2011年11月8日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(68) (20111108)
 “江戸時代は商業が大いに発達したことも特筆すべきであろう。平和な時代で、大名も隣国から攻められる恐れが全くなかったため、武による競い合いではなく、名産物を作って隣の藩に負けないようにと競争をするようになった。これは封建制の一つの特徴であって、朝鮮と比べると一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。すなわち朝鮮では封建制がなかっために名物がない。
 そして、それが「天下の台所」と呼ばれた大阪に集まり、全国にさばかれた。これもまた面白い現象である。江戸だけが日本の中心となるのではなく、大阪というも一つの中心ができたのである。大阪は一種の天領(てんりょう)(幕府の直轄領)であって、統治する者は代官くらいしかいなかったため、非常に自由度が高かった。そこに全国各地から物品が集められ、一つの大経済圏を形成することになったのである。
 当時は陸上交通がまだ不便であったため、例えば山形庄内の米なであれば、すべて酒田に集められ、そこで船積みされて日本海を進み、関門海峡から瀬戸内海に入って大阪まで運ばれていた。いわゆる北前船である。
 そのため、大阪には各大名の米蔵ができ、米の相場が立った。実は世界最初の先物取引市場が整備されたのも大阪・堂島である。イギリスのリバプールに綿花の取引所ができるのは、それからだいぶ経った頃である。
 これは大阪の民度を上げることにつながった。だから学問でも、幕末には緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)が大阪・船場(せんば)にでき、大村益次郎(おおくらますじろう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)も学んでいる。学問のレベルは断然大阪が高かったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より)
 本では武家の宗家である徳川家が諸侯に天皇や公家・寺院・神社など公領以外の土地を分け与えて領有統治させたが、朝鮮ではそういう仕組みはなかった
 封建制度とは武家による主従関係の政治とその分権的な領民支配の土地の私有を認める制度である。日本の場合、各藩主は武家の宗家である徳川家に建前上服従していた。一方中国や朝鮮の土地所有形態は国家(皇帝)が全国の所有者であり、その人民たる耕作者は土地に従属する民であった。
 日本では日本という国の中にいくつもの‘国(藩)’があった。国の中に‘国’がある形態は欧米諸国の政治形態と同じである。日本は中国や朝鮮よりは欧米と価値観を共有できる根本の原因はそこにあると私は思う。
中国では現在でも土地は国家の所有になっている。それだけではなく戸籍には農民戸籍と都市戸籍があり、農民は都市に住居を移すことは制限されている。中国は共産党が支配する、ある意味では「共産党王朝」が国家を運営しているといえる。中国は今も昔も本質的に変わっていないのである。          (続く)