2011年11月7日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(67) (20111107)

“また明が清から攻められて亡びそうになったとき、鄭成功(ていせいこう)が台湾を拠点に抵抗していた。明は徳川幕府に対して援軍の要請や物資援助を繰り返し求めてきたが、結局、正式な援助はしなかった。もしあのとき助けていれば、台湾と山東(さんとう)半島くらいは日本の領土になっていたかもしれないが、むしろ清とのトラブルにならないことを優先して一切動かなかったのである。

幕府は貿易を無視してでも国内の封建体制を確固にすることを考え、寛永十年(一六三三)から同十六年(一六三九)の間に五回にわたって鎖国(さこく)令を出し、少しづつ鎖国体制を強化していく。その名目とされたのがキリスト教の禁止であった。外国に多数いるキリシタンが同盟して攻めて来たら大変だというわけで、とにかく海外に門戸を開くことに神経質になったのである。

 ただ例外的に長崎に出島(でじま)をもうけ、オランダ(東インド会社)に対しては一年に一隻(せき)は来てもいいなど、シナや朝鮮との非公式な貿易は禁止しないことにした。その点で完全に門戸を閉ざしたわけではないが外への拡張をめざすよりも内政重視の政権であったことは間違いない。これも徳川時代が長く平和を保った一つの理由である。”

 “海外との関係を遮断する一方、国内では家康の学問好きが広く浸透して、儒学の最盛期を迎えることになった。朱子学(しゅしがく)を中心とする正統派の林家だけではなく、朱子学だけでは足りない伊藤仁斎(いとうじんさい)の古義学、荻生徂徠(おぎゆうそらい)の古文辞学など古学派、中江藤樹(なかえとうじゅ)の陽明学など多くの学者が出て、非常に賑やかになった。

 これは同じ儒教が入った国でも朝鮮とは大いに異なっている。朝鮮には李退渓(りたいけい)という偉い学者が出たが、それ以外には進展はなく、朱子学一本だけだったのである。しかし学問というものは、原典批判を抑制されると発展しない。

 宗教改革以降にヨーロッパが栄えた理由は、聖書を自由に解釈し、勝手な意見をいえるようになったからだといわれる。一方、イスラムの発展が止まったのはイスラム教典に文句をいえないからとされる。ここからも明らかなように、『論語』に対して、いろんな意見をいう人が出てくることは、むしろ望ましいことであった。朝鮮では李退渓の学問に文句をいえなくなったために、文化が固まってしまったのである。

 江戸時代の日本には溌剌(はつらつ)としたいろいろな学派、学者が出たために、儒学は大いに発展していくことになったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』)

 この点仏教でもこの日本で似たような発展があった。仏教の各宗派がそれである。日本人は入ってきた文化を消化してさらに発展させる能力をもっている。これは日本人の遺伝子にそのようなものがあるからだろうと思う。

 私は徳川幕府が長く続いたもう一つの理由として祖霊崇拝があったと思う。徳川家康は東照宮を拠点として崇拝されてきた。この日本も天皇崇敬と伊勢神宮等参拝が日本を末代まで平和に、そして繁栄させるポイントだと思う。また日本人はこの国のため命を捧げた数多の英霊たちを祀る靖国神社を大事しなければ、必ず罰を受けるだろう。   (続く)

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