2011年11月3日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(63) (20111103)

 “秀吉亡きあと、大阪城にいる秀吉の息子秀頼(ひでより)と、徳川家との覇権争いがはじまった。その結果をわれわれはすでに知っているわけだが、豊臣家の滅亡の理由を考えてみると、その一つとして、平家と同じような道をたどったことが挙げられるだろう。平清盛は戦いで天下を取ったが、あとになると全く公家化してしまった。それと同じように、秀頼も、淀君(よどぎみ)も、宮廷化に慣れてしまった。そこに滅亡の一つの理由があったと考えられる。

 それからもう一つは、秀吉になかなか子供ができず、ようやくできた嫡男鶴松(つるまつ)が死んでしまったことである。すでに五十代半ばであった秀吉は、もう子供はあきらめて、甥(おい)の秀次(ひでつぐ)を養子にして家督(かとく)を譲ることを決め、豊臣姓を贈って関白にしている。

 しかし、その二年後に秀頼が生まれた。家督を譲られた秀次は、本当に自分があとを継げるのかという疑念が生じ、秀吉も秀次の二女と秀頼(幼名は拾丸(ひろいまる))を一緒にすることを考えたらしいが、次第にお互いの疑心暗鬼が増大した結果、秀吉は秀次に謀反(むほん)の疑いをかけて荒野山に追放し、切腹させてしまう。

 もしも秀次があとを継いでいれば、豊臣家が残った可能性はかなり高い。小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで家康軍に大敗したように戦争は上手とはいえないが、随分年を取っていたから、それなりの安定感は発揮したものと思われる。また最終的に家康に天下を譲ったとしても、大名として豊臣家が残る道もあったかもしれない。

 それにしても、このときの秀吉の殺し方はひどかった。秀次のみならず、彼の遺児・正室・側室・侍女(じじょ)あわせて三十人近くを処刑しているのである。若い頃の秀吉は人殺しが嫌いで、そのために天下も取れたのだが、晩年の秀吉は別人のようである。この家督相続での秀吉の「ご乱心」が豊臣家の滅亡につながったことは間違いないところだ。

 さらに細かい理由を挙げれば、側近の武将たちの対立がある。豊臣政権は五大老(たいろう)・五奉行(ぶぎょう)が中心となって政治をおこなったが、その五奉行の中で石田三成が飛び抜けて有能で、朝鮮からの引揚げのときも采配(さいはい)を振るい、無事に遂行した。しかし、三成自身は主として内地にいたため、実際に戦った武将たちの怨(うら)みを買うことになった。

 指揮官菅元首相は福島原発事故の初度対処の重要なときに「司令部」をはなれて「戦地」を「視察」した。その結果何が起きたか皆が知っているとおりである。

 大東亜解放戦争のときの辻政信参謀は石田三成に似たようなところがある。彼は相当有能だったらしいが現地の指揮官の意向を無視して幕僚統帥を行い、非常に多くの犠牲者を出してしまった。

 多くの人々の不幸は一人のあるいは少数の者の自信過剰から生じている。政権内の主導権争いは結局のところ関係する者たちの私利私欲によって生じている。     (続く)

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