2011年11月5日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(65) (20111105)

 今、NHK大河ドラマ『江』で徳川家康の大阪攻めの物語が展開されている。以下、渡部昇一『決定版 日本史』を引用する。

 “家康は・・(中略)・・息子の秀忠(ひでただ)に将軍職を譲り、自らは大御所(おおごしょ)として天下の形勢に目を光らせる二元政治体制を敷いた。しかし、これだけでは天下は安定しないと考えた家康は、その次に福島、黒田、加藤、細川、藤堂などの秀吉の家来たちを大大名にする。すると、いつの間にか豊臣恩顧の大名が徳川恩顧の大名に変わってしまうのである。これは戦国武将の「より大きな領土が欲しい」という本音をくみ取った非常にうまい手であった。・・(中略)・・家康は、やはり大阪を潰して禍根(かこん)を断たなければならないと考えた。

 そこでいよいよ晩年になって、方広寺(ほうこうじ)大仏殿の開眼8かいげん)供養が間近に迫ったところで文句をつけた。方広寺の鐘の銘に「国家安泰(こっかあんこう)」とあるのは「家康」の名を分断することであり、けしからん。しかも、その後の「君臣豊楽子孫殷昌(くんしんほうらくしそんいんじょう)」とあるのは豊臣の子孫が繁栄するという意味だろうと難癖(なんくせ)をつけて、豊臣家と戦争をはじめるのである。これが「大阪の陣」である。・・(中略)・・

 その冬の陣の和平交渉にあたったのは、淀君をはじめとする大阪城の女たちだった。だから豊臣家を滅ぼしたのは女であったといってもよいだろう。これは、歴史を遡れば平家を滅ぼしたのは池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝(みなもとのよりとも)を助けたことに帰結するのと同じである。・・(中略)・・

 なぜ豊臣家では女が口出しできたのかといえば、それは豊臣家が公家化したことによる。武家であったならば、女が口を出すようなシステムは絶対につくらない。

 日本史上女が政治に口を出して成功したのは、唯一、北条政子だけである。・・(中略)・・北条政子が出ると、「女の道」というものが厳粛に定められた。これは女革命といっていいほどのできごとであった。北条政子は「女はどう生きるべきか」という道をはっきり指し示したのである。・・(中略)・・

 女の道というものを政子はしっかり示した。政治に女の出る幕はない。同時に女を政治の犠牲にしてはいけない。それが武家の道というものなのである。

 ところが宮中には女の出る幕がある。それが後醍醐天皇のときの阿野廉子(あのれんし)であり、秀吉のときの淀君だったということになる。

 現代は女性も政界に進出している。将来女性の首相が出る可能性もある。男性が首相であろうと女性が首相であろうと、側近にしっかりと首相を補佐する立場の人間が必要である。私は、男性が首相の場合、有能な女性が主席補佐官としてしっかり首相を補佐するのが望ましい。逆に女性が首相の場合は有能な男性が首席補佐官としてしっかり首相を補佐するのが望ましいと考える。                     (続く)

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