2011年10月31日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(60) (20111031)

 “秀吉は天正十五年の六月に対馬の宗義智(そうよしとも)を九州の箱崎に呼び、「明(もん)に侵攻するため朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけよ」と命じ、「日本を統一した祝いの言葉を述べよ」と、宗家を通じて朝鮮の来朝を促した。しかし当時の李氏(りし)朝鮮は明の朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝(こうぶてい)から位を授かっており、朝鮮という名前をもらっている関係にあり、明の冊封(さくほう)国であった。したがって、秀吉の要求を当然ことのように断った。

 これがきっかけとなって、天正二十年(文禄(ぶんろく)元年/一五九二)、第一次朝鮮出兵、「文禄の役」がはじまるのである。このときの日本軍は非常に強く、四月十二日に竈山(ふざん)に上陸すると、無人の野を行くが如く朝鮮半島を北上し、漢城(かんじょう)(今のソウル)まで押し寄せている。

 日本軍が漢城に到着したとき、すでに都のほとんどは火事で焼けていた。火をつけたのは身分の低い連中で、その者たちは自分たちが奴隷みたいな身分になっているのは戸籍文書があるせいだろうと、文書に火をつけたのである。

 王やその一族は城を逃げ出し、東海岸側と、西海岸側に分かれて逃げた。だが、それに付きしたがう家来は数十人くらいしかいないという惨憺(さんたん)たる様子であった。

 西海岸を逃げた朝鮮王を追ったのが小西行長(こにしゆきなが)(一五五八~一六〇〇)の軍隊である。小西行長は商人の出身であるから、明と戦争するのは賛成ではなかったと思われる。・・(中略)・・朝鮮王はほとんど身一つで国境付近まで逃げ、明に援護を求めるのである。

 一方、東海岸を北上したのは加藤清正(かとうきよまさ)(一五六二~一六一一)の軍であった。こちらは猛烈に追撃して、後の満洲(まんしゅう)国境近くで二人の王子を捕虜にした。・・(中略)・・

 小西行長は平壌(へいじょう)を占領すると、そこから北進せず、朝鮮および明と和平交渉を行った。しかしそれは明側の時間稼ぎにすぎず、明の大軍が到着すると総攻撃を受ける。一時は攻めてきた明の大軍を追い返すが、結局、謀略(ぼうりゃく)に敗れて、命からがら漢城まで逃げてくることになったのである。”

今から420年ほど前、秀吉は明を攻めるため朝鮮半島に大軍を送った。秀吉による朝鮮出兵は明を討伐することが目的であった。当時スペインは日本の武士を使って明に侵攻しようと企んでいたが、秀吉はスペインの意図を逆手にとり自ら明征服を考えていた。それは日本の防衛のためでもあったのだ。

商人出身の小西行長を総指揮官とする部隊は西海岸を北上し今のソウルを占領後、今のピョンヤン(平壌)を占領し、それ以上北上しなかった。朝鮮王は身一つで国境付近まで逃げ、明に助けを求めた。行長はピョンヤンで明・朝鮮側と和平交渉し、明側の謀略にひっかかり命からがらソウルまで退却した。商人ゆえに軍事的詰めが甘かったのだ。

一方、武士出身の加藤清正を総指揮官とする部隊は東海岸を北上し満洲国境付近で二人の王子を捕虜にした。さすが清正、初代肥後(熊本)藩主!         (続く)

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