2011年11月13日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(73) (20111113)

 “水野忠邦が失脚してから十年後の嘉永六年(一八五三)アメリカのマシュー・ペリーが 黒船で浦賀(うらが)に来航した。それまでにも文化元年(一八〇四)にはロシアのレザノフが通商を求めて長崎に来航し、同五年(一八〇八)にイギリスの軍艦フェートン号が長崎に侵入する事件があったが、幕府は文政(ぶんせい)八年(一八二五)に異国船撃払令を出す程度で真剣に対応してこなかった。

 しかし、ペリーの要求は強硬にして執拗(しつよう)だったので、幕府は対処しきれなくなって老中首座であった阿部正弘(あべまさひろ)は諸大名に対応を相談する。しかしこれは徳川幕府としてはやってはいけないことであった。そもそも鎖国をしたのは幕府なのだから、開国したほうがいいと判断したなら勝手にそうすればよかったのである。

 相談された大名たちはそれぞれ勝手な意見を述べた。その結果、国政を合議制で決定しようという「公議輿論(こうぎよろん)」の考え方だけが広がり、幕府の権威を下げることになってしまった。

 阿部正弘のあとを継いだ堀田正睦(ほたまさよし)は開国派だたが、阿部と同じ失敗をした。安政(あんせい)三年(一八五六)に来日したアメリカの駐日総領事タウンゼント・ハリスが携えてきた上申書を諸大名に示し、開港通商に関して各大名の意見を求めたのである。さらに安政五年(一八五八)二月、堀田は京に上り参内(さんない)して事情を述べて、日米修好通商条約調印の許可を朝廷に求めた。

 これによって幕府は崩壊への道を歩みはじめたといってよいだろう。朝廷に外交に関する国政への発言権が生れたのである。皇帝の公家たちの会議では議論が沸騰(ふっとう)し、結局、堀田に修好不許可の勅諭(ちょくゆ)書を授けた。

 この直後の四月、幕府は堀田に代えて井伊直弼(いいなおすけ)(一八五一~一八六〇)を大老にした。そして六月にはアメリカの軍艦二隻が下田にやって来た。またロシアのプチャーチンも下田に来た。ハリスも再び軍艦で神奈川に来て調印をうながした。

 これに対して幕府の中で「条約調印に勅許(ちょっきょ)は不要である」という正論があった。井伊大老はこれに反対だったが、やがてその意見に屈して、ついに安政五年五月十九日、神奈川において日米修好通商条約が調印されることになった。”

 日米修好条約調印にいたる状況は、いまTPPで揺れている状況と重なって見える。アメリカは自国が世界中で自由に貿易できる環境を求めて、武力をちらつかせながら諸制限の解除を求めてきた。もしその自由貿易の妨げになるならば地政学的な支配領域を武力で拡げてきた。それがハワイ併合でありフィリッピンの支配である。日本と武力衝突し、日本を占領したが、日本がその自由貿易の要になると見ると占領地を全部返還した。ただでは返還せず、秘密裏に日本から沢山の金を取った。アメリカにとって富の確保が至上命題である。そのため今、アメリカは日本の頭越しに中国に接近している。そのようなアメリカであるが、日本とアメリカの間には離れることは出来ない深い絆がある。  (続く)

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