2010年1月11日月曜日

来客(20100111)

 今日もよき天気、まるで春のようである。男が「もう春だ」と言ったら女房が「あなた、まだこれから寒くなるのですよ。大寒はもうすぐだけど」と言う。暦をみると120日が大寒である。寒中見舞いはそれまでに出さなければ意味がない。男は先日考えた今年から年賀状は失礼するための寒中見舞いを早くしなければならないと思った。(関連記事:「良い日和(20100108)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2010/01/20100108-22-2010-29-8-cool-japan-50-30.html

 今日は我が家に久しぶり来客があり、女房は朝から張りきって客を迎える準備をしている。その一つは天麩羅の食材の準備であり、もう一つはマグロの茶漬けの仕込みである。天麩羅は皆で電気式天麩羅なべを囲んで各個に串と食材をとり、食材を串に刺して天麩羅なべで揚げながら食べるものである。揚げた天麩羅はおつゆにおろし大根を加えたものやお茶で使う抹茶と天塩などで食べる。食材には季節もののタラの芽も加え、ホタテ、えび、かぼちゃ、いんげんまめなど山海の珍味を揃える。マグロの茶漬けは新鮮なマグロのの刺身を醤油にごまや刻みネギや日本酒などを加えたものの中に漬しておいて味が染みたもの熱いご飯の上にかけてそのまま、またはお茶漬けにして食べるものである。女房は皆が満腹する以上のものを準備しているので、皆遠慮なく沢山食べた。

 お茶漬けと言えば男には忘れられない思い出がある。男が10歳のとき男の母は乳がんで入院していた。戦後の食糧難の時代、入院中の母が男と男の弟のため白米のご飯を炊き、どこからかマグロの刺身を仕入れてきてお茶漬けを作り食べさせてくれた。当時母は病院の個室に入っていたように思う。お茶漬けはその部屋で食べさせてくれた。米は祖母が秘かに届けてくれたものらしい。男はその時母もお茶漬けを食べたかどうか覚えていない。そのとき母は自分の病気がもう治る見込みがないと思っていたらしい。だから遠路わざわざ訪ねて来た幼い兄弟に母親として精一杯の愛を示したのだと思う。男は女房がお茶漬けを作るたびにその思い出を女房に話してしまう。今日は来客があったので話題はそちらの方に向いていた。だからその思い出の話はしなかったが・・。

 客人とは男の長男一家である。働き盛りの長男は海外出張が多く、昨年は37回も出張したという。その長男から男と女房はお年玉を貰った。昔男と女房は子供たちにお年玉を上げていた。今、逆に子供たちからお年玉を貰っている。嬉しいことである。男と女房はその子供の子供(孫娘)がこの春修学旅行でフランスとイギリスに行くというので、その孫娘に餞別を上げた。家族内で経済が回っている。わが家族内の経済はプラス成長である。

 その孫娘はイギリスでそのまま2週間ホームステイすることになっている。そこで男はその孫娘に「東京もパリもロンドンも現代の都会の雰囲気はあまり違いがないだろう。しかしフランスに行ったらフランス人の生活や文化、イギリスに行ったらイギリス人の生活や文化が日本とどう違うかという点に着目して観察するように」と言った。女房は「いろいろ見て来たことをおばあちゃんに話して聞かせてね」と言った。同じ旅行でも何かテーマを持って旅行する方が得るものも多いであろう。

 孫娘は日本が開発して作った超大型もぐら穴掘り機を使って完成したドーバー海峡のトンネル内を走る列車に乗ってフランスからイギリスに渡るらしい。日本はイギリスと違って山地が多く平野部は少ない。そのため地下の利用は世界に例を見ないほど発達している。地下ターミナル駅は複数の路線と連結している。日本は世界に冠たるシステム大国である。

2010年1月10日日曜日

反捕鯨団体シーシェパード(20100110)

 南極海で我が国の捕鯨船団がオーストラリアやニュージーランドやオランダなどの政府から表向きは「暴力行為を非難する」としながらも暗に支援されている反捕鯨団体シーシェパードの活動船と放水などの手段で対抗している。今度は彼らが誇る最新鋭の活動船が我が国の捕鯨船第2照南丸の進路を勝手に妨害し、第2照南丸に衝突して大破し、乗組員1名が怪我をした。彼らは自分たちの不法行為を棚に上げオランダの司法当局に第2照南丸の船長と船員を告訴した。男は言語道断であると怒る。

 そもそも動物の肉を食べることについて、何故牛や豚なら良くて鯨はいけないのか?彼らの論理には矛盾がある。鯨は人間に近いほど知能が発達していて牛や豚はそれほどでもないと言うのか?鯨を殺すよりは牛や豚を殺すことのほうがもっと残酷ではないのか?ただ食文化の違いだけで鯨の肉を食べる国の国際法に従った行為を非難するのは矛盾がある。

 もっとも男も捕鯨には反対である。大海原を鯨の親子の一団が泳いでいる姿はほほえましく、それを観る人の心を癒す。彼らは何千キロも旅をする。人は彼らに教えられることが多い。牛や豚は食料として牧場で飼育し、機械仕掛けで屠殺し、肉片となってあちこちで売られているが、鯨はそのようにポピュラーではない。男も女房も鯨の肉は食べない。牛や豚の肉は、心の中では彼らに可哀そうだがこれを食べなければ生きて行くために十分な栄養を摂取できない、「牛さん、豚さん、ありがとう!」と思いながらも「美味しい!」と感じて食べる。男も男の女房も鯨を出されてもちっとも美味しいとは思わない。

 しかし、一方で日本人は昔から鯨を捕り、食べ、骨も皮も歯も何もかも捨てるところは無くすべてを加工し、利用してきた。その文化は根強く残っている。鯨の捕獲数を限定した調査捕鯨で持ち帰った鯨の肉などは一部の限られた人たちに喜ばれている。多くの日本人は反捕鯨国の人々のように感情的にはならず、逆に彼らに強い反発を覚える。彼らが自国の軍隊の出動まで希望し、日本の捕鯨船団を閉めだそうとすることに強い怒りを覚える。

 最新の科学でこの地球上の人類は皆共通の祖先を持っていることが判って来ている。人類は皆兄弟姉妹なのだ。世界の国々で同じようなことを言った人はいるかどうか男はまだ調べていないが、明治天皇は「四方の国 皆同胞と思う世に なぞ波風の立ち騒ぐらむ」と詠われた。「同胞」とは「同じ母親の子供」という意味である。大阪箕面市の生まれで平成7年(1998年)に死去した政治運動家・実業家・社会奉仕活動貢献者・笹川良一氏は「世界は一家 皆我が友」と財団法人吟剣詩舞道振興会の会詩の中で言っている。

 余談であるがヨーロッパ連合の生みの親であるリヒアルト・クーデンホウフ・カレルギーの母親は日本人・光子(骨董商青山喜八の娘)である。「世界は一家」の思想は日本人が無意識に持っているものかもしれない。我々日本人自身が意識していないことであるが、多くの欧米人が日本の文化に惹かれている。自然と一体となった幽玄の美の世界、閑寂な風趣である‘侘(わび)’やこれが洗練されて純芸術化された‘寂(さび)’の世界、日本刀や小寺の屋根の傾斜の微妙な曲線に見られる美の極致の世界は、日本独自のものである。

 文化の違い、習慣の違いが誤解を生む。男は日本政府はシーシェパードの連中を無償で日本に招待し、23ヶ月間の滞在費も観光費も負担して日本の文化や習慣に触れさせたら良いと思う。そのコストは安いものだ。感情的になって捕鯨船団の警護能力を高めるための装備などを強化するよりも結果的にプラスとなって戻ってくるだろう。

2010年1月9日土曜日

「至善」に生きる(20100109)

街を歩いていると「○○経営事務所」とか「△△経営研究所」とかの看板を掲げている家を見かけることがある。男はこの人たちは何の経営について事務を行ったり、研究したりしているのだろかと疑問に思う。おそらく株の取引をしたり、一定の金を払って手に入れた名簿をもとに株や金などの取引について話を持ちかけたりしているのだろう。ある日、その看板を掲げている家から70近くの一人の男が出て来た。見ると青白い顔をしている。家の中にばかり閉じこもってばかりいて陽にやけていないためだろうと思う。
男もこのところ田舎に帰っていて外歩きをしていなかった。田舎に帰る前ごろから鼻風邪に罹っていて、多少健康を害していた。その中女房も風邪を引いた。大晦日に男は「小青龍湯」という漢方薬を飲んで鼻水を抑えていた。元日には雪が降り、日中気温は零下6度にも下がっていた。あまり太陽に当たらずにいた。鏡をみると青白い顔に見える。女房も元気がない。体温は微熱であるからインフルエンザではない。
太陽に当たり、晴耕雨読の日々をおくるならば健康的であるだろうが、老老介護のように70前後の夫婦が90代の婆さんの世話をするため盆・正月に田舎に帰るのは健康的ではない。女房は昨年の盆に帰省以後体調が芳しくない。男もアップロードした自分の吟声を聞いてみると昨年の盆ごろからの声には、気のせいか張りがないように感じる。
これではいかんと、今日もお天気が良いので体調回復の自主トレを始めた。昨日も家の近くの川の土手を一周したが今日も同じことをした。今日はさらに川べりの葦の茂みの中を分け入り、後ろの道をウオーキングする人から見えないように奥の川面の傍に出て、そこで発声練習をし、西行の『至善』などの吟詠をしてみた。
初めの頃は高音域になると声量が低下し声音が響かない。しかし徐々に良くなった。何日も大きな声を出さずにいると発声に必要ないろいろな筋肉が衰えてくることはこれまで経験的に判っていた。しかし、この2週間以上、田舎に帰っていたこともあり声を出すことを憚っていた。しかし今日は川に向かって大きな声を出した。葦の茂みに遮られている道を歩く人達には男の声は良く聞こえている筈であるが、男の姿は見えない。誰が声を出しているのかとわざわざ覗きに来る人も居なかった。川の向こう岸ではアオサギが1羽じっと川の面を見つめている。野良猫が1匹、そばで小魚でも捕ろうとしているのか体を低くして川面を睨んでいる。それを見つめながら男は吟声を出して詠った。
新聞には小沢氏が4億円の出所について検察から事情を聴取されることになりそうであると書かれている。前にもこのブログに書いたが検察がきちんと公正に調べれば、小沢氏は失脚することになるだろう。(関連記事:「鳩山首相の緊急記者会見(20091226)」)
男は政局に関心を持ちながらも加齢とともに日々余計な時間を費やしたくない。ひたすら自らを拠り所として仏の教えを学んでゆきたいと思う。そう思って書棚から筑摩書房刊、中村元編『原始仏典』など仏教関係の蔵書を毎日少しずつ読んでゆこうと思う。釈尊は「自らを洲(しま)とし、自らを拠り所として、他を拠り所とせず、法を拠り所として、他のものを拠り所としない」(『大パリニッパーナ経』二・二六)(NHK市民大学『釈迦とその弟子』1988年より)という。今年からは、男は西行の『至善』のように「一日を一生として」生きることの素晴らしさをじっくり味わってゆきたいと思う。(関連記事:「詠って元気になる「至善」(20091225)」)

2010年1月8日金曜日

良い日和(20100108)

 今日、平成22年(西暦2010年)木曜日はお天気がよく温暖な日和である。昨年暮れ29日から昨日まで男はこのブログで二つの小説(まがいのもの)を発表した。何れも中身の8割以上がフィクションである。フィクションであっても男の家族とか友人達とか、男を知る者たちには、登場人物の誰某が誰某であると大方想像はつく。タイトルに‘恋’の文字があるので男は初め女房には中身をよく話していなかったが、ある友人から「奥さんに話したか?」と詰問されたこともあり、その二つの小説(まがいのもの)をプリントアウトしたものを見せた。女房の感想はまだ聞いていない。

 テレビ番組で「Cool Japan」というものがある。在日外国人が「夫婦」という題で街ゆく老若二人づれにインタヴューしていた。「来世にまた一緒になりたいか?」という質問にある男性は「50%以下」その連れ合いは「30%」と答えていた。男はどうかというと、100%また今の女房と一緒になりたい、と答えるだろう。

 しかし男は女房に対しても罪があり、一方女房の方は男に対して全く罪がない。男は小さい時から動物に対しても幾つかの罪があるが女房には全くない。男には大きなやさしさはあるかもしれないが、女房のようにやさしくなく、こまやかな気働きも心遣いもできない。花が大好きだということもない。女房があの世に行くときにはそれこそピンク色や白や黄色の美しい花々と金色の光と妙なる音楽に導かれ、あの世では至福の暮らしをするであろうが、男は多分今よりは少し増しなだけの人間界に生まれる程度である。男が幾らあの世でまた今の女房と一緒になりたいと願っていても、そのようにはならないだろうと思う。

 今年男は年賀状を出す相手先を絞り込んだ。毎年沢山年賀状を出していて、沢山年賀状を貰っていたが、今年は100枚以下に絞った。男から年賀状が来なかった人たちは「なにかあったかな」と思うかもしれない。そこで男は寒中見舞いで「古の頃は時間がゆっくり流れていた。現代では時の経つのが早い。関わる事も繁多でその分自らを省みる時間も少なくなっている。そういう日々を送りながら年末近くともなれば毎年そのお方のお顔を思い浮かべつつ年賀状を書き、年が改まれば年賀状を下さった方のことを思い浮かべつつ年賀状を読む。それは楽しいことである。

 しかし今後は在家のまま仏の教えを学ぶ時間をより多く確保したいと思う。そこで今年から年賀状を頂くことを嬉しく思う気持ちは変わらずとも、甚だ身勝手ながら自分からは年賀状を出すことは失礼させて頂こうと思う。此の事をお赦し頂きたい。下記URLのとおり随筆、吟詠、詩吟、陶芸のブログが可能な限り続ける所存。」という趣旨のことを書いて送ろうと思う。

 男がもしこの年で社会的諸関係が非常に深かければ、そんな勝手なことはできない。社会的諸関係の深い人たちは‘私’よりも‘公’の部分が多い。誰にも同じ24時間でも、その人たちは‘公’のためその24時間の多くを割かなければならない。そのような人たちは‘公’のため貢献した度合によって、国家から顕彰されなければならない。

 男は今生の名誉や地位や金に無縁でありたいと思う。吾只足るを知る生き方をしたい、煩悩から解き放たれたいと思う。その思いは女房との幸せな日々のお陰でかなえられている。もし、男にそのような幸せが無ければ、遁世を好む気持ちには到底なれないだろう。さもなくば、必死の思いで仏の慈悲にすがろうとするだろう。上記のことは甚だ贅沢な願いである。しかしそれが出来る幸せがある。仏縁に感謝しなければならぬ。

2010年1月7日木曜日

小説『18のときの恋』(20100107)

 
  昭和2112月の暮れ、いよいよ死期を知ったともゑは信夫にいつものように「起こしておくれ。」と言った。その時は「背中をさすっておくれ。」とは言わず今度は「東を向けておくれ。」と言った。信夫はやせ細ったともゑが何故そう言ったのか理解できぬままともゑの言うとおりにしてやった。すると「お仏壇からお線香を持ってきておくれ。」という。ともゑの言うとおりにしてやるとともゑは「お父さんを呼んできておくれ。」と言って東に向いて両手を合わせた。

  信夫の父親は家の裏の山に、当時おくどや風呂の焚きつけ時の燃料にするための落ち松葉を掻き集めるため行っていた。信夫が父親を探して戻ってきたとき既にともゑはこと切れていた。死床の周りに祖父母や近所の人たちが集まっていた。父親は自分が無力で苦しむ妻に何もしてやれなかった悔しさに耐えかねて、ともゑの傍であたりかまわず号泣した。人生には自分の能力と努力でなんとかできることと、それだけではどうにもならないこととがある。天命に従い、事にあたり己の最善を尽くし、わが事において後悔しない精神を常に持ち続けることが人のあるべき生き方であり、死に方である。

  そのような精神を身につけている千代のお陰で信夫は念願の東京建築大学に入学することができた。同級生たちは皆年下であったが信夫は一心に勉学に励みその大学を首席で卒業し、1級建築士の国家資格も取得することができた。その努力が実を結び信夫は都内にある世界的に有名な飛鳥建築設計事務所に就職することができた。

  信夫はその会社で良い上司に恵まれた。信夫の上司は信夫より年下であったが以前から信夫のことをよく知っているかのようであった。否、その上司ばかりではなく社長以下全員が信夫の家族のようであった。信夫はその会社で15年間修業を積み、その会社の関連会社として新しい会社を興し、グループ企業の一翼を担うようになった。

  チームワークという言葉がある。真のチームワークは個々のチームメンバーがそれぞれの役割を果たすネットワークである。社長もチームのメンバーの一人であり、社長という役割を担っているにすぎない。社長が社員よりエライわけではない。チームワークはタテの関係のワークではなく、ヨコの関係のワークでもなく、ネットワークである。その要要にリーダー、サブリーダーなどの役割を担うメンバーがいるワークである。そのようにして全体の和が重んぜられるワークである。そのワークは古来日本人が自然に身につけて来たワークである。例えば人々が飢饉で苦しんでいる時、領主も共に苦しみ、困難を乗り切るため領主も領民も一丸となって頑張る。そのような文化を古来から日本人は大切にしてきたのである。その根底には‘お陰さま’がある。近年その日本でそのような文化が廃れてきた感がある。

  信夫の今の幸せは一重に千代のお陰で得られているものであると信夫は思っている。信夫と千代の三人の子供たちもそれぞれ幸せなよい人生を送っている。すべて‘お陰さま’のお陰である。信夫がもし千賀子と結婚していたと仮定した場合、今の幸せが得られたかどうかは判らない。しかし信夫が18の時の千賀子との間も友達以上恋人以下の関係も‘お陰さま’のお陰である。仏さまの方便である。千賀子も信夫から忘れられたというショックを乗り越えて幸せな結婚をし、よい家庭を築いた。人生で起きるすべての物事には、仏様から見れば意味のないことは何一つないのである。(終)

(関連記事:「お陰さまで(20091227)」、「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)」)

2010年1月6日水曜日

小説『18のときの恋』(20100106)

 
  ある日千代は「信夫さん、貴方がいつも言っているように人生は投資だと思います。貴方にはこれまで内緒にしてきましたが、私は貴方が貴方の人生に投資するためのお金を十分準備できています。一緒に上京して大学に通いませんか?」と突然言った。信夫はその時信夫が10歳のとき33歳で死んだ母親・ともゑのことについて、当時40前であった父親が信夫に語った言葉を思い出した。

  その頃信夫の父親は自分の甲斐性なさのため、苦労を共にしてきた妻をむざむざ死に追いやってしまったと悔いていた。信夫に「死のうと思ったがお前たちのことが可哀そうで死ねなかった。」と話したことがあった。そのとき「お前たちのお母さんはとてもしっかりしていたぞ。お母さんは先の先のことまでよく考えていた。お母さんは何をするにも順番を良く考えて行っていた。決して無駄が無かった。」というようなことを信夫に話していた。

  千代はとてもしっかりしている女性である。人の性格は子供の時に既に形成されている。千代が小学校5年のときに学級の生徒全員が写っている写真がある。千代は前列の中央にいる。信夫はパソコンでその全体写真の中から千代だけを切り取って拡大し印刷したものを作ってみた。11歳のときの千代の顔つきにはすでに何かの覚悟ができているようである。信夫はその写真を見て、千代は信夫に尽くすためこの世に送り込まれたのだと思った。

  千代は信夫に尽くすという役割を自覚しているわけではないが、結果的にそのような形になっている。千代は信夫のキャリアアップのため必要な資金を信夫には気付かれないようにして計画的に準備してきたのである。信夫は母親がもし生きていたら同じようなことをしたであろうとふと思った。

  信夫の母親・ともゑの胸には朝鮮から引き揚げた20年夏、既にがんのしこりができていた。その年の10月父親が引き揚げてきたが、何も彼も失って引き揚げてきた父親には直ぐには為す術もなかった。いろいろ金の工面をし、つてを頼って翌年早々ともゑを別府の病院に入院させた。ともゑはその病院でがんに侵された左右両方の乳房を間をおいて順番に切除する手術を受けたが既に手遅れであった。

  信夫は別府のその病院で母親のがんの塊を見たことがある。その頃の病院は荒っぽかったのかもしれないが、病院の中庭の池に飼われていた亀にそのがんの白い塊を餌として与えていたのを見た。信夫は父親に連れられて病院長の家に行く途中の廊下の窓からその塊を見た。病院長の家には祖母からことづけけられた大根やカボチャなどを入院代替わりに贈るため行ったのであった。

  今のように抗がん剤が揃っているわけでもなく、乳がんの治療法は限られたものであった。ともゑは結局それ以上の手の打ちようもなく病院から見放された。そして信夫の父親の家に身を寄せ死の床に臥していた。母親の背中にはがんが転移し沢山の小さながんのこぶができていた。「信夫、起こして、また背中をさすっておくれ。」と言うたびに10歳の信夫は母親を寝床から起こして上げ、背中をさすってやっていた。今思えば全身に転移したがんはともゑに相当な苦痛を与えていた筈である。しかしともゑは信夫にその苦痛の顔を少しも見せることはなかった。誇り高い士族の孫娘として息子に身をもって生き方と死に方を教えようとしたのであった。しかしその時の信夫は自分の母親が既に死の床にあることを知らなかったし、母親の信夫に対する思いも理解していなかった。(続く)

2010年1月5日火曜日

小説『18のときの恋』(20100105)


  しかし当の信夫の方は千賀子がそれほどまで信夫のことを想っていたとは知らずじまいであった。50歳のときの同級会で千賀子は「あなたがどんな女性と結婚したのか知りたくて、市役所に行き貴方と奥さんのことを調べたのよ。」と淡々として話した。級友たちは千賀子の話を黙って聞いていた。信夫は千賀子に悪いことをしてしまったな、と自分の無知を悔やんだ。しかし千賀子が信夫を別に怨んでいる様子も見せなかったし、東京でスタイリストをしている娘の写真も皆に見せながら長い齢月の間にいろいろあったことなどを語ってくれたので、信夫は救われた気持ちになることができた。

  信夫に結婚話が持ち上がったのは、信夫が下士官になって艦隊勤務から離れ江田島にある海上自衛隊の術科学校で教官をしていたときのことである。そのまま順調に行けば部内出身の士官候補生になる道もあった。しかし信夫は自分の人生の目標をはっきり決めていた。それは建築家になることであった。信夫は上司の熱心な勧めを有り難く思いながらも士官候補生になるための勉強はせず、玉川大学の通信教育を受け数学の勉強をしていた。建築設計技術者として生きてゆくためには数学の素養は必要であると考え玉川大学の通信教育を受けたのである。建築設計技術者になり将来は独立して事務所を持ちたいという信夫の希望は、信夫の父親を通じて千代の父親にも伝わっていた。

  信夫と結婚した千代は医師の資格を生かして江田島の海上自衛隊病院の非常勤医師を務めながら信夫の自尊心を傷つけずに信夫の長年の夢を実現させるため心配り、気働きを忘れることはなかった。医師でもあるのでその知識を活かして自分自身のことは元より信夫の健康維持にも気を配った。信夫は千代のそのようなやさしさを嬉しく思い、いつも心の中で「ありがとう」と手を合わせていた。

  千代は信夫の勉学のためにと秘かに貯金をしていた。千代は信夫と結婚する時父親から「千代、これは父さんがお前のために毎月少しずつ貯金してきたものだ。将来きっと役立つときがある。そのときまで大事に持っておくように。」と1冊の郵便貯金通帳を渡されていた。そのお金と合わせると信夫が4、5年間は働かなくても暮らして行けるだけの十分な金額になっていた。千代はそのお金を使うべき時がきたと思った。

  二人の間に二人の男の子が授かり、平和で暖かな家庭生活が続いていた。家庭の暖かさは千代の人柄が作りだすものである。千代には生来のおおらかさと明るさとやさしさがある。家事は人一倍良くこなす。花が大好きで家の内外は花や観葉植物で一杯である。

  信夫は千代に口癖のように「男の子は体が丈夫で意志が強ければ生きて行くことができる。子供を立派に育て上げ、社会に送り出すことが人生の大事な事業である。経験は学習の一つである。」とよく口にし、実際そのとおりに実行していた。二人の息子たちを子供時代よく山野海岸に連れて行き、少年時代にはスポーツ少年団に入団させ、高校・大学時代にはそれぞれ1年間の海外留学もさせた。

  千代は子供たちへのしつけは厳しいが本当にやさしい母親である。赤子におっぱいを含ませるとき、赤子の顔を見つめながら語りかけ、すこし大きくなれば膝の上に載せて両手を引いたり押したたりしながら語りかけ、成長した後も食卓での母子の会話は絶えなかった。子供たちは学校でのできごと、会社でのできごとなど何でも千代に話した。信夫はそばで母子の会話に相槌を打ちながら耳を傾けていることが多かった。(続く)

2010年1月4日月曜日

小説『18のときの恋』(20100104)


  写っている女性は信夫が10歳の時に他界した信夫の母親に良く似ていた。信夫の母親は終戦の翌年、昭和21年の暮れ、乳がんで逝った。信夫の父親は乳がんを患った自分の女房をよく看てやることもできず死なせてしまったことを終生悔やみ続けていた。信夫の父親は大野郡の田舎で間借り生活するという極貧の暮らしを陰に日向に支えてくれた信夫の今の母と再婚したが、後妻に内緒で死んだ前妻の墓石の欠片を秘かに所持していた。そのことがその父親の死後明らかになった。母は「隠さなくっても良かったのに。」と嘆いていた。

  信夫は父親が「お前はこのひと(女性)と一緒になれ。」と半ば命じるように言った。信夫自身かつて「結婚しよう」とまでいった同級の女性がいたことを父親には話していなかった。それに千賀子との付き合いはお互い手も握ったこともなく、今でいう「友達以上、恋人以下」の純愛を貫いていた、というよりは信夫は男女の関係については晩熟であった。

  信夫の父親はそういう息子に自分の死んだ女房、信夫の生母に良く似た女性を信夫に勧めたのである。信夫の生母は幕末の熊本藩士で船舶・港湾の行政を担うお船奉行の孫娘であった。豊臣秀吉の政策で今の大分県である豊後国は幾つかの藩に分割され、参勤交代の時の出入りの港があった鶴崎地方は熊本藩の所轄であった。信夫の父親が大野郡で教師をしていた頃、視学(今の県教育長)が信夫の父親を見込んでその熊本藩士の孫娘を妻合わせたのである。当時信夫の母親は父母とも死別し幼い妹を養いながら国東で教師をしていた。 

  信夫の父親が「お前はこの女性と一緒になれ。」と言った女性は信夫の父親の親友で教師をしていた人の娘であった。その親友は信夫の父親に「お前の息子なら俺の娘の千代を嫁にやってもよいぞ。千代は医者の免許も取ったので何かの役に立つだろう。」と言ったという。

  人物の判断は表面的なものだけで判断するよりも、表には見えないものを直感で判断する方が万事うまくゆくことがある。その直感の奥底にあるものは人智を超えた、ある意味では過去世、今生、来世を通じた永遠的な絶対的なものに委ねられているものである。そのような直感は生まれつき持っていた素質と生後親や周囲の人たちによる教育と本人の真摯な努力により身につくものである。千代の父親は信夫の父親から信夫のことをよく聞かされていたが、ある日信夫に初めて会って二言三言言葉を交わしただけで信夫の人物を見抜き、自分の親友がその父親にしてその子あり、と納得したのである。

  信夫の父親と同じ明治生まれのその人は「この男に自分の娘を合わすことは天命である。娘がこの男に尽くし、男子を産み、良く育てて世に送り出すことが娘の人生の役目である。」と直感したのである。歴史上そのような判断をした例は幾つかある。‘お役目’という言葉は、ただ単に現実世界の組織の中での職務を指す言葉ではなく、判りやすく言えば ‘特定の目上の人に仕え、そのお方が為すべき事業が成就するようにと常に心を配り、気働きをし、真心をもってお仕えする立場’であるということである。今時そのような古風な考え方をする女性は殆どいない。否皆無と言ってもよい。しかし千代はそれが自然にできる女性であった。

  信夫は余り迷うことなく「判りました」と返事した。見合い結婚話はトントン拍子に進み、信夫が25歳のとき、4つ年下の今の女房との結婚式を挙げた。千賀子は風の便りに音信のない信夫が結婚したことを知り、大変ショックを受けた。(続く)

2010年1月3日日曜日

小説『18のときの恋』(20100103)


    70を超えた信夫は自分自身の実践はともかくとして、政治の動きや社会の動向について相手のことにおかまおいなしに友人たちとあれこれ議論するのが好きである。友人たちの中で女性たちは信夫がしゃべりだすと「またか」とあからさまにうんざりする顔をする。

  高校を卒業直前のある日信夫は千賀子と『荒城の月』で有名な豊後竹田城を日帰りで訪れたことがあった。周囲のうるさい目を逃れて親にも誰にも内緒で、初めて遠出のデートをした。そのときのムードに惑わされたのか、信夫は千賀子に「将来時期が来たら」という言葉を省略して、いきなり「結婚しよう」と言ってしまった。千賀子は信夫の急な話に驚いた。年を重ねて人生経験を積んだ今から考えると、千賀子は信夫からの愛の告白を本当は嬉しく思っていたはずである。しかし「まだ18ですよ!」と信夫は千賀子にたしなめられてしまった。信夫と千賀子の交際は豊後竹田への日帰り小旅行を最後に途絶えた。


  信夫と千賀子の交際が途切れた大きな理由がある。信夫は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊し厳しい新隊員教育を受けた。そして護衛艦の砲雷科に配置となり艦が居住する場所となった。艦とともに日本国内だけではなく幹部(士官)候補生たちを乗せた遠洋航海や砲術訓練などで海外にも出るなどして各地を訪れた。艦隊勤務が毎日楽しくて仕方かった。初めの頃は海上自衛隊で海曹(下士官)になり所帯を持てるだけの自信がついたら千賀子に改めて結婚を申し込もうと思っていた。しかしそんなことは忘れてしまっていた。自分には千賀子以外の自分にふさわしい伴侶が必ず現れるはずだと確信するようになっていた。今思えば信夫は千賀子に恋焦がれるほどに千賀子を愛してはいなかったのである。

  信夫は後で知ったことであるが、かつて信夫が高校生のころ千賀子との交際の噂が広まって、千賀子の母親が信夫の家を訪れ、応対に出た信夫の叔父の嫁に「うちの子と交際させないで欲しい」と申し入れられていたことがあった。信夫の母親は信夫が10歳のとき乳がんで他界してしまっていたので、信夫の母親代わりを祖母や同居している信夫の叔父の嫁が務めてくれていた。その嫁は「若い日の時の思い出として胸にしまっておきなさい。そして千賀子さんとは手を切った方が貴方の幸せになる。」と信夫を諭した。

  当時信夫の父親はかつて朝鮮で羽ぶりのよい校長職までしていたが、戦後米1升が教員の月給とほぼ同額であった時代であったので生きて行くために長く教職を離れ、保険の外交員などしていた。しかし教職への夢は忘れられず師範学校時代の級友の助力を得て、42歳にもなって初めは助教という資格で教師として再出発し、その後正教員に復帰することができて、大野郡の田舎の小学校の校長として頑張っていた。しかし安月給のため信夫を養育してくえている信夫の祖父母に信夫や信夫の弟妹たちのための仕送りはできずにいた。ともかく信夫は祖父母や叔父夫婦の援助で高校を無事卒業することができた。

  信夫がある日父親に「大学には将来働きながら進学する。先ずは独りで生きてゆける自衛隊に入る」と言ったら、父親は信夫に「済まぬ」と一言言って「自衛隊でまじめに精一杯頑張るんだぞ」と言った。信夫は陸海空どこに入るか考えた末、視野を広めるため海上自衛隊の入隊試験を受けた。無事合格し、海上自衛隊での人生が始まった。新隊員教育を受けたのち護衛艦きたかぜの砲雷科に配属され信夫の艦隊勤務が始まった。信夫は勤務成績が極めて優秀で昇任試験に合格してトントン拍子に昇進し、最短期間で下士官に昇進した。信夫が24歳になったある日父親から見合い写真が送られてきた。(続く)

2010年1月2日土曜日

小説『18のときの恋』(20100102)


  一方芳郎は父親から相続した家と広い屋敷の管理で忙しい日々を送っている。寛政年間に建てられたと伝わる重厚な建物は管理が行き届いていないので傷みが激しい。雨漏りもしている。2階の天井裏には錆びついた刀や槍などの武具があり、そのまま放置しておくのは勿体ないと考えなんとか建物とともに文化財として後世に遺すことができないかと奔走している。その一方で自分の祖先のことを詳しく知りたくて、郷土歴史研究会というサークルで活動している。信夫はその研究会の研究成果をまとめた資料を芳郎から貰っている。

  信夫や坂田が帰郷する時、二人は必ず辰ちゃんと芳郎君に連絡している。今年の盆休みのとき信夫は2年ぶりに帰郷をした。帰郷前辰ちゃんに帰る日を伝えたら辰ちゃんは「おい藤君、今度の盆休みに江藤千賀子を呼んで一緒に食事しようと思うんだがどうだろうか」と突然言う。江藤千賀子の名字である江藤は旧姓で、今の名前は緒方千賀子である。
千賀子は結婚して福岡に住んでいる。福岡と言っても久大線沿線の浮羽町で信夫の郷里の日田に近い。級友たちが集まる場所として日田は好都合である。

  辰ちゃんがなぜ千賀子のことを持ち出すかと言うと信夫と千賀子の間に恋物語があったのを彼らが知っているからである。そのことは皆が50になったとき学級担任の阿部先生などを呼んで集まった同級会で千賀子が信夫に話していたことを聞いているからである。

  信夫はあのとき千賀子から初めて聞いたのであるが、千賀子は「結婚しよう」とまで言った信夫のことが忘れられず245歳にもなって風の便りに信夫には既に婚約者がいることを知り、悔しくてその女性がどんな人であるかということを知りたくて市役所に行き、いろいろ調べたというのである。千賀子はそのことを同級生の皆の前で暴露したのである。その時はお互いそれぞれ結婚生活も長く、千賀子には東京でスタイリストをしている娘さんもおり幸せな暮らしをしていたので、深刻な状況にならずに済んだのであった。しかし辰ちゃんたちはそのことが信夫をからかう格好の材料にしているのである。

  辰ちゃんが信夫が帰郷するたびに「江藤千賀子を呼ぼうか」と言う。信夫は「いやいやそれはいいよ。彼女も迷惑だよ。」と言うと、「いや、そうでもなさそうだよ。この間同級生名簿を作るため彼女に電話し、今度の盆に‘藤倉君が帰ってくるのだが出て来ない?’と言ったら、‘都合がつけば行くわ、日が決まったら知らせて’と言っていたよ。」と言う。

  信夫は高校時代千賀子と交際していた。当時高校生の分際でアベックでいることが人の目にとまればたちまち大きな噂になった。信夫と千賀子はそんなことを気にせず日田の日隈川や亀山公園などでデートを重ねていた。しかし信夫は千賀子の手さえ握ることもなかった。

  信夫は古本屋に売ってしまい今は手元にないが、千賀子から『千夜一夜物語』をプレゼントされたことがあった。千賀子は女であるから思春期は男よりませている。信夫があれほど千賀子とデートを重ねながら‘その気’が全く感じられないことに千賀子は多少苛立っていたのかもしれない。信夫は千賀子に何もプレゼントしたことがなかった。

  ある日千賀子は信夫の将来を占って信夫に「藤倉さんは将来評論家か技術者が向いている」と言ったことがある。その占いは当たっている。信夫は1級建築士として評判もよく、確かに千賀子の言った通り建築設計技術者である。もう一つ評論家についても当たらずとも遠からずと言ったところである。(続く)

2010年1月1日金曜日

小説『18のときの恋』(20100101)


  坂田も大概2位か3位で時には信夫を抜き1位になることも何度かあった。信夫と坂田は小学校時代から仲が良く、喧嘩もし、ライバル関係にあった。だから70を過ぎた今でもお互い相手の名前を呼び捨てにしているのである。坂田は3男坊であるから、芳郎と信夫のように父親同士は同じ年ではない。坂田の父親は信夫や芳郎の父親より年長であった。

  信夫は坂田のことを‘坂田’と呼ぶのであるが、他の級友たちは坂田のことを敬意をこめて‘泰さん(やっさん)’と呼んでいる。そう呼んでいるのは、彼が中学時代野球選手として活躍し、チームのリーダー的存在であったからでもある。野球仲間で後輩が‘やっさん’と呼ぶようになり、それが皆に広まったのである。しかし信夫だけは坂田と呼んでいる。辰ちゃんや芳郎君と話すときは「‘坂田’に聞いた」などと言い、坂田と話すときは‘坂田’と呼び捨てにしている。坂田も同様に信夫のことを‘藤倉’ と呼び捨てにしている。

  信夫、芳郎、泰治らが中学校に上がったとき町村合併があり、二隈地区が山鹿地区と同じ行政区になった。そのとき旧二隈地区にあった西中から梶山辰夫や中村志乃や江藤千賀子らが移ってきた。先生たちが故意にそうしたのかどうか知らないが、中学合併後も信夫と芳郎と泰治は同じクラスであり、担任の先生は美人で独身で音楽を担当する阿部桃子先生であった。そのクラスに西中からきた千賀子もいた。

  千賀子は色白ではないが目鼻立ちのはっきりしたちょっとおませで利発な女の子であった。あるとき先生が「皆さん、新聞を読んでいますか?」と皆を見まわしながら質問したことがあった。そのころ信夫は先生が何故そのような質問を中学生にしたのか未だに判らない。がしかし信夫が印象に残っているのは、その時千賀子が「はいっ!」と手を挙げて「大分合同新聞を読んでいます」と答え、先生が続けて「何処を読みますか?」と問うたとき「社説です」と答えていたことである。信夫は社説などに目を通したこともなかったので、そのとき「へえっ?」と思ったものである。先生はまじまじと千賀子を見つめながら感心していた。信夫もクラスの皆も千賀子に注目していた。

  坂田も信夫同様東京近郊に住んでおり、郷里にはたまにしか帰らない。坂田は当時山鹿地区で手広く林業を営む旧家の3男坊であった。高校卒業後東京の野田塾政経大学を出て船舶機械輸出を業とする商社日東に入社し、大学時代の後輩と結婚し、海外生活も送っていたが40歳のとき自分で輸出入経営コンサルタント会社を興し、千葉の船橋に豪奢な邸宅を構え、すっかり千葉の住人になっている。奥さんは宮崎県の延岡の出身である。

  辰ちゃんは高校卒業後大阪電機大学を出て東京に本社がある東京電業という大手の電気部品メーカーに勤め、名古屋支店の支店長で定年を迎えた。管理職になって札幌や福岡など転勤が多かった。入社後間もなく建てた田無の住宅を人に貸したままの状態が続き、その家に落ち着いて住む期間は殆ど無い状態であった。そこで辰ちゃんは定年後は郷里で落ち着いた暮らしがしたいという思いが非常に強かった。奥さんを説得して田無の住宅を処分し、大分県山浦郡八田の丘陵地に家を新築した。其処は辰ちゃんの小学校・中学時代の級友、つまり辰ちゃんの竹馬の友・梶原信行がその丘陵地の南面傾斜地で豊後牛の大規模な牧場を経営している土地である。辰ちゃんは企業年金も沢山貰っているので働かなくても食べて行けるのであるが、生産を全くしない暮らしが嫌で自然環境の中で家庭菜園程度の農業と牧場の手伝いで余生を送ることにしたのである。(続く)

2009年12月31日木曜日

小説『18のときの恋』(20091231)


 藤倉信夫は農業を営む藤倉家の跡取りであるが家督は弟に譲り、自分自身は建築設計家として東京三鷹市に事務所を構え、そこに住みついている。家督を実弟に譲ったのは親子2代で、信夫の父親も家督を末弟に譲っている。設計・監理の仕事が忙しく帰郷することは年に一度あるかないかぐらいである。しかし、このところ今年92歳になる母が入院騒ぎを起こしたりしたため、仕事の合間をみてできるだけ帰郷することにしている。弟に家督を譲ったときの条件で、信夫が帰郷したときの居場所として、2階の部屋を信夫専用の部屋とするようにしているので、信夫は帰郷したときでも気持ちよく過ごすことができる。

 信夫には郷里が同じ大分県日田郡山鹿地区で小学校時代・中学校時代同級の、いうなれば竹馬の友である佐藤芳郎・通称芳郎君と坂田泰治・通称泰さん(やっさん)がいる。もう一人樺山英雄がいた。樺山は善福寺というお寺の住職の息子であったが高校生の時肺結核で他界してしまった。信夫と芳郎と英雄が学んだ小学校には三人の父親同士も同じ小学校で学んだ。卒業生名簿の同じ年には三人の父親の名前が載っている。

 芳郎のことを‘君’づけして呼ぶのは芳郎の家柄に由来する。芳郎の家の紋は下がり藤で藤原の血を引いており地域で知られていた名家であった。戦前までは江戸時代から続く旧家で、江戸時代には名主をしていた家柄であり、戦前までは田畑を人に貸してその年貢で暮らす資産家であった。しかし戦後のマッカーサーによる改革で多くの土地を失った。芳郎のことを皆は小さい時から呼び捨てにせず‘君’付けして呼んでいたから、その習慣がその後もずっと続いているのである。

 芳郎君と辰ちゃんは信夫のことを藤君(とうくん)と呼んでいる。何故そう呼ばれているかと言うと、理由の一つは芳郎と信夫の父親同士が同じ年の親友同士であり、お互い相手のことを‘君’づけして呼んでいたのがそれぞれの長男にも及んだのだと考えられる。信夫の先祖は平安末期京都から下って来て山鹿の地区に土着したらしい。遠祖は藤原氏族で長和年間奥州黒河に居住し会津に知行を得たことが信夫の父親が遺してくれた系図に書かれている。多分信夫の遠祖は摂関家の荘園を管理する役目を負っていたのであろう。その嫡子は父親の働きぶりが良かったせいか民部大輔の地位まで昇り詰めている。

 面白いのは信夫の父親が藤君と呼ばれ、その長男である信夫も同じ藤君と呼ばれていることである。しかし芳郎の父親は信夫の父親から‘佐藤君’と呼ばれていたということである。芳郎の父親は戦後まもなく肺結核で他界している。

 信夫らは小学校2年のとき終戦を迎えたのであるが、そのころの担任の先生は荒っぽかった。ある日信夫たち男子生徒は未だにその理由は判らないのであるが教室の中で一列に並ばされ、平川という男の先生からスリッパでパチッパチッパチッとびんたを喰らったことがあった。その先生は軍隊上がりで戦後教職に復職したらしい。まだ9歳の男の子たちをまるで新兵のように考え、罰を喰らわせたのだと思う。別の先生は悪さをした級友に水を満たしたブリキのバケツを両手に持たせて廊下に立たせていたことがあった。今時の教師は口だけ達者な母親の剣幕を恐れ、体罰はしない、皆平等の扱いしかしていないが、終戦後何年もしない頃、保護者にとって先生はエライ人であったのだ。

 昭和25年に入った中学校では期末試験の成績の一覧表が廊下に貼ってあり、信夫はどの科目でも大概1位か2位であった。(続く)

2009年12月30日水曜日

小説『後恋』(20091230)


  学級担任が音楽の先生である阿部先生であったので、授業参観日のときの授業は音楽の授業として合唱を親たちに見せることになった。信夫はそのとき先生から合唱の指揮をする役を与えられていて、信夫たちの学級は放課後先生から熱心に合唱の指導を受けていた。いざ本番のとき信夫は親たちの前で教えられたとおりにタクトを振ったつもりであるが、先生から見るとどうも良くなかったようで、先生は恥ずかしそうにしていた。その時信夫が指揮し級友たちが合唱した曲はシューベルトの「セレナード」という曲だった。

  授業参観では各学級の担任がそれぞれ専門の授業を行った。志乃の学級では担任が理科だったので理科の実験を行ったとのことである。理科の実験は参観に来た親たちにも興味があったようである。しかし、合唱の方はその頃の親たちもあまり知らない曲だったので信夫の指揮ぶりと皆の歌いぶりがどうであるかということだけが注目された。参観が終わった後先生が恥ずかしがっていたので、多分信夫の指揮も合唱もあまり良くなかったらしい。中学校を卒業して信夫と志乃はそれぞれ別の道に進んだので、二人が会うことは二人が60近くになるまでなかった。

    50歳のとき阿部先生と再会したことがきっかけで信夫は中学生の頃志乃にほのかな思いを寄せていたことを思い出し、志乃に一度会ってみたいと思うようになっていた。志乃の父親も満州引き揚げの元教師であり、信夫の父親も朝鮮引き揚げの元教師であり、共に大分師範学校出であったということもあり、信夫は志乃とは何か前世から続いている因縁があるのではないかと思うようになっていた。

  信夫が所沢に住んでいたとき世話好きの坂田が幹事役をして「在京高塚中28年卒業同級会」が山手線鴬谷駅近くの料亭で開かれた。そのとき信夫は志乃に会うことができた。お互い家庭を持つ身、45年ほど前の恋は良い思い出の中だけにとどめ、皆それぞれ歩んできた人生のことを語り合った。志乃は音楽教師である阿部先生の影響もあって長崎大学を卒業した後上京し、東京芸術大大学院に進学し指揮法を学んだということである。

  志乃の音楽のキャリアはその大学院だけである。しかし志乃は子供のころから家にピアノがあったので、プロのように上手ではないがピアノを弾くことはできる。ピアノが弾けないと合唱団を指揮することはできない。そもそも合唱団を指揮するということは、合唱する音楽について自分のイメージどおりに表現するように指揮するということである。言うなればある音楽家が作曲したものを基にして「自分の音楽を作る」ということである。

  志乃は東京芸大の大学院で学んだ指揮法を合唱団の設立と運営に活かした。志乃の合唱団は成人男性と女性から成る混成合唱団のほか、子供たちだけの合唱団もある。混声合唱団の名前は「ル・ポン・ドゥ・ラルカンシエル」と言う名前であった。フランス語で「虹のかけ橋」という意味である。児童合唱団の方の名前は「ブリュエット・デ・フルーレット」、日本語で「小さな花達の小さな輝き煌き」という意味である。

  信夫は志乃が指揮する合唱を聴きに行ったことはある。会ったのはそれが最後で、その後信夫の妻に何か言い訳をしながら彼女に電話をかけたことが一、二度あったがその後は年賀状の交換をするだけであった。お互い70を過ぎた年の志乃からの年賀状には、ご主人が脳梗塞で倒れ介護の毎日であると書いてあった。その年賀状も次第に途絶えるようになった。信夫は皆に「隠居」と宣言し、以来誰にも一切年賀状を出さなくなったからである。(終)

2009年12月29日火曜日

小説『後恋(20091229)


  藤倉信夫の携帯電話に突然竹馬の友・坂田泰治から電話がかかってきた。坂田はどこかの居酒屋で信夫があまり記憶がない成瀬という友人と飲んでいるらしく電話からざわざわと人声などの雑音などが聞こえてくる。「あツ、出た出た。俺だよ。辰ちゃんに聞いて辰ちゃんからあんたの携帯電話番号を聞き出し、今電話したんだ。今成瀬と飲んでいる。前にも言った通り成瀬はあんたのことを知っている。場所はよく覚えていないが埼玉に近いところかどこかで飲んだとき成瀬も一緒で、成瀬はあんたに会ったことがあると言っている。」と言う。辰ちゃんというのは梶山辰夫のことで、坂田とは中学野球チームの仲間である。

  信夫は昭和61年(1986年)の3月まで埼玉の西武線新所沢駅に近いところに住んでいた。成瀬が男に会ったことがあると言うのは、昭和61年年3月以前のある時期のことだと思う。信夫も坂田も同じ小学校、同じ中学校、同じクラスであった。信夫が中学校で生徒会長に立候補したとき、坂田は信夫の選挙運動の応援演説をしてくれたことがあった。その甲斐あって信夫は生徒会長に当選し、副会長には同じ竹馬の友・樺山英雄と中学校合併前西中から来た中村志乃が当選した。信夫が持っている卒業アルバムには運動会の行進で信夫が中央で校旗を持ち、左右に中村志乃と樺山英雄が従っている写真がある。

  信夫は50歳になってから志乃に対しある種の恋愛的な感情を抱いていた。というのは二人が同じ生徒会の役員をしていたというだけではなく、もう他界してしまったが担任の阿部桃子という先生を通じた共通項があるからでもある。その先生に連れられて信夫と志乃は大分県日田郡内各中学校の弁論大会に出て、信夫は優勝し志乃は準優勝した。ある日信夫がある田圃で作業をしていたとき、志乃は志乃の父親が引く何かうずたかく積んでいたリヤカーを後ろで押してゆきながら、信夫が作業していた田圃のそばの道をと通って行ったとき、お互い視線を合わせながら無言のままであったこともあった。

  阿部先生は美人で音楽の先生でもあり、信夫や志乃など音楽部の生徒を引き連れてデパートの食堂でカレーライスを食べさせてくれたことがあった。ある日阿部先生は水着スタイルの自分の写真を見せてくれたことがあった。色気が出て来てき始めた頃の男子中学生の信夫らにとって水着スタイルの女性の写真は刺激的であった。

  坂田は世話好きである。坂田は同級生が50歳になった時郷里で恩師の阿部先生を呼び同級会を行う計画を立てた。阿部先生に何か贈り物をしようという話になり、同級生が営業部門の幹部をしている家電量販店で音質の良いプレーヤーを贈ることになった。その家電量販店というのは秋葉原にあるLAOXという店である。プレーヤーはその店から阿部先生の家に直接届けて貰った。信夫と坂田は同級会が行われる当日阿部先生の家に行き、多少電気製品に詳しい信夫がLAOXから送られてきた梱包を解きプレーヤーをセットした。

  同級会には志乃は欠席したのであるが、後日信夫が阿部先生に電話を入れ、阿部先生の求めに応じて調べ、整理しておいた東京における同級生の消息について報告したとき、阿部先生は志乃から信夫のことを長々書いた手紙が届いたと話してくれた。言外に志乃が信夫のことに強い印象があったというようなことをにおわせていた。信夫は阿部先生から聞かされ志乃の信夫に対する思いのことがいつまでも気になっていた。できれば一度志乃に会いたいと思うようになっていた。信夫も志乃もそれぞれ家庭を築いている。そのような恋愛的感情を持っていて会うということは、ある意味では不倫的な行為である。(続く)

2009年12月28日月曜日

日曜討論(20091228)

今日も温暖な日和である。男は女房と一緒にNHKの日曜討論を視聴した。司会は島田解説員、出席者はキーマン・仙谷行政刷新担当大臣、増田元総務大臣・野村総研顧問、大田元経済財政政策担当大臣・政策研究大学院大学副学長・大学院政策科学研究科教授、水野三菱UFJ証券株式会社チーフエコノミストの4人である。皆軍事・外交の専門家ではない。
今日の討論会を聞いて、男は民主党が来年度税制改革に向けて従来4年間は据え置くと断言してきた消費税の値上げに実質踏み切ると観た。名目は社会福祉税など消費税とは別の形になるだろう。一般消費税と社会福祉税の2本立てにすることについて事務が煩雑になるなど反対が多いかもしれないが、男は、必ずと言ってよいほど物事の構造には‘普遍’と‘特殊’の両面があることを考えれば、2本立ての方がよいと思う。
男は75歳以上を後期高齢者として特別扱い、ある意味で大変失礼な差別をするやり方に対しては不快に思うが、高齢者が一番国費を食い、しかも社会貢献をしている人の割合は多くないのであるから、課税対象物別に税率が考慮されている社会福祉税というようなものを高齢者も広く薄く負担をするということには大賛成である。高齢者だけではなく障害者も生活保護を受けている人も皆この税を負担するのが当たり前であると男は思う。
贈与税についても贈与する対象が既に高齢者であるので贈与額に応じて課税し、一定額以上の贈与については社会的公正の考え方に基づき現行以上に高率課税すればよいと考える。高齢者があの世に行くときそれまで蓄財してきたものを、それまでお世話になった社会に広く薄く還元する形をとるのは非常に良い考え方であると男は思う。
但し土地・建物等で社会一般通念上後世に伝え残すことが望まれるものについては、その資産の一部または全部を公共のものとし、相続を受けた者がそこに引き続き居住することができるように法律を整備すればよいと考える。
今朝の討論会で子ども手当や事業仕訳などいろいろ議論があったが、男は仙谷大臣は増田、大田両氏の意見・提案によく耳を傾け、その意見・提案を参考にして今後真剣に取り組んでゆこうという姿勢のように受け止めた。
普天間基地の問題について、25日鳩山総理は従来の発言と違う発言をした。「普天間移転先は国内で決める。抑止力の観点から見てグアムに普天間のすべての機能を移転するのは無理がある。」と言った。男は鳩山氏もようやく軍事のことが判ってきたのだと思った。沖縄の人たちには大きな負担を強いているが、沖縄にアメリカの海兵隊と空軍が存在していることは東アジア諸国にとって安心なことであるのだ。ヘリコプター部隊が要地から遠く離れたところに駐留しても緊急な軍事発動の際の時間的ロスが多く、全く意味がない。地上戦闘を行う海兵隊員は航空部隊の初動直後大型機で展開すれば、グアムにあってある程度時間的ロスがあるがやってゆけるだろう。軍事は軍事の専門家、つまり実際に用兵を行い、実戦経験もある軍人の意見を十分尊重すべきである。素人が‘専門家ぶって’ はいけない。
鳩山氏は普天間の移転先を名護市以外の場所を望んでいるが、どう探しても最良案は沖縄本島以外にないのだ。下地島や伊江島については考慮の余地がある。極東の戦略上、アメリカの空軍と海兵隊ヘリコプター部隊は沖縄に駐留してもらうことが日本の国益にかなうのだ。沖縄の人たちには申し訳ないが住民税とか所得税を軽減する措置で、少なくとも日本が東アジア共同体の中で主導権を握るようになる時まで我慢してもらうしかないのだ。

2009年12月27日日曜日

お陰さまで(20091227)

 よく日常の挨拶で「お陰をもちまして」とか「お陰さまで」と言う。普通この言葉の深い意味は考えずにこの言葉は使われている。例えば「陰で支えてくれた人への感謝」とか「お互い様」という意味の程度で使われていることが殆どのようである。「お陰さま」についてインターネットで調べてみたらある僧侶が「法話」を載せているのを見つけた。

 「人生には自分の思いにかなうこともかなわぬことも起こって来る。人生で起きて来るすべてのこと謙虚に受け止める言葉として‘お陰さまで’という言葉がある。目に見える現実世界を陽とすれば目に見えぬ世界は陰である。人生で起きるすべてのことを目に見えない世界からの導きとして受け止められるようになったとき‘お陰さまで’という言葉が出て来る。‘お陰さま’は‘仏様’である。」という趣旨のことをこの僧侶は図を示しながら説いている。

 その図というのは五感・意識の世界が現実世界であり、その世界の下に深層心理の世界を示している。以下男は自分が若い頃に買い求めていた書物『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に書かれていることを基に要点を記す。

 五感・意識とは仏教の唯識説で眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識と意識のことである。これら六つの識、すなわち六識は現実世界の識であり、唯識説ではその下に末那識(マナ識)、さらにその下に阿頼耶識(アラヤ識)の二つの識があると説く。マナ識とアラヤ識は深層心理学上の識と同じである。2500年前釈尊は深い瞑想の結果、現代の心理学で明らかにされた深層心理まで到達されたのである。釈尊は常人では到底到達できないところまで到達され、常人では認識できない世界を認識され、弟子たちに説かれたのだと男は思う。

 お陰さまの世界は現実世界の六識と第七識であるマナ識と第八識であるアラヤ識を総合した世界の中にあるのである。深層心理学の書物には「集合的無意識」について書かれている。人の行動は無意識の行動の部分が大きい。人は自分の無意識を自分で認識することは難しい。第八識ともなれば第三者から催眠をかけられて導かれないと自分では判らない。多分、長い時間をかけた習慣により無意識化されたものには気付くことができるだろうが、その下にある、多分生れる前から持っている心には、自分で気付くことはできないのだ。まして、これは信仰しかないと男は確信するが、仏を信じる者には本心から「有り難い」「お陰さまである」という気持ちが湧くものだと思う。

 仏教の経典には「仏は方便をもって人々を教化し導く」というようなことが書かれている。仏の方便は日々の暮らしで常に感じ取ることができる。素直に意識すれば「ああ、これも仏の方便だったのだ。有り難い。」と感じ取ることが出来るようになる。そのように感じ取ることができれば、日々の暮らしで起きることは皆有り難く、有り難いと思うと、物事は思うとおりになっているような‘不思議’を感じることができるようになる。「たまたま偶然」は、実は仏の導きによる「必然」であったのだと感謝することができる。すると日々のすべてのことは仏による「必然」のことで、これが‘不思議’なことであるのである。

 仏は釈尊にしか到達できなかった世界である。仏を信じ、仏に帰依し、仏への道を教える僧を敬い、仏への道を教える経典を重んじ、仏への信心をもって日々謙虚に、感謝の気持ちで過ごすことができれば、それ以上幸せな人生はないのである。
(関連記事:「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/07/20090720-2500-2000.html 」
「仏教の勉強(20090723)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/07/20090723-720-2500.html 」、
「神通力(20090915)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/09/20090915-800-2-1275-77-23-25.html 」、
「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/10/20091002-200909831-20090915.html 」)

2009年12月26日土曜日

鳩山首相の緊急記者会見(20091226)

 昨日(24)、鳩山首相は偽装献金事件について説明するため首相ではなく衆議院議員という立場で緊急に記者会見を行った。男もそうであるが大方の国民は、この問題は巨額脱税行為を鳩山首相は知らなかったというよりか、自分の母親の支援で政治活動を行うことについて税法上のことに注意していなかったため結果的に脱税になってしまったのではないかと思っている。

 一方の小沢代表の方は最近秘書が小沢氏の指示に従い会計処理をしたというようなことを、苦渋に満ちた顔で発言していたようなので、こちらの方は検察が公正に追及してゆけば政治家を辞めなければならないような状況に追い込まれる可能性はあると思う。小沢氏はそのことを一番恐れ、新聞記者たちを恫喝している。男は恫喝は不快だ。

 いずれにせよ、両者の問題が深化してゆけば小沢・鳩山両氏による政権運営(小沢氏は陰で運営)は非常に難しくなるであろう。マスコミは発言の一部を取り上げて、あれこれ継ぎ足して大きく報道すると思うが、小沢氏が韓国で「天皇の先祖は韓国人」というようなことを発言したらしい。週刊誌に大きく取り上げられている。論客・フリージャーナリスト立花隆氏は「小沢一郎は国家主席になったのか」と怒っているようである。

 政治には金が要るが「政官業の癒着を断ち切る」民主党も企業からの大量献金なしではやってゆけないであろう。男は、政党の活動に必要な資金の内訳を公金、献金、個人資産、政党自身による機関誌の販売活動による収入(『赤旗』や『聖教新聞』などの例)などに分け、公金の割合を大きくすべきではないか思う。企業の献金は政党や個人ばかりではなく国の機関が窓口になって集められるように法律を作ったらよいと思う。集めた金は議員数ではなく得票数に応じて分配すればよいのだ。企業が国に出す献金について、国はなにかインセンティヴを与えるようにすればよいのだ。例えば国への献金を公表し、表彰し、公表するなど、なにか良いアイデアを探すのだ。勿論日本は自由主義の国であるから、企業からの献金は政党に対しても個人に対しても制限を設けてはならないのだ。

 男は民主党や自民党のインターネット「ご意見窓口」に対し、このブログの関連記事のURLを示してときどき意見を送っている。先方がその記事に関心を示そうと示すまいと男はどうでもよいと思っている。市井の一老人のたわごとでも、たまには先方にとって価値ある意見であるかもしれないのだ。その価値を見いだせないで失敗し、矛盾にぶっつかればそれは先方の責任であって、たわごとのおせっかいをやく男の責任ではない。男も女房も次の選挙では政党を選ぶのか、人物を選ぶのか、棄権するのか三つに一つの選択をすることになる。従来のように「ベター論」での投票はしないつもりである。

 既存の政党が国民の意識を見誤ると、右翼的政党が現れ、大量票を獲得する可能性だってないとは限らない。男などは今の政党に、自民党に対しても民主党に対しても不満だらけである。テレビに出て来る論客たちはいつも同じ顔ぶれである。彼らよりは、以前NHKがやっていたいろんな人たちを一堂に集めた大討論会の方が魅力的である。一般庶民や普段テレビに顔を出さない識者の中には優れた意見を述べる人が多いと思う。参加者や一般視聴者の意見がオンラインで表示され、考え方の動向が判る。

 民主党への支持は今後も指数級数的に減少して行く可能性はある。民主党は危機感をもって一生懸命やっているようであるが、「象徴天皇を頂く国家主権の維持、安全保障、日米同盟」を最も大事なことであると考えていないように感ぜられる。その点に男は不満がある。

2009年12月25日金曜日

詠って元気になる「至善」(20091225)

 クリスマスイヴの今日も穏やかな暖かい日和である。北極の寒気団の舌が日本列島に垂れ下がって西から東に向かって移動してくると寒冷になり、それが通り過ぎると温暖になる。男はサンルームのような和室を臨時の書斎としてこれを書いている。余りにも暖かくて上はアンダーシャツ一枚にしてしまった。

 政府は診療報酬を10年ぶりに0.19%増額し、勤務医に重点配分することを決定した。自民党の一部から民主党はマニュフェストを守らない詐欺行為だと批判が出ているが、公立高校の授業料を無償化し、私立高校については親の所得に応じて公立高校の授業料に準じる補助を地方自治体から支給させるようにすることになった。また子供手当については現行の児童手当の仕組みを一部継続させて地方負担を残す形で中学卒業まで一人当たり月1万3千円を所得制限なしで支給することになった。

 男は自民党はなんだかんだと言うが、民主党は自民党がどうしてもできなかったことを実行しようとしているのでもう少し様子を見守りたいと思う。普天間の問題でアメリカも対応を苦慮していると思うが、現政権が日米同盟の根幹にかかわる部分を無視・軽視した場合、日本はアメリカから必ずパンチを食らうだろうと思っている。男は民主党は来年度の予算が正式に成立した後社民党と決別し、安全保障や外交など最重要事項について自民党などの協力を取りつけながら少数与党のままで政権を維持し続けた方が民主党のためにも国民のためにも良いと思っている。

 診療報酬のことで男は考えることがある。医療費や福祉費を沢山使う老人たちが、自らの努力で健康を維持・増進し、また他の老人たちの健康を維持・増進させる活動を行うようにすることは「至善」の行為であると考える。老人たちが健康ではつらつとしておれば国の医療費や福祉費を減らし、その分その費用を他のことに回すことができるのだ。

 国も地方自治体も老人の健康維持・増進についていろいろ努力はしているが、老人たち自身の自助努力についてキャンペーンをしていない。多分、老人たちの反発を恐れて敢えてキャンペーンしないのかもしれない。しかし、男はそれは間違っていると考える。

 幸い男にはこのようにブログ上で随筆を書いたり、地域活動として詩吟のサークルを運営し、詩吟を教え、教えているその詩吟の詩文をブログ上で自ら声を出して吟じ、公開することが出来ている。さらに僅かな予算で陶芸も楽しむことが出来ている。お陰さまで男は自分の健康を維持・増進させることができている。

 男は「袖触れ合う縁」の範囲内で社会参加し、それ以上社会参加の範囲を広げようとは全く望まない。人それぞれ自分の時間の使い方があり、何か社会に影響を及ぼすようなことをしようとして自らの時間とエネルギーをそのことに投入したいとは決して思わない。
イエス・キリストでも釈尊でも、自分に触れ合う人しか直接愛することはできなかった。

 イエス・キリストや釈尊の弟子たちがその教えを広めたのでキリスト教や仏教が生れた。まして自分はそれらの聖人に遠く及ばない針の先のような小さな存在である。自分は20歳前後の若い時であればともかくもあの世に手が届く年であり、世間に役立つ才能もない。自分が健康ではつらつし、自分が楽しみながら行っていることを通じて自分の周囲の人に幾ばくかの楽しみや良い刺激を与えることができれば、それが一番の社会貢献であると男は思っている。男の「至善」の行為はそこにある。
(関連記事:「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)

http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/12/20091210-1118-1190-2-2-16-73-14-8-31.html

2009年12月24日木曜日

‘至善を行うこと’は言うは易し行うは難し(20091224)

 今日は朝から雑事あり多忙であった。男が住む28戸の小さなマンションの外壁大修繕が完了し、今期理事長のM氏と修繕委員長である男が住宅管理組合として立ち会い検査を行った。その結果に基づく手直し工事をした後、管理を請け負わせている管理会社N社が最終検査を行い、理事長がサインして2ヶ月半に及ぶ修繕は完了となる。

 管理組合の了承のもと修繕を請け負った管理会社から実際の工事を請け負った小さな会社の経営者H氏の話によると、マンションの定期修理のとき住民との間でトラブルが起きることはよくあるが男が住むこの小さなマンションでは皆非常に協力的であり助かるという。僅か28戸であるが、その中にオーナーが賃貸している戸数は4戸もある。修繕委員はそのうち10人であるから、住民間のコミュニケーションが非常によく、しかも管理組合の役員3名は毎年交代で入れ替わるからお互い状況がよく判っている。役員は実質的には自治会的な仕事も行うことになっている。賃借で入居している人たちともゴミ出し、パティオのような駐車・駐輪場の管理のこと、行政側から送られ、町内会の方で配布数を仕分けして束で持ち込んでくる広報の配布などは本来管理組合の仕事ではないが、別に自治会組織を設けるのは面倒なので当初から管理組合の仕事になっている。こういう状況なのでこの分譲マンションの賃借入居者との間のコミュニケーションも自然にうまく行っている。

 管理組合による検査がほぼ終わる頃、駐車・駐輪場の一角に建てられているゴミ置き場の脇に作業車を止め、ゴミ置き場に設けられている水道の蛇口にホースをつなぎ、隣にある賃貸マンションの1階のある家まで伸ばして高圧洗浄の水を送っているのを男と理事長のM氏が目撃した。不審に思っているとその車で作業している30前ぐらいの男がこちらの所有物であるフェンスを乗り越え隣と行き来している。理事長M氏と男は隣の賃貸マンション内の作業現場に行った。M氏が抗議したらその家の主婦らしき女性が玄関に出てきて「事前に連絡できなくて」という。どうも下水管が詰まったらしい。M氏が「管理会社も違う」と言ったら「ああ、そうなんですか?」と、こちらが分譲マンションであることを知らなかった風である。ちゃんと手順を踏めば緊急時には便宜を図ってあげるものを・・・。

 その種の修理を個人で請け負っているらしい件の男に対し男は年甲斐もなく怒りを爆発させた。こちらの所有物であるフェンスを勝手に乗り越え、勝手に水を引いている行為に我慢ならなかったのである。ひげを生やし強面(?)の腕っ節も強そうな(?)男が「住居不法侵入と同じだぞ!」と大声で怒鳴りつけたら、その男はちじみ上がって今にも泣き出しそうな面になった。そしてまたフェンスを乗り越え、作業を中止した。