2011年10月29日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(58) (20111029)

 “信長は明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、天正十年(一五八二)、京都の本能寺(ほんのうじ)で命を落とす(本能寺(ほんのうじ)の変)。そして明智を山崎の戦いで討ち、柴田勝家や徳川家康などのライバルをしりぞけて信長のあとを継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって、天下は統一されることになる。

 その統一のシンボルとして秀吉が徹底的に祭り上げたのが朝廷である。秀吉は関白(かんぱく)・太政大臣(だじょうだいじん)になるときに、平清盛の真似をしてご落胤(らくいん)説までつくっている。

 秀吉の皇室尊重というのは画期的なもので、大名たちにも「子子孫孫まで皇室に仕え、忠誠を誓う」という文書を提出させている。それは関白太政大臣である自分に忠誠を誓わせることにほかならないが、自分の背後に天皇があることを強く印象づけるものである。秀吉自身の身分が低いだけに、皇室を背後に統治を行うことを考えたのだろう。信長が気づいたように、皇室の力とはそれほど強力なものなのである。したがって、その後も大名は皆、宮廷から位をもらってみずからの格を上げていくという形をとるようになっていく。

・・(中略)・・秀吉は皇室、宮廷を徹底的に奉(たてまつ)ったのである。江戸時代の儒者林羅山(はやしらざん)にいわせれば「天皇を利用する」ことによって、秀吉は天下統一を果たすのである。”

 “天下を統一した秀吉が政治面で徹底して行ったのが、天正(てんしょう)十年(一五八二)にはじめた「太閤検地(たいこうけんち)」である。これは信長が手がけていたものを秀吉がさらに推し進め、全国的に徹底したものである。・・(中略)・・

 この頃の秀吉は民への目配せも十分に行い、検地をおこなう際には民衆に迷惑をかけてはいけない、お金も受け取るなという厳重な命令を出している。税法改正にはいつの時代にも‘取られる側’の不満が募るものだが、この太閤検地に関しては例外的にうまくいった。事実、天正十三年(一五八五)から文禄(ぶんろく)四年(一五九五)までの約十年間に一揆(いっき)のような騒動は一度も起こらなかったから、これは不思議なくらいの成功だったといえるだろう。”

 特に戦国時代以降古の名家のほとんどは没落し、新興の武家の配下になったり一般の民百姓に落ちぶれたりした。京都の公家の子女は地方でそれなりの家格の家に嫁ぎ、そこで子をもうけた。皇室の子孫も天皇になった方以外は僧になったり臣籍降下して一般の民になっていった。しかし身分が下っても地縁血縁の狭い地域社会では家柄は伝承された。

幾世紀も経て高貴な血統の遺伝子は日本全国に拡散し、現代に生きるわれわれの血の中に多かれ少なかれ含まれている。秀吉は平清盛の真似をしてご落胤説をつくったが秀吉の先祖に皇族の遺伝子が入っていたかもしれない。名馬の遺伝子がない親馬からは名馬となる素質を持つ馬は決して生まれないのである。しかし折角名馬の遺伝子を持って生まれてもよく育てられなければ決し名馬にはならないのである。        (続く)

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