2011年10月30日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(59) (20111030)

 “天文(てんぶん)十八年(一五四九)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってくる。ザビエルは二年間の滞在中に薩摩の島津貴久(たかひさ)や周防(すおう)の大内義隆(よしたか)、豊後(ぶんご)の大友義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))などと謁見(えっけん)している。また天分十二年には種子島に漂着したポルトガル人が日本に初めて鉄砲を伝えた。・・(中略)・・

 この頃は、東南アジアに西洋の勢力が伸びてきた時代であった。その時代の風潮もあったのか、日本人の知らなかったアジアの情報が伝わってきていたようで、明(みん)などはそれほど強くないらしいという話があった。それを聞いた秀吉は、天下統一を果たした後は明を征服しようという気を起こしたようである。

 その理由はいろいろ推し量られるが、秀吉がまだ織田家臣団の中でも地位の低い頃から大陸に関心を示していたのは確かである。一例を挙げれば、天正五年(一五七七)十月に、秀吉は信長から対毛利中国派遣軍の総司令官を命じられている。そのとき信長「中国を征服したらお前にやろう」というと、秀吉はこう答えているのである。

 「それはすべてほかの大将に与えてください。私は信長公のご威光を朝鮮・大明国(だいみんこく)に輝かせますから、そこで領地を頂きたい」・・(中略)・・

 また天正十五年(一五八七)の九州征伐のときも、秀吉は毛利輝元(てるもと)に対し、「自分は高麗(こうらい)に渡る」といっており、別のところでは明国まで行こうというような話もしている。

 そして天下を取ってみると、日本中に何度も戦争を経験している武士がゴロゴロしており、その中には自分は大陸の領地をもらいたいという人間もいた。そういうところから、明を取ろうじゃないかという、今から見れば誇大妄想的な計画を実行に移すことを考え始めたようである。”

 私の先祖有田氏は豊前田川の田川氏に発する。田川氏は公家でありながら京都に住まず田川庄に土着豪族となった藤原隆輔を祖としており、田川氏の一族に安田氏・有田氏等がいた。その豊前田川郡は秀吉の九州征伐の結果、森(毛利)吉成に与えられた。また有田氏の子孫が住んだ豊後は秀吉による九州征伐後大友宗麟没後長男義統(よしむね)に安堵されが、秀吉の九州征伐前まで大友宗麟は豊後・筑後に勢力を延ばしていた。

 その豊後国の豊後高田庄(現在の大分市皆春などの一帯)は昔藤原摂関家の領地であったが秀吉による小藩分割政策の結果熊本藩・延岡藩等の領地として分割された。平安時代末期に京都から下って来た藤原氏姓の官人が豊後高田庄で53歳のとき病没し、後にその墓所が有田屋鋪内に納められた。その子孫は名字を有田、氏姓を藤原と名乗り大友屋方に厚遇されていたが大友家没落とともに没落し、以降代々門田高畠(現在は皆春の高畑地区)を本拠として農業に従事し、曾祖父の代に善福寺の台地に転住した。

 どの家々も栄枯盛衰であるが自分の家の先祖のことや伝承などを子どもに伝えるということは重要である。同様に国家としても日本の神話時代からの正しい歴史や伝統や文化などを次世代の子どもたちによく伝えてゆくことが大変重要である。     (続く)

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