2011年11月2日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(62) (20111102)

 “最後まで話がかみ合わないまま、まる三年の間続いた和平交渉は決裂し、慶長二年(一五九七)の初め、第二次朝鮮出兵、慶長の役となるのである。

 慶長の役では日本軍はそれほど進軍せず、文禄の役のときに拠点として築いた海岸地帯の城を守る形での戦いとなった。漢城まで進むのは容易であったが、実際には進む意味もなくなっていた。というのは、前の戦いで朝鮮全土が荒れ果てていたからである。日本軍が荒らしたのみならず、応援に来た明兵も荒らしているから、進んだところで意味がない状態だったのである。

 慶長三年(一五九八)八月一八日、秀吉が伏見城で死んだとの知らせが入り、日本軍は急遽(きゅうきょ)撤退することになるが、その間に三つの重要な戦いがあった。

 一つは釜山近くの蔚山(うるさん)城の戦いである。この戦いでは、築城の途中で敵の大軍に囲まれた加藤清正の軍が籠城(ろうじょう)し、飢餓(きが)に苦しみ玉砕(ぎょくさい)寸前だったところ、毛利秀元(ひでもと)らの援軍が駆けつけて明・朝鮮軍に殲滅(せんめつ)的打撃を与えて撃退した。

 二つ目の戦いは、島津義弘(よしひろ)が指揮を執った泗川(しせん)の戦いである。このとき明の大軍が進撃してきたという報告が来ると、島津義弘は次々に出城を放棄して明の大軍を泗川城に引き寄せた。そして、そこで一気に反転攻勢に出て、四、五万といわれる敵軍に壊滅的な打撃を与えた。

 このときの島津軍のあまりの強さに、明・朝鮮軍は島津軍を「石曼子(シーマンツ)」と呼んで恐れ、島津の名前は日清戦争の頃まで語り継がれることになった。

 三つ目の戦いは露梁津(ろりょうしん)の戦いである。慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉が伏見城で病死したため、毛利輝元(てるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、前田利家(まえだとしいえ)、徳川家康の四大老は朝鮮から引き揚げ命令を出す。適宜(てきぎ)講和を結んで引き揚げて来いというアバウトな命令だった。ところが、その引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の水軍とともに待ち伏せており、島津軍の引揚げ船団と激突した。

 このとき島津軍は戦う準備をしていなかったため、たいへんな苦戦を強(し)いられた。命からがら逃げて助かったというのが通説だが、実際はどうだったろうか。というのも、島津側の主だった武将は誰も戦死していないにもかかわらず、明の水軍は副将鄧子龍(ていしりゅう)が切り殺されているし、朝鮮水軍の大将李舜臣も鉄砲玉に当たって戦死し、さらに数人の幹部が戦死している。これはつまり、島津軍の兵隊たちが銃で応戦し、敵船に斬りこんだことを示している。それを考えると、確かに島津軍にも被害はあっただろうが、一方的に負けて逃げ帰ったという状況であったとは考えにくい。幹部の被害からいえば大勝利である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 鹿児島には慶長の役の引揚時、島津義弘が日本に連れて来た陶工たちが上士の身分と氏姓を与えられた。今、その子孫たちが日本人としての誇りをもって住んでいる。一方韓国プサンには李舜臣の立派な銅像が建っていて韓国人の誇りになっている。    (続く) 

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