2011年11月1日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(61) (20111101)

 “このとき秀吉は本格的な水軍を準備していなかった。このため小西軍への補給ができなかったのである。元来、秀吉の部隊というのは陸軍ばかりで、藤堂高虎(とうどうたかとら)、脇坂安治(わきさかやすはる)、加藤嘉明(かとうよしあき)といった陸の大将が水軍を率いていた。その水軍も輸送部隊といった感じで、海戦を想定したものではなく、したがって水軍の総司令官も決まっていなかった。

 九鬼嘉隆(くきよしたか)率いる九鬼水軍も参加したが、これにしてもかつて信長の下で戦ったときには毛利の水軍に負け、信長の工夫で鉄張りの船を造ってようやく勝つといった程度だったから、実戦能力は知れたものである。

 こうした日本の水軍の前に朝鮮軍の李舜臣(りしゅんしん)率いる水軍が現れた。日本の水軍も初めは勝ったが、李舜臣は日本の素人(しろうと)同然の水軍を多島海(たとうかい)(多くの島が点在する海)に誘い込み、これを打ち破った。九鬼水軍は多島海に入る危険を知っていたため、そこに入ることはなかったが、それ以外の水軍は皆、そこに引き込まれてやられてしまったのである。

 明の大軍は漢城まで押し寄せてくるが、日本軍も小早川隆景(こばやかわたかかげ)などが中心となって猛反撃をし、文禄(ぶんろく)二年(一五九三)一月二十六日の碧蹄館(へきていかん)の戦いで明の大軍に徹底的な打撃を与えた。明の大将李如松(りじょうしょう)は落馬し、危うく首を掻(か)かれるところを部下に助けられて泡を食って本国まで逃げ帰り、それ以降二度と出てこなかった。

 明軍を撃退した日本軍は無事に撤退し、和平交渉がはじまることになる。秀吉は明に対して七か条の講和条件を与えるが、間に入った通訳がいいかげんで、条件を相手に伝えないどころか、「平和になれば日本は明の属国になるでしょう」と適当なことを吹き込んだ。それを真に受けた明側は「秀吉を日本の王に封じればいいのだろう」くらいに軽く考えていた。また、日本側でも講和条件をめぐってある程度の譲位は致し方なしとする小西行長と、あくまでも秀吉の出した条件に忠実であるべきとする加藤清正の間で対立が生じた。この対立は、行長や石田三成(みつなり)が「清正が明との講和を妨害している」と秀吉に報告し、清正が謹慎させられるという事態にまでこじれていった。”

 日露開戦の御前会議で陸軍は開戦を主張するが海軍は「まだ準備不足」としてなかなか開戦には同意しなかった。(このブログ2011731日日曜日付け「日露戦争前哨戦(補記) (20110731)」参照。「閣僚、元老とも開戦やむなしとの意見であったが、天皇は各発言を深くお聴きになり種々御下問の後「いま一度催促してみよ」と御指示になった。」)

 大東亜解放戦争では山本五十六は開戦に反対であったが、開戦の詔勅に「朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スル」とあるとおりの「大義」に殉ずる覚悟をもって帝国海軍を率いて戦い、敵弾に斃れた。

 日本国の大義は「皇国」として進むべき方向にある。        (続く)

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