2011年11月6日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(66) (20111106)

 “夏の陣によって大阪城が落ちたのは慶長十二年(元和(げんな)元年/一六一五)のことであった。このとき徳川幕府は「元和偃武(えんぶ)」を宣言した。「偃武」とは「武を置くこと」、すなわち戦いをやめて平和政権をつくるという意志を示し、世が太平になったことを指している。天下は徳川家の下に統一されたのである。・・(中略)・・

何より戦国時代はリーダーというものが重要である。大将が無能であれば軍は全滅してしまう。ゆえに、必ずしも君主の長男を相続させることはしなかった。無能な長男ならば仏門に入れるか、方策がいろいろ考えられた。戦国時代は能力主義の時代なのである。

 ところが家康は、「元和偃武」によって平和な時代になると、その考え方を百八十度転換させた。つまり、能力主義から長子(ちょうし)相続主義に変えたのである。・・中略)・・

 能力主義の中で生き抜いた家康が、天下が平穏になったらもう能力主義は必要ないと考えた、長子制度に切り替えたことは後々まで大きな影響を及ぼした。要するに家康が確立したのは、「殿様は無能でもいい」という原理なのである。相続をめぐってお家騒動が起こるくらいなら無能でもいい。その分、家老が利口ならいいではないかという思想である。・・(中略)・・

 それは武家でも百姓でも同じだった。例外は商人である。商家は無能な人間が主人になると店が潰れてしまうから、これは必ずしも長子相続にはしなかった。長男でも器量がなければ遊ばせておき、跡継ぎは有能な番頭を娘の婿にするとか夫婦養子をとるとかして、代々店が続くことを第一優先に考えた。だから必ずしも男系をまもらなかったわけだが、これは例外である。

 “党側幕府のもう一つの特徴として挙げられるのは、きわめて神経質な幕府であったという点である。当時は海外貿易をすると主権者がものすごく儲(もう)かったため、金がなくなると貿易をやった。足利義満は明と勘合(かんごう)貿易を行ったし、中国地方の大内氏や九州地方の大友氏などの大名も皆、貿易で儲けている。秀吉だってそうである。

 ところが、徳川幕府はあまり貿易で儲ける必要はないと考えた。それより、外国に出ている日本人がってくることを恐れた。例えば山田長政(ながまさ)などはシャム(タイの旧称)の日本町の頭領となり、国王から内閣総理大臣のような位を与えられていた。こうした海外に出た日本人たちとゴタゴタするのが嫌だったから、寛永(かんえい)十二年(一六三五)に幕府は日本人の海外渡航と帰国を禁じた。

 今日本にとって厄介な隣人は韓国であり、中国であり、北朝鮮である。韓国人や中国人は海外に出ている人が非常に多い。海外で暮らし、いろいろな知識を得、いろいろな文化に接すると、自国の良さも悪さも分かってくるだろう。反日的な行動をすることがそれぞれの自国の利益にならないことも知るようなっていることだろう。

 我が国は我が国に滞在するそれらの中国人や韓国人に対して反日的な行動をさせないようによく監視するとともに、日本に対して正しい認識をもってもらうようにいろいろ工夫すべきでる。実際そのような工夫は民間レベルで行われているようである。ただ、政府が一貫したきちんとした姿勢をもっていることかどうかは疑問である。      (続く)

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