23歳の時円覚寺で才能を見いだされ、25歳の時元(中国)から来朝していた寧一山の許で建長寺の首座になり、その後紆余曲折はあったが寧一山の教えを受けている。鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、足利尊氏の弟直義と問答をし、世に七朝の帝師と仰がれた方である。(関連記事:2009101日木曜日、「前世、今生、来世(20091001)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091001.html

  今、日本には国師はいない。ニュースで国民新党の亀井氏が国会で永住外国人参政権付与反対の立場で意見を述べていたが、男は亀井氏の発言に幾分救われた気持ちである。しかし小沢氏は起訴・不起訴について4日の時点ではまだはっきりしていない。男は、民主党の心ある国会議員たちまでもが旧海軍のエリートたちが犯した過ちのような「やましき沈黙」をして小沢氏に引きずられ、党首・総理の鳩山氏が煮え切らない態度を示し、この日本を間違った方向に持って行こうとしている不安感をどうしても拭いきれない。(「やましき沈黙」関連記事:2009816日日曜日、「長崎への原爆投下(20090816)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/08/20090816-63km-850-nhk40065-wasp.html

2010年2月4日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(13(20100204)

 第七章の題は「真人」である。訳注によれば、「真人」とは、「arahant.サンスクリットでは、arhat.尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。漢訳では「阿羅漢」「羅漢」などと音写する。「応供」、「応真」とも訳し、意訳して「真人」ともいう。」とある。

 とかく仏教の用語は難しい。われわれ凡人が仏教に親しもうとしても、なかなか取り付きにくい。でも、男は「阿羅漢」の意味がパーリ語のarahantの音写であること、その意味が「尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人、修行を完成した人。」であることを知った。修行を完成しないと阿羅漢にはなれないのだ。

 となると、男のように煩悩を断ちきれない者はちょっとやそっとでは阿羅漢に列せられることはできない。しかし、人生の旅路の終わりごろになれば、煩悩も断ち切れるかもしれない。人は、必ず訪れる人生の最期に向けて、すこしでも涅槃の心境に近づくように努力すべきものなのだ。それは、政治家でも学者でも宗教家でも皆同じなのだ。

90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みはそんざいしない。
96 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。
97 なにものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。

 「智慧」という用語について『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、智慧には世俗的なものから仏の最高の智慧までいろいろなものがあるということである。その段階の一つに、「初歩の悟りの智慧」があり、その上の智慧は「阿羅漢の智慧」である。仏教の最後の目的は悟りの智慧を得ることにある。最澄や空海の時代には智慧について学ぶにもよい書物やよい師はなかなかいなかったであろう。今の時代には男のような凡人にも理解できる仏教関係の書物が沢山ある。これは大変幸せなことである。
訳注には、「解脱」とは「束縛を離れた自主の境地である。」とある。束縛を離れ

 るにはどうしたらよいか、ブッダはその体系について教えて下さっている。『仏教要語の基礎知識』や『仏教の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社)にはその体系のことが説明されている。仏教について学ぼうという気持さえあれば、まして人生経験を積んだ老人であるならば、それを学ぼうとしない人よりも早く、ある程度の「智慧」を身につけることはできる。

男 は女房とともに、ついこの間100歳になられたある在家の僧侶の方から戒名を頂いた。その戒名に恥じないように「智慧」の習得・会得に努めなければならないと思う。

2010年2月3日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(12(20100203)

女房が録画していたテレビ番組「サイエンスZERO」を再生したら、アポトーシスのことが出ていた。がん細胞は‘アポトーシス’を忘れた細胞であるとのことである。細胞のアポトーシスはカスパーゼという酵素により引き起こされるらしい。それも一定時間が経つとアポトーシスを引き起こすように予めプログラムされているということである。なぜそのようなプログラムがなされているかというと、それは種の維持のために必要であるからであるという。人間の細胞のアポトーシスは60回ぐらいで終わり、それとともに寿命が尽きるという。亀は120回ぐらいだそうで人間より長生きである。
男はこの四月から放送大学に再入学して「自然と環境」を専攻し、分子生物学や量子科学、宇宙科学などを勉強しようと計画している。その学問は、2500年前に釈尊が語られたものに相通じるものがあると男は考えている。『世界に開け華厳の花』(華厳宗管長・森本公誠、春秋社)によれば、『華厳経』は小なるものの世界に大いなる世界が内包されているという思想を説いているということである。
奈良時代の第45代天皇・聖武天皇(701年‐756年、在位: 724年‐749年)は華厳経の普及を図り、全国に国分寺を建立し、この国分寺に派遣する僧侶を養成するため奈良に東大寺を造営し、見習い僧に声明(しょうみょう)(言語・文法)、因明(いんみょう)(仏教論理学)、内明(ないみょう)(仏教教義)、工巧明(くぎょうみょう)(建築・土木)、医方明るい(いほうみょう)(医術・薬草)の五つの学問を習得させた。
その東大寺の大仏はビルシャナ仏(盧舎那仏)で、ビルシャナとはインドの言葉でヴァイロシャーナと言うそうである。その意味は「宇宙いっぱいに光り輝いているお方」という意味だそうである。確かにこの宇宙は137億年前、一点から光が発して出来たものである。
この大仏建立時、巨大な仏像に塗金するための黄金が必要であったがそれが不足していた。そのようなとき663年の白村江の戦いで日本が百済を救うことが出来ず、王族・貴族ほか多数の避難民が日本に引き揚げてきて日本に帰化していた王族の子孫で陸奥守として陸奥に派遣されていた百済王敬福が陸奥の小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)で金を発見し、聖武天皇に大量の金を献上した。そのことが『日本書紀』に書かれている。

ブッダ「真理のことば」第六章の題は「賢い人」である。
85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)に至るであろう。

彼岸は涅槃のことである。証明されないかぎり頭から信じようとしない現代人は、科学を通じて証明されたことなら信じることができる。男の上記の学問はそのためである。

2010年2月2日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(11(20100202)

第四章は「花にちなんで」という題である。
46 この身は泡沫(うたたか)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

ここで訳注に「悪魔の花の矢」とは「欲界」「色界」「無色界」の三界のことであるとあり、「死王にみられないところ」とは、「不死の大ニルヴァーナ」をいうとある。本能寺の変の織田信長も、忠臣蔵の浅野内匠頭も、「この身は泡沫(うたたか)のごとく」と思い、死に赴いたのだと男は思う。
先の大戦で戦地に赴き死んだ兵士たちも、戦艦大和の乗組員たちも、特攻隊の隊員たちも、自らの命を捨てる時「大ニルヴァーナ」の状態に近かったのではないか男は想像する。勿論、最期のとき、「無念」「生きたい」「無駄死したくない」などの煩悩もあったに違いない。しかし、そのような人々のことは、「不死のたましい」として何百年も千年も先々まで語り継がれて残ってゆくのである。歴史認識も違う国にへつらって靖国神社を軽んずる政治家たちは、とんでもないやつらである。売国奴である。国賊である。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

5060もなって、政治的信条に基づき発言し、行動する者には、このことばはあてはまらないと男は思う。「過失」なんかじゃない!彼がしたことは全国民が見ている。それを「見ない」というのは偽善である。ただ、自分のしたこととしなかったことを反省しなければならない。その反省の判断の基準は、「12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しきおもいにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。」ということばにある。まこととは「精、精髄、堅牢、真利」である。打算的な考えで「政治的大義」を掲げることは、人々を欺くことであり、「まこと」ではない。愚かな人々は彼の言う「大義」に騙されたのだ。彼の‘こどもたち’も彼に騙された者が多いであろう。男はこころ正しき指導者の出現を願っている。

第五章のタイトルは「愚かな人」である。
61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱり独りで行け。愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。

この乱れた国を正すため、聖徳太子が姿を変えて現れて下さることを男は願っている。

2010年2月1日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(10(20100201)

女房は数日前発症したようであるが、右頬におできが出来て医者に行ったら帯状疱疹の可能性があると診断され、化膿止めの抗生物質と帯状疱疹のウイルスを抑える抗生物質などが処方された。一昨日は右側の耳の下の首辺りから頭にかけて痛みがあったが、それは薬で抑えられたようである。ところが昨日は左側の同じところに痛みが来た。帯状疱疹のウイルスをリンパ腺で抑えようとしているらしい。それも今日はだいぶ改善された。
当面安静が第一であるので、女房は家で録画していた紅葉の石山寺などを観ている。男もテレビ画面に写る美しい景色に見とれた。わが国には代々守り継がれてきた素晴らしい歴史的遺産がある。日本は本当に素晴らしい国である。この日本という国の形を、野心家の政治家の、欺瞞的な大義名分をかざした政治家の、私利私欲の行動のために決して壊されてはならないと思う。「国民よ、目を覚ませ!」と男は腸を絞る思いで叫びたい。
そういうわけで今日は男は独りで川の周りを散歩した。お天気もよく気持ちがよい。午後も遅い時間であったので太陽が傾き水面に映えている。鉄橋の上を電車がゴトンゴトンと走っている。釣りを楽しむ人たちが川に釣り糸を垂れたまま語り合っている。ジョギングしているカップルがいる。犬の散歩をさせている女性がいる。老いた女が独りで散歩している。向こう岸では子供たちの野球チームが試合をしていて元気な声を出している。やがて日は丘陵に沈み、人々の暮らしの一こまが終わる。かくして時は流れる。
2500年前、インドの大地で釈尊は弟子たちに法を教えを説いた。釈尊が語られた言葉は書きとめられ、後の世に伝えられ、代々引き継がれてきた。法隆寺の聖徳太子像も、その教えとともに代々僧侶たちによって守られ、伝えられてきた。日本は本当に素晴らしい国である。このようにして、今日に至ってなお釈尊は私たちに生き方の教えを説かれている。本当に有り難いことである。「私は政権獲得という一点だけでこれまで行動してきた」と、もっともらしい大義名分を掲げ、そのようにして私利私欲を欺瞞的な衣で隠している政治家の野心を、党利党略を、人々はやがて見抜き、厳しい罰を与えることであろう。

ブッダ「真理のことば」第三章は「心」と題されている。
40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。しかもそれに執着することなく。
43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

2010年1月31日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(9)(20100131)

 ブッダ「真理のことば」は膨大な数の詩であるので、第二章以降はその一部を抜き出して男の思いを綴ることにする。

23 (道に)思いをこらし、耐え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する。思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸(しあわ)せである。
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
26 智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財産(たから)をまもるように、つとめはげむのをまもる。
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
 
 訳注によれば、「やすらぎ」とはnibaana(注:前にもそうであったがaの上にバーが付く文字がないので、このブログでは母音を連ねて書いている。)、サンスクリット語では、
nirvaanaのことで「涅槃」と音写されているとのことである。訳注には「これは最高の理想の境地であり、仏教修行者の最後の目的である。そこでは人間の煩悩や穢れがすべて消滅している。」とある。また「幸せ」とは、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」「財産」「生計」「安寧」とある。

 この「真理のことば」を聴いて男が感じたことは、今から2500年前に生きておられた釈尊はわれわれ凡人に決して無理な戒律を要求しておられなかったということである。修行というと、なにかものすごく厳しいルールを実行しなければならないのかなと普通には思うだろう。しかし、例えば11番目と12番目の詩(関連記事:「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(6)(20100128)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2010/01/20100128-50-500-10-11-12-11-12-saara.html)で、「まこと」という言葉の意味が「精、精髄、堅牢、真利」ということであり、常識で理解できるものである。また上の23番目の詩にある「やすらぎ」も同様である。何も悲壮な気持ちになって煩悩を出さないように自分を縛り、どうしても捨て去ることのできない煩悩を押し殺すように懸命に自制しなければならないということではないと思う。「常識的に考えて誤りのない、真(まこと)の行為としての利」が「やすらぎ」であり、「すでに獲得したものを所有すること」「財産を保持すること」などが「幸せ」なのである。修行を積み、年を重ね、煩悩の呪縛から遠ざかれば、それはそれなりに高いレベルの来世があるが、凡人は勉強し向上の努力を重ねれば、少なくとも「阿羅漢」になることはできるのだ。ブッダの教えを聴き、内省し、ニルヴァーナに至るよう努力することが、われわれ凡人にとって最も重要なのだと男は思う。

 男にとって最上の「財産(たから)」は、これまで48年間連れ添ってきた女房である。次に二人の息子たちとその家族である。かくして「いのち」は途切れることなく続いてゆく。

2010年1月30日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(8)(20100130)

男はこれまで「真理のことば」の第一章を学んできた。この第一章は、そのタイトルが「ひと組づつ」と書かれている。これは対になっている二つの詩が合わせられて一つのことがらを説いている形式になっている。第一章の最後の二つの詩は次のとおりである。男はこの二つの詩を読んで、「自分は到底修行者にはなれない。」と思った。執着から決して離れられないし、情欲も怒りも捨てきれない!しかし、いよいよあの世の入口にさしかかったときには、他者には自分が多少修行者らしく「見える」ようになるかもしれない。しかし、判らない!それでも後で述べる阿羅漢には多少近づけるのかもしれない。

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。

第二章は「はげみ」という題である。この章の訳注に「島」または「洲(しま)」について解説がある。それは「自分のよりどころである真人の境地」を大海の中の「島」又は大きな川の中の「洲」に譬えている。ここで「真人」とは「阿羅漢」と漢訳されている元の語はarahantで「羅漢」とも音写されている。これは、尊敬されるべき人、拝まるべき人、尊敬供養を受けるべき人のことだそうである。埼玉の川越の喜多院に五百余りの羅漢像が鎮座している一角がある。見ると一体一体皆違う表情をしている。笑っているお顔も怒ったお顔もある。男はごく普通の人たちでも向上を目指して教えを受け、学び、努力すれば「自分のよりどころである真人の境地」に至り、「羅漢」に列せられるのだと思う。

この第二章の最初に次の二つの詩がある。
21 つとめ励むものは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は死者のごとくである。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

「不死の境地」は、amatapadamをそのように訳したとある。漢訳『法句経』では、「甘露道」と訳している。amataは「甘露」と訳されている。「甘茶」はそこから来たのだろうか?
訳注には、「「つとめ励む」と因果の連鎖によって影響は無限にひろがり、死ぬことはない。」とある。男は、「因果の連鎖」は親から子へ、子から孫へと続くものだと思う。

2010年1月29日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(7)(20100129)

13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14 屋根を粗雑に葺いてある家には雨の洩れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の進入することがない。
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、二つのところでともに喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪の報いを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

新聞に悲しい二つの事件の記事が載っていた。一つは初めテレビでニュースを聞いていたため読みたくない記事である。それは小学校1年生の男の子を22歳の実の母親と、31歳の男(母親の結婚相手)が虐待死させた事件である。もう一つは自分が産んだ幼い娘の裸の写真を携帯電話で送信したり、いかがわしい行為をされると知りながら男に引き合わせたりしたとして、大阪、宮城、神奈川など8都府県の母親ら13人が昨年6月以降、相次いで摘発されたという記事である。
自分が産んだ息子が親をかばい「いじめられていない。悪いことをしたら叱られるけど。」と言っていたが、この子が描いた絵には目を吊り上げた親熊とそのそばに目が丸い小熊が描かれていた。この親もその夫も自分が犯した罪で一生苦しむだろう。自分の娘を小遣い稼ぎの道具、しかもいかがわしい情欲の道具に使った母親たちも同じである。
釈尊はここで来世のことを語られている。釈尊ご自身、「前世」が有るか無いかとか「来世」が有るか無いかとか、「我」が有るとか無いとか、形而上学的に存在の有無を論じることを「無記」として禁じられている。しかし男は、「前世」から「今生」へ、「今生」から「来世」へと永遠に続く‘もの’があるということは、それを思惟して確信することができる者にしか理解できないことであると思っている。
前に、ブッダの「化身」についてこのブログに書いたことがあるが、男は上記のような罪を犯した人たちもブッダの「化身」であると理解する。「化身」はブッダが人々に真理を教え、人々を真理の世界に導く「方便」として現れている姿である。(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)

2010年1月28日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(6)(20100128)

 普天間基地の問題で男は一つの解決策を提案したい。

 沖縄に米軍基地、とりわけ空軍及び海兵隊の航空部隊が存在することは日本の安全保障及び東南アジア地域の安全のため必要である。この必要性については一定の見識をもっている者でなければ理解できない。この必要性が薄れる条件は北朝鮮が核兵器を放棄し、中国や北朝鮮と日本の間で価値観を共有する度合いが非常に濃くなった段階に至るということである。それまでは地道な外交努力と交流促進を積み重ねて行かなければならない。
以上の前提に立ち、当面の解決策について提案する。当面といっても上記のような親密な関係ができるまで少なくとも50年以上の年月がかかるであろう。それまでの間の暫定的な解決策について男は提案するものである。

 それは、沖縄の人たちに目に見える形で精神的な苦痛を補償することである。この補償のため、沖縄以外の自治体で一人当たり年間で500円~10万円程度の負担をすることである。そしてその具体的補償とは、沖縄県民の所得税や住民税をゼロまたは大幅に軽減するのである。つまり我が国の安全を全国民で守るのである。このため‘平和安全税’のような特別税を創設するのである。

 男はもうあまり天下国家のことで思い患いたくないが、今の政治家たちのものの考え方にときどき我慢がならないときがある。ブッダ「真理のことば」の11番目と12番目の詩は、政治家たちに座右の銘としてもらいたいと男は思うのである。

11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。

 ‘まこと’とはsaaraであり、精とか精髄とか堅牢なものをいうそうである。ブッダ「真理のことば」の漢訳である法句経では‘真利’と訳しているとのことである。漢訳者は‘本当にためになる’という意味に解したということである。

 そうすると、日本の国というある意味では一個の人間のような有機体として、周りを見る場合において、防衛とか安全保障とか周りの安定という局面で見ると、‘本当にためになる’こととは何か、おのずと明らかになるであろう。この場合の‘正しき思い’とは、日本の安全のために沖縄の人たちに過重な負担を強いるのでもなく、いろいろなハコモノ、コンクリートもの、天下りを建設し、これらを管理する組織を設けることではない筈である。

 いろいろなハコモノ、コンクリートものを建設し、これらを管理する組織を設けることは表向きのことであって、実は利権や官僚の利益のための工作である。これは欺瞞であり、正しいことのように見せかけて、実は悪しきことをやっているのである。

2010年1月27日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(5)(20100127)

9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。

10 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

 この二つのことば(詩)は出家修行者のために説かれたものであるとのことである。汚物とは煩悩のことだそうである。当時の修行者は汚れたボロ切れを集めて綴った衣を着ていたということである。

 男は今のところ出家修行者になる意志はまったくなく、また煩悩を抑えきれる自信は全くない。西行のように‘在家(ざいか)’と言えば恰好が良いが、そのような意味での‘在家’修行者になることはおこがましい。男は親鸞の教えについてまだ勉強していないが、親鸞は男のような煩悩のかたまりの人間でも‘あの世’と‘この世’の境目がなくなるほどの心境に達することができると教えているのだろうか、勉強してみたいと思う。

 平安時代に栄華を極めた道長は糖尿病で死んだということであるが、生前阿弥陀如来を崇めるお寺を建て、黄金に輝く仏像群をお寺の堂内に飾って阿弥陀如来に帰依したという。いよいよ死の床についたとき、僧侶に阿弥陀経を唱えさせ、自らは阿弥陀如来像につないだ紐を手に持ち、阿弥陀如来に迎えられる空想をしながら没したという。(『栄華物語』)

 男は、道長のようにいろいろ造作をしてまで心の安寧を得たいとは全く望まないし、そうしなくても、今の煩悩の状態のまま、意識のうえでは‘あの世’と‘この世’の境目がないような状態で‘あの世’に逝けると思っている。

 昨日書いたように、武蔵は仏教に帰依していたかどうかは別として、『五輪書』を書き終わって、それを書いた洞窟のなかでそのまま死のうと思っていたらしい。武蔵を客分扱いでもてなしていた細川家が無理やり武蔵を洞窟から連れ帰ったからそれがかなわなかったのだ。男は武蔵のような気持ちにはなれると思う。

 その気持ちになれるのは、男の生母が33歳で没するときのことが男の心に強く刻まれているからである。男の母親の胸には朝鮮から引き揚げた20年夏、既にがんのしこりができていた。病院でがんに侵された左右両方の乳房を間をおいて順番に切除する手術を受けたが既に手遅れであった。死の床に臥していた母親の背中にはがんが転移し沢山の小さながんのこぶができていた。「起こして、また背中をさすっておくれ」と言うたびに当時10歳の男は母親を寝床から起こして上げ、背中をさすってやっていた。母親は苦痛の顔を少しも見せることはなかった。いよいよ死期を知ったと母親「起こしておくれ」と言ったが「背中をさすっておくれ」とは言わず「東を向けておくれ。お仏壇からお線香を持ってきておくれ。お父さんを呼んできておくれ」と言って東に向いて両手を合わせていた。男の母親は‘在家’にして、その精神は上の10番目のことばのようであったのだ。

2010年1月26日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(4)(20100126)

 年暮れには胃カメラと大腸カメラの検査をし、ポリープも切除した。血液検査と尿検査で殆どの検査項目は網羅するので人間ドックに入る必要は無い。

 このような検査は、電子通信機器などの定期的検査のようなものである。電子通信機器のメンテナンスでは、スケジュールに従って予め定められる検査項目の検査を行う。このとき、たまに問題が起きることがある。人間の検査でもなにか間違いが起きないとは限らない。そのことを予め念頭において検査を受ける姿勢が重要である。



 今日は男は女房と一緒に定期健康診断を受けた。二人とも特定検診も兼ねてそれぞれ気になるところの検査も受けた。男はずっと前から肝臓にのう胞があってこれが大きくならない限り問題ないのであるが、毎年超音波検査を受けている。そのほか今回は胸部レントゲン検査も受けた。

 さて、昨日の「真理のことば」の5番目に「怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」という言葉がある。この言葉で男はふと旧約聖書の『ヨブ記』のことを思い出した。

苦しみに遭ったとき、ヨブの妻が「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言ったら、ヨブは「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」と言った。5番目のことばの精神は、表面的にはヨブの精神と同じようなものである。しかし、ヨブが崇めるものは全知全能の神である。一方、ブッダの教えは「(誰にも頼らず、)自分自身を洲にし、自分自身をよりどころにせよ」というものである。そこには一個の人間としての生き方についての深い教えがある。

ブッダ「真理のことば」;
7 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(目などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は悪魔にうちひしがれる。弱い樹木が風に倒されるように。
8 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(目などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。岩山が風にゆるがないように。

男は新免(公家につながる父方の姓)宮本(母方の姓)武蔵の生涯の閉じ方は、正にこの6番目の言葉のとおりであったと思う。武蔵は終生孤高の精神を保ち、熊本の金剛山の中腹にある霊巌洞という洞窟で、寛永20年(1643年)から正保2年(1645年)にかけて『五輪書』を書いた。宮本武蔵は熊本の細川藩に客分として招かれていたとき藩主・細川忠利から居宅を与えられていたが、藩主の命を受けてそれを書くときその洞窟に籠って書いたという。そして「『五輪書』を正保2年の春に書き終わって、その年の5月に没したという。
武蔵はその洞窟内で死を待とうとしたが、細川家では武蔵を無理やり居宅に引き戻し十分な看護をしたが、ほどなく僅かな弟子たちに看とられて波乱の生涯を閉じたのである。

2010年1月25日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)

昨日のブッダ「真理のことば」(2)の3番目と4番目の言葉は、キリスト教の聖書にあるイエス・キリストが「悪人には手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉と似たところがある。しかし根本的な違いは、釈尊は自己修養の道を説いたが、イエス・キリストは弟子がとるべき積極的な行為を説いたという点である。
ブッダ「真理のことば」の5番目に、



5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

とある。右の頬を殴られて抵抗せず左の頬を出したからとて、全く無抵抗に相手の為すがままに、「これがブッダによる‘方便’としての、‘化身’(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)としての教え」であると達観しない限り、それは単なる行為に終わってしまうだろう。
ブッダ「真理のことば」の6番目は、



6 「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

仏教における「○○宗」の‘宗’はもともと「根本のことわり」と言う意味だそうである。この6番目の言葉の中に出る「他の人々」とは「賢者」以外の一般の人々、つまり「愚者」のことだそうである。男は「愚者」であるから、あの世に近づくにつれて少しでも一歩でも「賢者」に近づきたい、また近づくように努力すべきであると思っている。
釈尊は生と死の境界のない状態になるように、自分だけを頼りにして修養しなさい、と教えておられる。男は自分が仏教を良く勉強し、座禅し、修養し、そのような生と死の境界がない状態まで自分の精神を高めることができれば、あらゆる煩悩が消滅し、本当の幸せを実感できるのではないかと思っている。しかし、これは容易なことではないと思う。
男は女房とともに日々実に幸せな暮らしをしていると思っているので、本当の幸せが何である実感できていない。そのような目の前に感じる幸せにおぼれ、その幸せが壊れることを恐れながら日々を送るということは、すなわちそのことを拠りどころとしているということであって、自分自身を拠りどころにしていることではないと思う。
ブッダは、自分を洲(しま)とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどことはせず、修養しなさい、と教えておられる。

2010年1月24日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(2)(20100124)

 今日もお天気がよい。男は女房と二人で川辺の道を一周した。歩数は約8000歩であった。もう春である。草むらに小さな青紫の花をつけた「いぬのふぐり」が点々とあり、名前は知らぬが小さな黄色い花が一つひっそりと咲いている。男はふと若い頃読んだ聖書の言葉を思い出した。古い聖書は文語体で書かれているが、新しい聖書は口語体である。『マタイオスによる福音』に「あなたたちのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるだろうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働くことも紡ぐこともしない。」という一節がある。

 男は高校生の頃、近くのキリスト教会に通っていた。哲学に興味をもっていてよく判りもしないのにいろいろな本を読み漁っていた。その後教会には通わなくなった。40代、50代になって仏教に興味を持つようになり、いろいろな単行本を買って読んだ。そのうち昨日書いたように、中村元先生の講義をちょっと聞いたことがきっかで、仏教関係の専門書を何冊か買い求めた。それらはたまに気が向いたときに取り出して読む程度で、永い間書棚で眠っていることが多かった。人は老齢になると霊的になると何かのものの本で読んだことがあったが、確かに男は今仏教を本気で学んでみようと思っている。そのうち得度して坊さんにならないまでも、在家の坊さんになると言いだすかもしれないが・・・。

 さて、今日は都内のある区のセンターで詩吟のサークルで詩吟を教える日である。今月の吟題の吟詠が気に入らず何度も詠いなおしてブログ「吟詠」にアップロードしたが、来月の吟題の吟詠に取りかからなければならないため一応改善は打ち切り、今日、来月の吟題である夢窓疎石の『修学』をアップロードした。アップロードして聴いてみたが、あまり気にいらない。そのうちまた録音しなおして、結果が良ければ入れ替えるつもりである。

 昨日に引き続いてブッダの『真理のことば』について書くことにする。

3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにことがない。
4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

男はいつも思うことがある。キリスト教やイスラム教の信者は、信者同士で争い、殺し合う。ところが仏教の国では宗教に関わる争いや殺し合いはほとんど聞かない。何故だろうか?それは仏教は、人間としてどう生きるべきであるか、という「人間の学」であるからである。キリスト教やイスラム教は言うなれば一つの神、天地創造の神を中心に据え、その神の代行者としてイエス・キリストやマホメットがいる構造である。しかし仏教は‘教’という文字が付くけれども人間の正しい生き方を理論的に体系的に説明した‘学’である。
男はその‘学’をももっと深く勉強したいと思っている。

2010年1月23日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(1)(20100123)

 今日の国会討論で自民党小池議員とみんなの党渡辺議員はそれぞれよく勉強し、男が言ってもらいたいと思っていたことを言ってくれた。テレビで論戦を見ていた人たちも二人の発言に拍手を送っていたことだろうと思う。

 お天気が良いので男は独りで街中を5000歩ほど歩いてみた。街中を歩いているといろいろなことが見えてくる。丘の上の墓地で墓地造りか何かの工事をしている人たちが見える。前を一人の若い母親が自転車の前に小さい子供を乗せてゆっくり漕ぎ、その隣をその母親の友達らしい若い女性が車いすにのって手で車輪を回しながら行き語り合っている。人々の営みは1000年前も今も本質的には変わらない。今を生き、時を過ごし、老いて行く。

 釈尊は誰にも頼ることなく自分自身を頼りに生き、生きながら心の安寧が得られるようにいつも修行に励むようにと教えられた。2500年前実在した釈尊の教えを学びながら、自らの精神を高めるように修養することが幸せな人生を送る要諦であると男は確信している。

 そこで、これからは先ず釈尊の言葉を集めた本を読みながら、いろいろ考えてゆきたいと思う。その本は岩波文庫の『真理のことば感興のことば』で、中村元というお方がパーリ語で書かれた仏典を翻訳されたものである。男は放送大学の講座で中村元の講義を聞いたことがある。この本を買ったのもその講座で中村元というお方を知ったからである。

 男は若い頃『法句経』という単行本を持っていた。その本はあまり良く読んでいなかった。法句経は「真理のことば」の漢訳である。中村先生はわが国で初めてパーリ語の原典から直接翻訳されたという。このブログでできるだけ毎日、「真理のことば」を取り上げて行こうと思う。今を生きる我々はそのような先生方の努力の賜物の恩恵を受けている。

 千数百年前大変苦労しながら遣唐使船で中国に渡り、沢山の仏典を持ち帰り、学生たちに教えた空海や最澄らの時代のことを想うと、今を生きる我々はなんと幸せなことだろうか。キリスト教の教えにあるように「門をたたけ、さらば与えられん。」である。こちらから進んで仏教の門をたたかなければ、何も与えられないのだ。仏教の門をたたかない現代人は何と不幸なことか!

1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話合ったり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。

男が作る陶芸作品でも、このブログでも、確かに男の心にもとづき、男の心を主とし、男の心によって創りだされている。何度創っても真に満足できるものは一つも出来ないが・・。

2010年1月22日金曜日

YouTube「もしも外国人参政権が成立したら」(20100122)

インターネット上でツイッターという一言で自分のメッセージを出すシステムがあるということをテレビで紹介していた。著名人もこのメンバーになっている人が何人かいるようである。要するに自分の日々の暮らしのことで何か一言言いたいとき、ブツブツ言わせ、そのぼやきを他人が見るという仕組みである。ブログでは毎日書き続けるのは文章やキーボード操作に慣れていないと大変であるが、ツイッターなら12行の短文を書き、勝手にささやくだけなので誰でも簡単にできるので爆発的に広がっているようである。
男は試みにTwitterでどんなつぶやきが出ているか調べてみた。Twitter社が運営するコミュニティサイトhttp://twitter.com/にアクセスし、そのページが開かれたら検索欄に検索したい言葉を入れて検索するだけで、あるテーマに関する不特定多数の人たちのつぶやきが沢山出て来る。男は「小沢氏」と3文字を入力して、皆のつぶやきを読んでみた。続いて「鳩山氏」と入れて同じように読んでみた。「自民党」と入れて同じように読んでみた。そこには不特定多数の人々のつぶやきが聞こえて来る。
男はTwitterがある特定のテーマについて人々が何を考えているか、感じているか、思っているかをおおまかに知る手段であると思った。勿論世論は科学的な調査によらなければ、その動向を知ることはできない。しかし、井戸端会議のようないろんなざわめきは聞こえてくる。黙って聞いていれば大変面白い。
男はYouTubeもたまに覗くことがある。これはGoogleの子会社でYouTube, LLCという会社が運営していてhttp://www.youtube.com/にアクセスすればそのページが開かれ、Twitterと同様、簡単な検索の言葉を入れて検索すれば動画が出て来る。男は「ただ今再生中」のトップに出て来る村田春樹シュミレーション「もしも外国人参政権が成立したら」を再生して見た。これは男も知らなかった情報である。民主党も公明党も外国人の票が欲しいから地方議会の選挙権を永住外国人に与えようとしているらしい。
平成3年にいわゆる在日と言われる人たちに特別永住権を与える法律が成立したが、この特別永住者は平成20年に42万人いた。昭和34年に676千人いたが日本に帰化したりして今その数になっているとのこと。一方一般永住者は平成13年に184千人いてその中中国人が58千人だったのが、平成20年には492千人になり、その中中国人が142千人いるそうである。この増加傾向は益々増大しているとのこと。
中国の人民日報で日本が永住外国人に地方議会の選挙権を与えようとする動きを歓迎し、「華人参政」と大見出しで論評し、日本がアメリカやヨーロッパやマレーシア並みになると歓迎したとのこと。ところがアメリカのヨーロッパもマレーシアも外国人への参政権はその国に帰化した人に限られ、アメリカでは帰化の条件が非常に厳しい。
沖の島、対馬、東京の荒川区、豊島区、新宿区などでは永住外国人が投票権を得たならば、当選票数に大きな影響を与えることが票差で具体的に示されている。投票権は教育委員の解職権、町・字名の変更請求権などとセットにせざるを得ず公明党の外国人参政権付与に関する方針案にも示されているとのこと。ちなみに沖の島には永住外国人が34人いるそうである。朝鮮総連は「選挙権が得られたら次は被選挙権を獲得する」と言っているらしい。
男はこの日本の形が壊れて行くのではないか不安になってきた。このYouTubeの「もしも外国人参政権が成立したら」を出来るだけ多くの人たちに見てもらうようにしたいと思う。

2010年1月21日木曜日

結果はどうであれ信じている間は幸せ(20100121)

民主党の国会議員たちは小沢氏の潔白を信じながら東京地検特捜部による捜査の行く末を見守るしかない。しかし信じている間は幸せである。恋人同士でも夫婦の間でも相手を信じている間は幸せである。宗教も神や仏を信じている間は幸せである。その信頼がくずれたとき、人は一挙にそれまでの幸せな気分から落とされ、幸せ感を失ってしまう。それが怖いから、このままだと幸せが崩れそうな状況になったとき人は必死で現状を守ろうとする。今の民主党の状況はそのように見える。さすがに鳩山首相は捜査に対抗するチームの結成の動きなどを牽制する発言をした。一部の民主党員が実際にどういう動きをするかということは別にして・・・。
仏教の教えに従えば、民主党が一枚岩のように結束しようとし、一時的に結束したとしても所詮‘無常’なのだ。それよりは個々の議員が誰か有力者を頼るのではなく、自分自身の政治家としての信念を拠り所として、また一切の私利私欲から離れ、今の今を天地神明に誓って真に正しいと信じている道を歩むようにすべきである。それこそが彼らに一票を投じた国民の負託に応えることである。小沢チルドレンと呼ばれる女性議員たちの中には黄色い声を張り上げ、感情に走っているかのように見える人たちがいる。折角2大政党時代に入ったばかりなので、彼女らには慎重に行動してもらいたいと思う。興石氏が民主党内の結束を強めようと「民主党を励ますメールが増えた」などと言って民主党議員たちを激励しているが、彼は民主党のため沈黙していた方が良いと男は思う。
男は、日本人は個々の人が突出するよりも全体の中で調和することを志向する気質があると思う。民主党の議員たちは、今は一致団結して「難局を乗り切らねばならぬ」と敢えて口を閉ざしている人たちが多いのであろうが、前原氏などは言うべきことをきちんと言っている。それは彼がスマートに職務をこなす能力があるから言うべきことも言えるのだと男は思う。宮本武蔵のように「我が事において後悔せず」と言うほどの力がない者は、とかく「長いものに巻かれろ」と横睨みしながら行動しようとする。その行動は外部からの何んらかの刺激で突然変わることがある。「無常」である。
日本人の集団の場合、その中心で指導する人またはチームが徳の高い人またはチームでなければ集団として誤った方向に暴走しかねない。旧帝国海軍や陸軍のエリートたちは「やましき沈黙」をしたが故に、太平洋戦争の負け戦を突っ走って何百万という軍人・軍属を死に追いやってしまった。しかも彼らの多くはのうのうと生きながらえた。自らは一般庶民よりは程度が高いと自負している国会議員であるならば、日本人のそうした特質や「自らを洲とし、法を洲とし、自らを拠り所とし、他を拠り所としない。」という釈尊の教えぐらいは知っていて、敢然と信念を貫き通してもらわねば困る。
男は今日岩波文庫『ブッダ最後の旅』と『ブッダの真理のことば感興のことば』(何れも中村元訳)を粗方読んだ。また仏は、仏を信じる人を決して裏切らない。釈尊は人に過去世が有るとか無いとか、来世が有るとか無いとか、過去世や来世の存在について論ずることは禁じておられるが、生死を超えた涅槃静寂の境地に立つ修業を勧めておられる。釈尊ご自身は遠い過去世から遠い未来世まで見透しておられる。上述「ブッダの真理のことば」は、漢訳で『法句経』というものであるが、その中に「160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?(後略)」という句がある。