2011年11月13日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(73) (20111113)

 “水野忠邦が失脚してから十年後の嘉永六年(一八五三)アメリカのマシュー・ペリーが 黒船で浦賀(うらが)に来航した。それまでにも文化元年(一八〇四)にはロシアのレザノフが通商を求めて長崎に来航し、同五年(一八〇八)にイギリスの軍艦フェートン号が長崎に侵入する事件があったが、幕府は文政(ぶんせい)八年(一八二五)に異国船撃払令を出す程度で真剣に対応してこなかった。

 しかし、ペリーの要求は強硬にして執拗(しつよう)だったので、幕府は対処しきれなくなって老中首座であった阿部正弘(あべまさひろ)は諸大名に対応を相談する。しかしこれは徳川幕府としてはやってはいけないことであった。そもそも鎖国をしたのは幕府なのだから、開国したほうがいいと判断したなら勝手にそうすればよかったのである。

 相談された大名たちはそれぞれ勝手な意見を述べた。その結果、国政を合議制で決定しようという「公議輿論(こうぎよろん)」の考え方だけが広がり、幕府の権威を下げることになってしまった。

 阿部正弘のあとを継いだ堀田正睦(ほたまさよし)は開国派だたが、阿部と同じ失敗をした。安政(あんせい)三年(一八五六)に来日したアメリカの駐日総領事タウンゼント・ハリスが携えてきた上申書を諸大名に示し、開港通商に関して各大名の意見を求めたのである。さらに安政五年(一八五八)二月、堀田は京に上り参内(さんない)して事情を述べて、日米修好通商条約調印の許可を朝廷に求めた。

 これによって幕府は崩壊への道を歩みはじめたといってよいだろう。朝廷に外交に関する国政への発言権が生れたのである。皇帝の公家たちの会議では議論が沸騰(ふっとう)し、結局、堀田に修好不許可の勅諭(ちょくゆ)書を授けた。

 この直後の四月、幕府は堀田に代えて井伊直弼(いいなおすけ)(一八五一~一八六〇)を大老にした。そして六月にはアメリカの軍艦二隻が下田にやって来た。またロシアのプチャーチンも下田に来た。ハリスも再び軍艦で神奈川に来て調印をうながした。

 これに対して幕府の中で「条約調印に勅許(ちょっきょ)は不要である」という正論があった。井伊大老はこれに反対だったが、やがてその意見に屈して、ついに安政五年五月十九日、神奈川において日米修好通商条約が調印されることになった。”

 日米修好条約調印にいたる状況は、いまTPPで揺れている状況と重なって見える。アメリカは自国が世界中で自由に貿易できる環境を求めて、武力をちらつかせながら諸制限の解除を求めてきた。もしその自由貿易の妨げになるならば地政学的な支配領域を武力で拡げてきた。それがハワイ併合でありフィリッピンの支配である。日本と武力衝突し、日本を占領したが、日本がその自由貿易の要になると見ると占領地を全部返還した。ただでは返還せず、秘密裏に日本から沢山の金を取った。アメリカにとって富の確保が至上命題である。そのため今、アメリカは日本の頭越しに中国に接近している。そのようなアメリカであるが、日本とアメリカの間には離れることは出来ない深い絆がある。  (続く)

2011年11月12日土曜日

20111112フェイスブックの友達からのメッセージ(2)

 これはフェイスブックの私の投稿記事に対するIさんからのコメントである。
 Iさんのコメントに感動し、Iさんのご了解を得たのでここに引用する。
 先日 私如きに 自衛官募集功労と一般功労で西部方面隊より総監感謝状を頂きました みなさん有難うございました 今まで自衛官を育ててきましたが 一個小隊出来るぐらいは入隊させたかな? これからも押し付けではなく考える自衛官を作って生きたいと思います。

それにしてもここだけの話ですが 高校を出て何にも考えていなかった学生。ゲームや携帯ばかり触って国際情勢や安全保障、国防など全く苦想像もしなかった若者が教育を終わって潜水艦に配属されて物言わぬ、沈黙の中にも国際情勢や国としてのあり方をまのあたりにして愕然とした。なんて良くあることです。

今までの生活がバブルの平和の上に築かれていたことが初めて分かったと気づくのです。この安全が国際情勢の中で微妙なバランスの上でたまたま平和が保たれていたに過ぎない。彼らは考えさせられるのです。しかし自分や自衛隊ではどうしようもなくただ案ずるばかりで家族の元に返るとすっかり忘れてしまい、また平和ボケという温室に収容されるのです。そこで考え抜いた優秀な隊員が自殺という残念な終末を迎えるのです。そんな不幸な平和ボケがいまをゆっくり不景気風を吹かせながら観閲行進しています。

もう民主党にも自民にも本当の武人はいません。この辺で自衛官が行政を期限付きでやらせて見てはどうでしょう。手遅れかな?

ところで別府の第41普通連隊は近くの日出生台ではなく対馬に転地演習訓練に民間のフェリーで行きました。特科や機甲科は北海道から90戦車を持ってきて日出生台で演習(第7師団)地元の別府は90を運んで来た民間フェリーで対馬に、これもすべて沖縄・南西諸島の島嶼防衛の一環だそうですが 全くご苦労さんな話、若い隊員も愚痴ひとつ出さずたんたんと、もくもく積み込み演習を終えていました。(この時期海自の輸送艦が演習で使えなかったそうです。)

学校の先生方にこの姿を見せたい、でも見てもまた人殺しの練習とか訳の分からんことを言って若い自衛官を罵倒するばかりですが!

今朝早朝、別府港で自衛官募集相談員会のメンバー全員で見送りをしてきました。若き連隊長藤岡登志樹一等陸佐がわざわざ出て来て手厚い御礼を述べられ地元のためにも頑張ってくると頼もしいことばと共に船上の人となりました。(うれしかったのは帰って来たら美味しいお酒をこの別府で見んなと共に飲みたいと言って別府の消費拡大に貢献する姿を見せたことです。)連隊長に敬礼!

20111112フェイスブックの友達からのメッセージ(1)

 フェイスブックの私のウオールに以下の投稿をした。これに対してIさんからコメントがあった。

 私は「日本の安全保障」が最も大事だと思う。

TPPについて皆その視点を脇において、利害得失ばかり議論している。

日本が軍事費を増額し、兵員を増強してでも、沖縄・尖閣等離島を防衛し、竹島や北方領土も奪還する、東アジアにおけるアメリカの権益も守ってやる、というぐらいの考え方をせずに、「外交交渉で日本の国益を断固守る」などと言っているが、それは絵空言である。

「武力」を背後に持たずに外交交渉で相手に勝のは容易ではないと思う。

日本人は心の中心にしっかりと万世一系の天皇のことを思い、この皇国を守るため強い軍隊を保有するようにすべきである。その上で日米関係を対等の同盟関係に変えるべきである。対等ということは、どちらもお互い同盟した相手を守るため、「血を流す」ことがあるということである。

専守防衛、非核三原則などを金科玉条のようにしていては、この国は徐々に衰退してゆくだろう。日本が最善の「平和維持の手段」である核武装をしないならば、東アジア地域で核兵器を使用する場合に備えて、アメリカの核のボタンを日米双方で協同管理するぐらいのことは考えるべきである。

日本が甘ったれた平和主義では、中国や韓国・北朝鮮・ロシアを喜ばせ、国内の左翼政党を喜ばせるだけある。日教組を喜ばせるだけである。国の事より自社の商売の方が第一の、そして地球上何処に住もうと住みやすいところ住めばよいと考える「商人」たちを喜ばせるだけである。

憲法改正と「教育勅語」の復活は急務である。「教育勅語」には、「博愛衆に及ぼし」とあり、国内産業の保護が必要な場合の根本の精神も書かれている。

国会中継を見ていてつくづくそう思った。与野党議員も総理大臣以下閣僚たちも、皆戦後の教育のせいで日本人としての魂を抜かれてしまっているように見えた。武人・侍のような「骨っぽさ」がちっとも感じられないのだ。

これは私だけかな。もうこのようなことを言うのは止めて引っ込み、当たり障りないようなことだけを言うようにしようかな。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(72) (20111112)

 “文化・文政の時代は四十年続き、その結果として乱れた財政と風紀の立て直しをめざしてまたも改革を起こす人が出てくる。それが老中水野忠邦(みずのただくに)(一七九四~一八五一)である。

 天保の改革は困窮する幕府財政の緊縮と大奥(おおおく)の粛正を動機とした。・・(中略)・・家斉が亡くなり、実権が家慶(いえよし)に移ると、水野忠邦は直ちに西の丸の家斉について汚職・腐敗を極めていた若年寄以下一千名近い者たしを処罰し、城の内外で綱紀粛正と改革を断行した。

 民間では、風俗取締りを強化し、芝居小屋を江戸の中心から郊外の浅草に移転させ、寄席を廃止するなどして庶民の娯楽を規制した。・・(中略)・・

 また、立派な家屋、高い菓子、派手な看板、羽子板、羽二重(はぶたえ)、縮緬(ちりめん)、繻子(しゅす)、舶来品など、寛政の改革に輪をかけるように細かな禁令を実施し、少しでも文化の高い生活水準の匂いのするものはすべて禁止した。・・(中略)・・

 しかし、これは商業と商人に対する嫉妬(しっと)と憎悪から出た政策であり、また代案も用意してなかったため、逆効果になった。江戸開府以来自然発生的に発達してきた制度をなくした代償は大きく、貨物は動かなくなり、金融は止まり、物価が上がるなどの問題が起こった。

 結局、天保の改革は二年足らずで終わり、水野忠邦は失脚した。水野失脚が町人に伝わると、数千人ともいわれる群衆が彼の屋敷に押しかけて石を投げ、兵を出してようやく家が破壊されるのを防いだというのだから、どれほど水野の評判が悪かったうかがい知れる。

 民衆がどんどん金持ちになっていくのに幕府が困窮していくというのは不思議な現象であった。江戸幕府は軍事力を持ち、司法・行政に関わるすべてを掌握していた。通貨発行権まで持っていたのである。それなのに貧乏になっていくという例は世界でも稀(まれ)だろう。

 このように幕府の力が低下しているときに黒船がやって来た。これをきっかけに幕府は急速に瓦解(がかい)して行くのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 民衆から税をとっていても幕府は貧乏になっていった。今の日本でも政府はものすごい額の借金をしている。そこで法人税・所得税・消費税などを上げて税収を増やそうとしている。そういう時期にTPPの平成開国を迫られている。社民党や共産党は金持ちからもっと税金を取れと言っている。「持てる者」への嫉妬があるように思う。「市民」に迎合して首相以下閣僚は自ら歳費減額をしている。なんだか幕末と似たような状況である。

歴史は繰り返す。だから政治家はよく歴史を研究しておく必要があるのである。封建時代の指導者たちはよく歴史を勉強し、統治の糧にしていた。今の政治家たちはもともと皇国史観に無縁だったし、学校で歴史、特に信長時代以降の歴史をよく学んでいない。それでよい政治や外交ができるはずがない。           (続く)

2011年11月11日金曜日

大東亜戦争【不屈の武士道精神】



TPPで国論が割れたこともあり、今こそ日本人は「平和ボケ」から目覚めるべきときです。
渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(71) (20111111)

 “田沼意次のあとに老中となったのは白川候(しらかわこう)(陸奥国(むつのくに)白川藩主松平定信(まつだいらさだのぶ)(一七五八~一八二九)であった。彼が行ったのが、「寛政(かんせい)の改革」である。寛政の改革も享保の改革と同じく、主眼となったのは贅沢(ぜいたく)品を抑え、綱紀粛正(こうきしゅくせい)をはかるというものであった。武士に対して衣服の新調を禁じ、家は壊れたとき以外は建ててはいけないと命じた。また町人の持っている羽子板、雛(ひな)道具、玩具などに金銀箔(はく)を使わないように通達し、あるいは能役者の衣装や女の着物などにも制限を加えた。・・(中略)・・

 松平定信は「寛政異学(かんせいいがく)の禁(きん)」を出して朱子学以外の学問を禁止し、蘭学者を公的機関から追放して、政治批判を許さず、厳しく取り締まった。海防の必要性を説いた『海国兵談(かいこくへいだん)』の著者、林子平が処罰され、・・(中略)・・

 他方、倹約令を発し、徳政令(とくせいれい)を出して旗本御家人(はたもとごけにん)の借金を棒引きしたから、借金を返さなくてもよくなった武士たちには松平定信の改革は歓迎された。・・(中略)・・
 寛政の改革を田沼の腐敗政治と比較して風刺する有名な狂歌(きょうか)がある。

 白河(しらかわ)の清きに魚(うお)も棲(す)みかねてもとの濁(にご)りの田沼恋しき
 倹約や綱紀粛正ばかりでは世の中は貧乏臭くなって面白くもない。多少の汚職があっても、それによって経済がよく回り文化も活発になれば、生活していて楽しい。田沼時代はよかったなあ、というわけである。この気分は、高度成長期を経験した人たちにはよくわかるのではないだろうか。・・(中略)・・

 寛政の改革が潰れると、その後は締めつけが緩み、世の中はまた自由になった。この間に江戸文化の爛熟(あんじゅく)期が現出した。いわゆる文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)の時代である。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』、曲亭馬琴(きょくえいばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』が刊行されたのもこの時期である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 江戸時代は吉宗の質素倹約を旨とした風紀の引き締めの時代(「享保の改革」)。田沼の時代の自由な華やかな時代、しかし汚職が横行した時代。白川候の日常生活における贅沢の規制、学問の統制の時代(「寛政の改革」)。再び自由で華やかな時代。そしてまた財政と風紀の立て直しの時代(水野忠邦「天保の改革」)。と自由、不自由が繰り返された時代であった。そして多少汚職あり、風紀も乱れた時代に文化や学問が盛んになった。

 経済活動や文化活動や学問などは政府による規制や保護が厳しいとあまり活発でないが、規制が緩むと活発になる。競争があると市中に良い品物が流通する。今、我が国はTPP問題で大いに揺れているが、内向きになって守勢に立つよりは、勝機を狙い戦いに打って出た方が日本にとって良い結果を生むのではないだろうか?    (続く)

2011年11月10日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(70) (20111110)

 “町人文化が花盛りととなったのは五代将軍綱吉(つなよし)の頃、元禄(げんろく)元年(一六八八)にはじまる元禄時代であったといえるだろう。この時代は「元禄風」という言葉があるくらい、たいへん贅沢(ぜいたく)な時代であった。今でいえばバブルの時代である。

 ところが、あまりに贅沢がすぎるとその反動として、目につく贅沢を抑えようという意見が出てくる。それを最初に具体的な改革として行ったのが八代将軍吉宗(一六八四~一七五一)であった。いわゆる「天保(てんぽう)の改革」である。吉宗は質素倹約を旨として富貴の引き締めをはかり、大名から一万石につき百石を献上させ、また新田開発をすすめるなどして、幕政改革に手をつけた。・・(中略)・・

 吉宗の後の家重の時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)(一七一九~一七八八)が大名に取り立てられ、さらに家治の時代に老中に抜擢(ばってき)されると、「田沼時代」といわれる華やかな時代を迎えることになる。

 約二十年続いた田沼時代も、文化花盛りの溌剌(はつらつ)とした時代だった。洋学が栄え、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)がオランダ語(もともとドイツ語)の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して「解体新書」として刊行した。志築忠雄(しずきただお)は『暦象新書(れきしょうしんしょ)』でニュートン力学やケプラーの天文学を紹介した。平賀源内(ひらがげんない)はエレキテル(静電気発生機)や寒暖計を発明した。

 また近世日本文学の代表作といわれる上田秋成(うえだあきなり)の『雨月物語』、俳諧(はいかい)の与謝蕪村(よさぶそん)が登場し、国学では賀茂真淵(がおのまぶち)の『万葉集』などの古典研究、本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』が出た。・・(中略)・・

 また田沼意次が老中になってから、異常気象、火山の噴火、地震などの天変地異が続き、天明(てんめい)三年(一七八三)には東北地方を大飢饉(ききん)が襲い(天明の大飢饉)、それ以降も日照り、凶作、大洪水が続いた。”

 今から230年ほど前に東北地方で大飢饉や日照り・凶作・大洪水があったという。東北地方は大災害に見舞われることが多い地方である。天明の大飢饉では幾多の餓死者も出たことであろう。それでも人々はその後立ち上がり、雄々しく生活を切り開いてきた。東北人には「立ち上がれ! 頑張ろう!」という東北人魂がある。

 私の遠い祖先は系図に書かれていることから推察すると道長の時代、宮城県にあった摂関家の領地の管理のため黒河に赴任し、給料は会津の小田にあった摂関家の領地から京都に残した家族のもとに送られていたのではないかと思う。京都から遠い道のりを1ヶ月もかけて現地に赴き、与えられた職務をこなしていたことだろう。多分妻子は連れてゆかず、その地で没したことだろう。その働きが良かったから京都に残した息子は大学を出て出世した。そのようなことを想像して東北地方を一層身近に感じている。      (続く)

2011年11月9日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(69) (20111109)

 “一方、江戸も栄に栄えた。江戸の人口は十八世紀初頭に百万を超えたといわれ、「大江戸八百八町」と呼ばれる世界一の大都市になった。江戸に人が集まったのは、水が豊富にあったからである。井戸だけならそうはならなかったはずだし、川だけでもならなかったはずである。ではなぜ江戸は水の都となったのか。それは上水道を引いたからである。何十里という長さの上水道をわずかの勾配を利用して江戸まで引いてきて、江戸の町民もそれを自由に使えたのである。このような都市はなかなかない。

 例えば同じ頃のロンドンの人口は五十万くらいといわれている。それ以上増えなかったのは水がなかったのである。

 それに対して、江戸は上水があるうえに、排泄物(はいせつぶつ)はすべて畑に返したため、非常に清潔だった。「江戸に廃物なし」といって、捨てる物は何もなかったといわれるほどである。・・(中略)・・

 幕末から明治初年にかけて数多くの外国人が来日しているが、皆が感嘆しているのは江戸の町が清潔であることである。

 また、彼らは子供が楽しそうな様子でいること、泥棒がいないことも特徴に挙げている。

 治安についていえば、日本の旅館の部屋にはドアがない。ところが、卓袱台(ちゃぶだい)の上に財布を置いて旅行に行っても、帰ってきてみると財布は盗まれずにそのままあったこと、当時来日したアメリカの動物学者、ES・モースも感激して手記に書いている。

 江戸の治安維持を行っていた警察官にあたる同心(どうしん)などは百人単位で数えるくらいしかおらず、その上役にあたり、南町奉行(ぶぎょう)所・北町奉行所に配備されていた与力(よりき)の数はわずか二十五人しかいなかった。ちなみに、同心の下働きをしていた岡っ引き、目明(めあか)しというのは町人であった。百万の人口を考えれば、この人数の少なさは驚きである。それほど治安がよかったという証拠である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より)

 Wikipdiaで「玉川上水」のことが写真付きで詳しく紹介されている。私は若いころ小平付近で玉川上水を見た。その頃私はその「玉川上水」が歴史的にどんなものであったか多少関心を持っていたがそれで終わってしまっていた。あの頃が懐かしい。今、あらためてこの上水の歴史を知り、私の意識は往時の情景を脳裏に描いている。往時の人々の動きや町のざわめきや、人々の話し声などが聞こえてくるようである。まるで自分がタイムスリップして何世紀も前の江戸の街中にいるようである。

 歴史を調べるということにより、そのように自分自身の意識を延伸させてその歴史の当時の状況を想像し、自分自身をその当時の状況の中に観察者のように置くことができる。そして自分がこの世に生れ出る以前の過去から、自分がこの世を去った後の未来まで自分はずっと生きているのだという気持ちになる。肉体としての自分の生死にはあまり関心を持たないような気分なる。                       (続く)

2011年11月8日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(68) (20111108)
 “江戸時代は商業が大いに発達したことも特筆すべきであろう。平和な時代で、大名も隣国から攻められる恐れが全くなかったため、武による競い合いではなく、名産物を作って隣の藩に負けないようにと競争をするようになった。これは封建制の一つの特徴であって、朝鮮と比べると一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。すなわち朝鮮では封建制がなかっために名物がない。
 そして、それが「天下の台所」と呼ばれた大阪に集まり、全国にさばかれた。これもまた面白い現象である。江戸だけが日本の中心となるのではなく、大阪というも一つの中心ができたのである。大阪は一種の天領(てんりょう)(幕府の直轄領)であって、統治する者は代官くらいしかいなかったため、非常に自由度が高かった。そこに全国各地から物品が集められ、一つの大経済圏を形成することになったのである。
 当時は陸上交通がまだ不便であったため、例えば山形庄内の米なであれば、すべて酒田に集められ、そこで船積みされて日本海を進み、関門海峡から瀬戸内海に入って大阪まで運ばれていた。いわゆる北前船である。
 そのため、大阪には各大名の米蔵ができ、米の相場が立った。実は世界最初の先物取引市場が整備されたのも大阪・堂島である。イギリスのリバプールに綿花の取引所ができるのは、それからだいぶ経った頃である。
 これは大阪の民度を上げることにつながった。だから学問でも、幕末には緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)が大阪・船場(せんば)にでき、大村益次郎(おおくらますじろう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)も学んでいる。学問のレベルは断然大阪が高かったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より)
 本では武家の宗家である徳川家が諸侯に天皇や公家・寺院・神社など公領以外の土地を分け与えて領有統治させたが、朝鮮ではそういう仕組みはなかった
 封建制度とは武家による主従関係の政治とその分権的な領民支配の土地の私有を認める制度である。日本の場合、各藩主は武家の宗家である徳川家に建前上服従していた。一方中国や朝鮮の土地所有形態は国家(皇帝)が全国の所有者であり、その人民たる耕作者は土地に従属する民であった。
 日本では日本という国の中にいくつもの‘国(藩)’があった。国の中に‘国’がある形態は欧米諸国の政治形態と同じである。日本は中国や朝鮮よりは欧米と価値観を共有できる根本の原因はそこにあると私は思う。
中国では現在でも土地は国家の所有になっている。それだけではなく戸籍には農民戸籍と都市戸籍があり、農民は都市に住居を移すことは制限されている。中国は共産党が支配する、ある意味では「共産党王朝」が国家を運営しているといえる。中国は今も昔も本質的に変わっていないのである。          (続く)

2011年11月7日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(67) (20111107)

“また明が清から攻められて亡びそうになったとき、鄭成功(ていせいこう)が台湾を拠点に抵抗していた。明は徳川幕府に対して援軍の要請や物資援助を繰り返し求めてきたが、結局、正式な援助はしなかった。もしあのとき助けていれば、台湾と山東(さんとう)半島くらいは日本の領土になっていたかもしれないが、むしろ清とのトラブルにならないことを優先して一切動かなかったのである。

幕府は貿易を無視してでも国内の封建体制を確固にすることを考え、寛永十年(一六三三)から同十六年(一六三九)の間に五回にわたって鎖国(さこく)令を出し、少しづつ鎖国体制を強化していく。その名目とされたのがキリスト教の禁止であった。外国に多数いるキリシタンが同盟して攻めて来たら大変だというわけで、とにかく海外に門戸を開くことに神経質になったのである。

 ただ例外的に長崎に出島(でじま)をもうけ、オランダ(東インド会社)に対しては一年に一隻(せき)は来てもいいなど、シナや朝鮮との非公式な貿易は禁止しないことにした。その点で完全に門戸を閉ざしたわけではないが外への拡張をめざすよりも内政重視の政権であったことは間違いない。これも徳川時代が長く平和を保った一つの理由である。”

 “海外との関係を遮断する一方、国内では家康の学問好きが広く浸透して、儒学の最盛期を迎えることになった。朱子学(しゅしがく)を中心とする正統派の林家だけではなく、朱子学だけでは足りない伊藤仁斎(いとうじんさい)の古義学、荻生徂徠(おぎゆうそらい)の古文辞学など古学派、中江藤樹(なかえとうじゅ)の陽明学など多くの学者が出て、非常に賑やかになった。

 これは同じ儒教が入った国でも朝鮮とは大いに異なっている。朝鮮には李退渓(りたいけい)という偉い学者が出たが、それ以外には進展はなく、朱子学一本だけだったのである。しかし学問というものは、原典批判を抑制されると発展しない。

 宗教改革以降にヨーロッパが栄えた理由は、聖書を自由に解釈し、勝手な意見をいえるようになったからだといわれる。一方、イスラムの発展が止まったのはイスラム教典に文句をいえないからとされる。ここからも明らかなように、『論語』に対して、いろんな意見をいう人が出てくることは、むしろ望ましいことであった。朝鮮では李退渓の学問に文句をいえなくなったために、文化が固まってしまったのである。

 江戸時代の日本には溌剌(はつらつ)としたいろいろな学派、学者が出たために、儒学は大いに発展していくことになったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』)

 この点仏教でもこの日本で似たような発展があった。仏教の各宗派がそれである。日本人は入ってきた文化を消化してさらに発展させる能力をもっている。これは日本人の遺伝子にそのようなものがあるからだろうと思う。

 私は徳川幕府が長く続いたもう一つの理由として祖霊崇拝があったと思う。徳川家康は東照宮を拠点として崇拝されてきた。この日本も天皇崇敬と伊勢神宮等参拝が日本を末代まで平和に、そして繁栄させるポイントだと思う。また日本人はこの国のため命を捧げた数多の英霊たちを祀る靖国神社を大事しなければ、必ず罰を受けるだろう。   (続く)

2011年11月6日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(66) (20111106)

 “夏の陣によって大阪城が落ちたのは慶長十二年(元和(げんな)元年/一六一五)のことであった。このとき徳川幕府は「元和偃武(えんぶ)」を宣言した。「偃武」とは「武を置くこと」、すなわち戦いをやめて平和政権をつくるという意志を示し、世が太平になったことを指している。天下は徳川家の下に統一されたのである。・・(中略)・・

何より戦国時代はリーダーというものが重要である。大将が無能であれば軍は全滅してしまう。ゆえに、必ずしも君主の長男を相続させることはしなかった。無能な長男ならば仏門に入れるか、方策がいろいろ考えられた。戦国時代は能力主義の時代なのである。

 ところが家康は、「元和偃武」によって平和な時代になると、その考え方を百八十度転換させた。つまり、能力主義から長子(ちょうし)相続主義に変えたのである。・・中略)・・

 能力主義の中で生き抜いた家康が、天下が平穏になったらもう能力主義は必要ないと考えた、長子制度に切り替えたことは後々まで大きな影響を及ぼした。要するに家康が確立したのは、「殿様は無能でもいい」という原理なのである。相続をめぐってお家騒動が起こるくらいなら無能でもいい。その分、家老が利口ならいいではないかという思想である。・・(中略)・・

 それは武家でも百姓でも同じだった。例外は商人である。商家は無能な人間が主人になると店が潰れてしまうから、これは必ずしも長子相続にはしなかった。長男でも器量がなければ遊ばせておき、跡継ぎは有能な番頭を娘の婿にするとか夫婦養子をとるとかして、代々店が続くことを第一優先に考えた。だから必ずしも男系をまもらなかったわけだが、これは例外である。

 “党側幕府のもう一つの特徴として挙げられるのは、きわめて神経質な幕府であったという点である。当時は海外貿易をすると主権者がものすごく儲(もう)かったため、金がなくなると貿易をやった。足利義満は明と勘合(かんごう)貿易を行ったし、中国地方の大内氏や九州地方の大友氏などの大名も皆、貿易で儲けている。秀吉だってそうである。

 ところが、徳川幕府はあまり貿易で儲ける必要はないと考えた。それより、外国に出ている日本人がってくることを恐れた。例えば山田長政(ながまさ)などはシャム(タイの旧称)の日本町の頭領となり、国王から内閣総理大臣のような位を与えられていた。こうした海外に出た日本人たちとゴタゴタするのが嫌だったから、寛永(かんえい)十二年(一六三五)に幕府は日本人の海外渡航と帰国を禁じた。

 今日本にとって厄介な隣人は韓国であり、中国であり、北朝鮮である。韓国人や中国人は海外に出ている人が非常に多い。海外で暮らし、いろいろな知識を得、いろいろな文化に接すると、自国の良さも悪さも分かってくるだろう。反日的な行動をすることがそれぞれの自国の利益にならないことも知るようなっていることだろう。

 我が国は我が国に滞在するそれらの中国人や韓国人に対して反日的な行動をさせないようによく監視するとともに、日本に対して正しい認識をもってもらうようにいろいろ工夫すべきでる。実際そのような工夫は民間レベルで行われているようである。ただ、政府が一貫したきちんとした姿勢をもっていることかどうかは疑問である。      (続く)

2011年11月5日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(65) (20111105)

 今、NHK大河ドラマ『江』で徳川家康の大阪攻めの物語が展開されている。以下、渡部昇一『決定版 日本史』を引用する。

 “家康は・・(中略)・・息子の秀忠(ひでただ)に将軍職を譲り、自らは大御所(おおごしょ)として天下の形勢に目を光らせる二元政治体制を敷いた。しかし、これだけでは天下は安定しないと考えた家康は、その次に福島、黒田、加藤、細川、藤堂などの秀吉の家来たちを大大名にする。すると、いつの間にか豊臣恩顧の大名が徳川恩顧の大名に変わってしまうのである。これは戦国武将の「より大きな領土が欲しい」という本音をくみ取った非常にうまい手であった。・・(中略)・・家康は、やはり大阪を潰して禍根(かこん)を断たなければならないと考えた。

 そこでいよいよ晩年になって、方広寺(ほうこうじ)大仏殿の開眼8かいげん)供養が間近に迫ったところで文句をつけた。方広寺の鐘の銘に「国家安泰(こっかあんこう)」とあるのは「家康」の名を分断することであり、けしからん。しかも、その後の「君臣豊楽子孫殷昌(くんしんほうらくしそんいんじょう)」とあるのは豊臣の子孫が繁栄するという意味だろうと難癖(なんくせ)をつけて、豊臣家と戦争をはじめるのである。これが「大阪の陣」である。・・(中略)・・

 その冬の陣の和平交渉にあたったのは、淀君をはじめとする大阪城の女たちだった。だから豊臣家を滅ぼしたのは女であったといってもよいだろう。これは、歴史を遡れば平家を滅ぼしたのは池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝(みなもとのよりとも)を助けたことに帰結するのと同じである。・・(中略)・・

 なぜ豊臣家では女が口出しできたのかといえば、それは豊臣家が公家化したことによる。武家であったならば、女が口を出すようなシステムは絶対につくらない。

 日本史上女が政治に口を出して成功したのは、唯一、北条政子だけである。・・(中略)・・北条政子が出ると、「女の道」というものが厳粛に定められた。これは女革命といっていいほどのできごとであった。北条政子は「女はどう生きるべきか」という道をはっきり指し示したのである。・・(中略)・・

 女の道というものを政子はしっかり示した。政治に女の出る幕はない。同時に女を政治の犠牲にしてはいけない。それが武家の道というものなのである。

 ところが宮中には女の出る幕がある。それが後醍醐天皇のときの阿野廉子(あのれんし)であり、秀吉のときの淀君だったということになる。

 現代は女性も政界に進出している。将来女性の首相が出る可能性もある。男性が首相であろうと女性が首相であろうと、側近にしっかりと首相を補佐する立場の人間が必要である。私は、男性が首相の場合、有能な女性が主席補佐官としてしっかり首相を補佐するのが望ましい。逆に女性が首相の場合は有能な男性が首席補佐官としてしっかり首相を補佐するのが望ましいと考える。                     (続く)

2011年11月4日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(64) (20111104)

 “一方、秀吉の正妻であるねね(高台院(こうだいいん)には子供がおらず、妾(めかけ)である淀君にこどもができた。淀君の家来たちは、石田三成も含めて秀吉が信長から長浜(ながはま)城をもらったあたりからの家来で、いわゆる文官的な要素のある武士たちだった。ところが加藤清正や福島正則(ふくしままさのり)のように武将らしい武将は尾張(おわり)の出身で、秀吉の正妻ねねが飯を食わせて育てたような者ばかりだった。

 したがって、豊臣政権の仲違いには、「淀君および近江(おうみ)以来の家来」対「高台院と尾張以来の武将」という構図があったのである。

 家康は高台院に対して非常に丁重であったところから、高台院も家康には好意を持って、かつて自分が手塩にかけて育てた武将たちにも「徳川殿には協力しなさい」というようなことをいっていたらしい。これは、やくざの世界にたとえれば、不良少年の頃に食わしてもらっていた大姉御(おおあねご)からいわれたようなものだから、その影響力は大きかったと思われる。

 朝鮮の役の頃、家康は内心、「この出兵は間違っている」と思ったようである。そして次の天下は自分に来ると確信して、本気で勉強をはじめるのである。藤原惺窩(せいか)とか林大学頭(はやしだいがくのかみ)(林述斎(じゅつさい))を教授にしてシナの古典を学ぶのである。

 例えば『論語』を読めば「政(まつりごと)を為(な)すに徳を以(もつ)てすれば、譬(たと)えば北辰(ほくしん)(北極星)の其の所に居て、而(しこう)して衆星(しゅうせい)の之(これ)に共(むか)うが如(ごと)し」(為政(いせい)編)というような徳治政策の教訓が載っている。こうした言葉から、家康は力ではなく徳治の大切さを学んでいくのである。

 さらに重要なのは北条政子も読んだ『貞観政要(じょうかんせいよう)』である。家康もまた『貞観政要』を講義させて研究している。されから『吾妻鏡(あずまかがみ)(東鑑)』を研究している。『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の事績を源三位頼政(げんさんみよりまさ)の挙兵から第六代将軍宗尊(むねたか)親王に至るまで編年体で記した歴史書だが、これは要するに『貞観政要』に書かれた教訓を政治に活かした北条幕府の政治の実情をまとめたものである。それを家康は学ぶのである。

 振り返ってみると、信長も秀吉も『貞観政要』をじっくり勉強するような暇はなかった。その点で、朝鮮の役は家康の将来にとってきわめて重要な基礎をつくる時間になったといえるだろう。”

 政治権力がある者が神話の時代から現代にいたる歴史をよく知らず、また皇国史観もなしに政治を行うというのは、日本国民にとって非常に危険なことである。

戦後失ってしまった日本の精神風土を復活させなければ、日本は1990年以降現実のものとなっているグローバリゼーションの大津波に呑み込まれてしまい、日本は沈んでしまうことだろう。ギリシャの財政破たんに端を発する問題で今EUは大きな危機に直面している。他山の石としなければならない。               (続く)

2011年11月3日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(63) (20111103)

 “秀吉亡きあと、大阪城にいる秀吉の息子秀頼(ひでより)と、徳川家との覇権争いがはじまった。その結果をわれわれはすでに知っているわけだが、豊臣家の滅亡の理由を考えてみると、その一つとして、平家と同じような道をたどったことが挙げられるだろう。平清盛は戦いで天下を取ったが、あとになると全く公家化してしまった。それと同じように、秀頼も、淀君(よどぎみ)も、宮廷化に慣れてしまった。そこに滅亡の一つの理由があったと考えられる。

 それからもう一つは、秀吉になかなか子供ができず、ようやくできた嫡男鶴松(つるまつ)が死んでしまったことである。すでに五十代半ばであった秀吉は、もう子供はあきらめて、甥(おい)の秀次(ひでつぐ)を養子にして家督(かとく)を譲ることを決め、豊臣姓を贈って関白にしている。

 しかし、その二年後に秀頼が生まれた。家督を譲られた秀次は、本当に自分があとを継げるのかという疑念が生じ、秀吉も秀次の二女と秀頼(幼名は拾丸(ひろいまる))を一緒にすることを考えたらしいが、次第にお互いの疑心暗鬼が増大した結果、秀吉は秀次に謀反(むほん)の疑いをかけて荒野山に追放し、切腹させてしまう。

 もしも秀次があとを継いでいれば、豊臣家が残った可能性はかなり高い。小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで家康軍に大敗したように戦争は上手とはいえないが、随分年を取っていたから、それなりの安定感は発揮したものと思われる。また最終的に家康に天下を譲ったとしても、大名として豊臣家が残る道もあったかもしれない。

 それにしても、このときの秀吉の殺し方はひどかった。秀次のみならず、彼の遺児・正室・側室・侍女(じじょ)あわせて三十人近くを処刑しているのである。若い頃の秀吉は人殺しが嫌いで、そのために天下も取れたのだが、晩年の秀吉は別人のようである。この家督相続での秀吉の「ご乱心」が豊臣家の滅亡につながったことは間違いないところだ。

 さらに細かい理由を挙げれば、側近の武将たちの対立がある。豊臣政権は五大老(たいろう)・五奉行(ぶぎょう)が中心となって政治をおこなったが、その五奉行の中で石田三成が飛び抜けて有能で、朝鮮からの引揚げのときも采配(さいはい)を振るい、無事に遂行した。しかし、三成自身は主として内地にいたため、実際に戦った武将たちの怨(うら)みを買うことになった。

 指揮官菅元首相は福島原発事故の初度対処の重要なときに「司令部」をはなれて「戦地」を「視察」した。その結果何が起きたか皆が知っているとおりである。

 大東亜解放戦争のときの辻政信参謀は石田三成に似たようなところがある。彼は相当有能だったらしいが現地の指揮官の意向を無視して幕僚統帥を行い、非常に多くの犠牲者を出してしまった。

 多くの人々の不幸は一人のあるいは少数の者の自信過剰から生じている。政権内の主導権争いは結局のところ関係する者たちの私利私欲によって生じている。     (続く)

2011年11月2日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(62) (20111102)

 “最後まで話がかみ合わないまま、まる三年の間続いた和平交渉は決裂し、慶長二年(一五九七)の初め、第二次朝鮮出兵、慶長の役となるのである。

 慶長の役では日本軍はそれほど進軍せず、文禄の役のときに拠点として築いた海岸地帯の城を守る形での戦いとなった。漢城まで進むのは容易であったが、実際には進む意味もなくなっていた。というのは、前の戦いで朝鮮全土が荒れ果てていたからである。日本軍が荒らしたのみならず、応援に来た明兵も荒らしているから、進んだところで意味がない状態だったのである。

 慶長三年(一五九八)八月一八日、秀吉が伏見城で死んだとの知らせが入り、日本軍は急遽(きゅうきょ)撤退することになるが、その間に三つの重要な戦いがあった。

 一つは釜山近くの蔚山(うるさん)城の戦いである。この戦いでは、築城の途中で敵の大軍に囲まれた加藤清正の軍が籠城(ろうじょう)し、飢餓(きが)に苦しみ玉砕(ぎょくさい)寸前だったところ、毛利秀元(ひでもと)らの援軍が駆けつけて明・朝鮮軍に殲滅(せんめつ)的打撃を与えて撃退した。

 二つ目の戦いは、島津義弘(よしひろ)が指揮を執った泗川(しせん)の戦いである。このとき明の大軍が進撃してきたという報告が来ると、島津義弘は次々に出城を放棄して明の大軍を泗川城に引き寄せた。そして、そこで一気に反転攻勢に出て、四、五万といわれる敵軍に壊滅的な打撃を与えた。

 このときの島津軍のあまりの強さに、明・朝鮮軍は島津軍を「石曼子(シーマンツ)」と呼んで恐れ、島津の名前は日清戦争の頃まで語り継がれることになった。

 三つ目の戦いは露梁津(ろりょうしん)の戦いである。慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉が伏見城で病死したため、毛利輝元(てるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、前田利家(まえだとしいえ)、徳川家康の四大老は朝鮮から引き揚げ命令を出す。適宜(てきぎ)講和を結んで引き揚げて来いというアバウトな命令だった。ところが、その引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の水軍とともに待ち伏せており、島津軍の引揚げ船団と激突した。

 このとき島津軍は戦う準備をしていなかったため、たいへんな苦戦を強(し)いられた。命からがら逃げて助かったというのが通説だが、実際はどうだったろうか。というのも、島津側の主だった武将は誰も戦死していないにもかかわらず、明の水軍は副将鄧子龍(ていしりゅう)が切り殺されているし、朝鮮水軍の大将李舜臣も鉄砲玉に当たって戦死し、さらに数人の幹部が戦死している。これはつまり、島津軍の兵隊たちが銃で応戦し、敵船に斬りこんだことを示している。それを考えると、確かに島津軍にも被害はあっただろうが、一方的に負けて逃げ帰ったという状況であったとは考えにくい。幹部の被害からいえば大勝利である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 鹿児島には慶長の役の引揚時、島津義弘が日本に連れて来た陶工たちが上士の身分と氏姓を与えられた。今、その子孫たちが日本人としての誇りをもって住んでいる。一方韓国プサンには李舜臣の立派な銅像が建っていて韓国人の誇りになっている。    (続く) 

2011年11月1日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(61) (20111101)

 “このとき秀吉は本格的な水軍を準備していなかった。このため小西軍への補給ができなかったのである。元来、秀吉の部隊というのは陸軍ばかりで、藤堂高虎(とうどうたかとら)、脇坂安治(わきさかやすはる)、加藤嘉明(かとうよしあき)といった陸の大将が水軍を率いていた。その水軍も輸送部隊といった感じで、海戦を想定したものではなく、したがって水軍の総司令官も決まっていなかった。

 九鬼嘉隆(くきよしたか)率いる九鬼水軍も参加したが、これにしてもかつて信長の下で戦ったときには毛利の水軍に負け、信長の工夫で鉄張りの船を造ってようやく勝つといった程度だったから、実戦能力は知れたものである。

 こうした日本の水軍の前に朝鮮軍の李舜臣(りしゅんしん)率いる水軍が現れた。日本の水軍も初めは勝ったが、李舜臣は日本の素人(しろうと)同然の水軍を多島海(たとうかい)(多くの島が点在する海)に誘い込み、これを打ち破った。九鬼水軍は多島海に入る危険を知っていたため、そこに入ることはなかったが、それ以外の水軍は皆、そこに引き込まれてやられてしまったのである。

 明の大軍は漢城まで押し寄せてくるが、日本軍も小早川隆景(こばやかわたかかげ)などが中心となって猛反撃をし、文禄(ぶんろく)二年(一五九三)一月二十六日の碧蹄館(へきていかん)の戦いで明の大軍に徹底的な打撃を与えた。明の大将李如松(りじょうしょう)は落馬し、危うく首を掻(か)かれるところを部下に助けられて泡を食って本国まで逃げ帰り、それ以降二度と出てこなかった。

 明軍を撃退した日本軍は無事に撤退し、和平交渉がはじまることになる。秀吉は明に対して七か条の講和条件を与えるが、間に入った通訳がいいかげんで、条件を相手に伝えないどころか、「平和になれば日本は明の属国になるでしょう」と適当なことを吹き込んだ。それを真に受けた明側は「秀吉を日本の王に封じればいいのだろう」くらいに軽く考えていた。また、日本側でも講和条件をめぐってある程度の譲位は致し方なしとする小西行長と、あくまでも秀吉の出した条件に忠実であるべきとする加藤清正の間で対立が生じた。この対立は、行長や石田三成(みつなり)が「清正が明との講和を妨害している」と秀吉に報告し、清正が謹慎させられるという事態にまでこじれていった。”

 日露開戦の御前会議で陸軍は開戦を主張するが海軍は「まだ準備不足」としてなかなか開戦には同意しなかった。(このブログ2011731日日曜日付け「日露戦争前哨戦(補記) (20110731)」参照。「閣僚、元老とも開戦やむなしとの意見であったが、天皇は各発言を深くお聴きになり種々御下問の後「いま一度催促してみよ」と御指示になった。」)

 大東亜解放戦争では山本五十六は開戦に反対であったが、開戦の詔勅に「朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スル」とあるとおりの「大義」に殉ずる覚悟をもって帝国海軍を率いて戦い、敵弾に斃れた。

 日本国の大義は「皇国」として進むべき方向にある。        (続く)

2011年10月31日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(60) (20111031)

 “秀吉は天正十五年の六月に対馬の宗義智(そうよしとも)を九州の箱崎に呼び、「明(もん)に侵攻するため朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけよ」と命じ、「日本を統一した祝いの言葉を述べよ」と、宗家を通じて朝鮮の来朝を促した。しかし当時の李氏(りし)朝鮮は明の朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝(こうぶてい)から位を授かっており、朝鮮という名前をもらっている関係にあり、明の冊封(さくほう)国であった。したがって、秀吉の要求を当然ことのように断った。

 これがきっかけとなって、天正二十年(文禄(ぶんろく)元年/一五九二)、第一次朝鮮出兵、「文禄の役」がはじまるのである。このときの日本軍は非常に強く、四月十二日に竈山(ふざん)に上陸すると、無人の野を行くが如く朝鮮半島を北上し、漢城(かんじょう)(今のソウル)まで押し寄せている。

 日本軍が漢城に到着したとき、すでに都のほとんどは火事で焼けていた。火をつけたのは身分の低い連中で、その者たちは自分たちが奴隷みたいな身分になっているのは戸籍文書があるせいだろうと、文書に火をつけたのである。

 王やその一族は城を逃げ出し、東海岸側と、西海岸側に分かれて逃げた。だが、それに付きしたがう家来は数十人くらいしかいないという惨憺(さんたん)たる様子であった。

 西海岸を逃げた朝鮮王を追ったのが小西行長(こにしゆきなが)(一五五八~一六〇〇)の軍隊である。小西行長は商人の出身であるから、明と戦争するのは賛成ではなかったと思われる。・・(中略)・・朝鮮王はほとんど身一つで国境付近まで逃げ、明に援護を求めるのである。

 一方、東海岸を北上したのは加藤清正(かとうきよまさ)(一五六二~一六一一)の軍であった。こちらは猛烈に追撃して、後の満洲(まんしゅう)国境近くで二人の王子を捕虜にした。・・(中略)・・

 小西行長は平壌(へいじょう)を占領すると、そこから北進せず、朝鮮および明と和平交渉を行った。しかしそれは明側の時間稼ぎにすぎず、明の大軍が到着すると総攻撃を受ける。一時は攻めてきた明の大軍を追い返すが、結局、謀略(ぼうりゃく)に敗れて、命からがら漢城まで逃げてくることになったのである。”

今から420年ほど前、秀吉は明を攻めるため朝鮮半島に大軍を送った。秀吉による朝鮮出兵は明を討伐することが目的であった。当時スペインは日本の武士を使って明に侵攻しようと企んでいたが、秀吉はスペインの意図を逆手にとり自ら明征服を考えていた。それは日本の防衛のためでもあったのだ。

商人出身の小西行長を総指揮官とする部隊は西海岸を北上し今のソウルを占領後、今のピョンヤン(平壌)を占領し、それ以上北上しなかった。朝鮮王は身一つで国境付近まで逃げ、明に助けを求めた。行長はピョンヤンで明・朝鮮側と和平交渉し、明側の謀略にひっかかり命からがらソウルまで退却した。商人ゆえに軍事的詰めが甘かったのだ。

一方、武士出身の加藤清正を総指揮官とする部隊は東海岸を北上し満洲国境付近で二人の王子を捕虜にした。さすが清正、初代肥後(熊本)藩主!         (続く)

2011年10月30日日曜日

秀吉の朝鮮出兵の真実

『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。

 天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

 秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

 秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583618日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

 当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。

コエリョは158533日付のフィリピン・イエズス会布教長宛て手紙で「もしも国王陛下の援助で日本66ヵ国全てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層容易にシナを征服することができるであろう」と書いている。 

秀吉はコエリョが秀吉に明(当時のシナ(今の中国)の王朝の国)への軍隊派遣を要請した直後の158554日、コエリョに対して逆に自らの明征服計画を披歴し、ポルトガルの軍艦2隻を所望した。当時、ポルトガルはスペインの支配下にあった。

秀吉は朝鮮出兵前年の天正19年(1591年)、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて、コエリョを恫喝している。

秀吉がフィリッピン総督に送った書状は今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(59) (20111030)

 “天文(てんぶん)十八年(一五四九)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってくる。ザビエルは二年間の滞在中に薩摩の島津貴久(たかひさ)や周防(すおう)の大内義隆(よしたか)、豊後(ぶんご)の大友義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))などと謁見(えっけん)している。また天分十二年には種子島に漂着したポルトガル人が日本に初めて鉄砲を伝えた。・・(中略)・・

 この頃は、東南アジアに西洋の勢力が伸びてきた時代であった。その時代の風潮もあったのか、日本人の知らなかったアジアの情報が伝わってきていたようで、明(みん)などはそれほど強くないらしいという話があった。それを聞いた秀吉は、天下統一を果たした後は明を征服しようという気を起こしたようである。

 その理由はいろいろ推し量られるが、秀吉がまだ織田家臣団の中でも地位の低い頃から大陸に関心を示していたのは確かである。一例を挙げれば、天正五年(一五七七)十月に、秀吉は信長から対毛利中国派遣軍の総司令官を命じられている。そのとき信長「中国を征服したらお前にやろう」というと、秀吉はこう答えているのである。

 「それはすべてほかの大将に与えてください。私は信長公のご威光を朝鮮・大明国(だいみんこく)に輝かせますから、そこで領地を頂きたい」・・(中略)・・

 また天正十五年(一五八七)の九州征伐のときも、秀吉は毛利輝元(てるもと)に対し、「自分は高麗(こうらい)に渡る」といっており、別のところでは明国まで行こうというような話もしている。

 そして天下を取ってみると、日本中に何度も戦争を経験している武士がゴロゴロしており、その中には自分は大陸の領地をもらいたいという人間もいた。そういうところから、明を取ろうじゃないかという、今から見れば誇大妄想的な計画を実行に移すことを考え始めたようである。”

 私の先祖有田氏は豊前田川の田川氏に発する。田川氏は公家でありながら京都に住まず田川庄に土着豪族となった藤原隆輔を祖としており、田川氏の一族に安田氏・有田氏等がいた。その豊前田川郡は秀吉の九州征伐の結果、森(毛利)吉成に与えられた。また有田氏の子孫が住んだ豊後は秀吉による九州征伐後大友宗麟没後長男義統(よしむね)に安堵されが、秀吉の九州征伐前まで大友宗麟は豊後・筑後に勢力を延ばしていた。

 その豊後国の豊後高田庄(現在の大分市皆春などの一帯)は昔藤原摂関家の領地であったが秀吉による小藩分割政策の結果熊本藩・延岡藩等の領地として分割された。平安時代末期に京都から下って来た藤原氏姓の官人が豊後高田庄で53歳のとき病没し、後にその墓所が有田屋鋪内に納められた。その子孫は名字を有田、氏姓を藤原と名乗り大友屋方に厚遇されていたが大友家没落とともに没落し、以降代々門田高畠(現在は皆春の高畑地区)を本拠として農業に従事し、曾祖父の代に善福寺の台地に転住した。

 どの家々も栄枯盛衰であるが自分の家の先祖のことや伝承などを子どもに伝えるということは重要である。同様に国家としても日本の神話時代からの正しい歴史や伝統や文化などを次世代の子どもたちによく伝えてゆくことが大変重要である。     (続く)

2011年10月29日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(58) (20111029)

 “信長は明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、天正十年(一五八二)、京都の本能寺(ほんのうじ)で命を落とす(本能寺(ほんのうじ)の変)。そして明智を山崎の戦いで討ち、柴田勝家や徳川家康などのライバルをしりぞけて信長のあとを継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって、天下は統一されることになる。

 その統一のシンボルとして秀吉が徹底的に祭り上げたのが朝廷である。秀吉は関白(かんぱく)・太政大臣(だじょうだいじん)になるときに、平清盛の真似をしてご落胤(らくいん)説までつくっている。

 秀吉の皇室尊重というのは画期的なもので、大名たちにも「子子孫孫まで皇室に仕え、忠誠を誓う」という文書を提出させている。それは関白太政大臣である自分に忠誠を誓わせることにほかならないが、自分の背後に天皇があることを強く印象づけるものである。秀吉自身の身分が低いだけに、皇室を背後に統治を行うことを考えたのだろう。信長が気づいたように、皇室の力とはそれほど強力なものなのである。したがって、その後も大名は皆、宮廷から位をもらってみずからの格を上げていくという形をとるようになっていく。

・・(中略)・・秀吉は皇室、宮廷を徹底的に奉(たてまつ)ったのである。江戸時代の儒者林羅山(はやしらざん)にいわせれば「天皇を利用する」ことによって、秀吉は天下統一を果たすのである。”

 “天下を統一した秀吉が政治面で徹底して行ったのが、天正(てんしょう)十年(一五八二)にはじめた「太閤検地(たいこうけんち)」である。これは信長が手がけていたものを秀吉がさらに推し進め、全国的に徹底したものである。・・(中略)・・

 この頃の秀吉は民への目配せも十分に行い、検地をおこなう際には民衆に迷惑をかけてはいけない、お金も受け取るなという厳重な命令を出している。税法改正にはいつの時代にも‘取られる側’の不満が募るものだが、この太閤検地に関しては例外的にうまくいった。事実、天正十三年(一五八五)から文禄(ぶんろく)四年(一五九五)までの約十年間に一揆(いっき)のような騒動は一度も起こらなかったから、これは不思議なくらいの成功だったといえるだろう。”

 特に戦国時代以降古の名家のほとんどは没落し、新興の武家の配下になったり一般の民百姓に落ちぶれたりした。京都の公家の子女は地方でそれなりの家格の家に嫁ぎ、そこで子をもうけた。皇室の子孫も天皇になった方以外は僧になったり臣籍降下して一般の民になっていった。しかし身分が下っても地縁血縁の狭い地域社会では家柄は伝承された。

幾世紀も経て高貴な血統の遺伝子は日本全国に拡散し、現代に生きるわれわれの血の中に多かれ少なかれ含まれている。秀吉は平清盛の真似をしてご落胤説をつくったが秀吉の先祖に皇族の遺伝子が入っていたかもしれない。名馬の遺伝子がない親馬からは名馬となる素質を持つ馬は決して生まれないのである。しかし折角名馬の遺伝子を持って生まれてもよく育てられなければ決し名馬にはならないのである。        (続く)