2011年11月4日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(64) (20111104)

 “一方、秀吉の正妻であるねね(高台院(こうだいいん)には子供がおらず、妾(めかけ)である淀君にこどもができた。淀君の家来たちは、石田三成も含めて秀吉が信長から長浜(ながはま)城をもらったあたりからの家来で、いわゆる文官的な要素のある武士たちだった。ところが加藤清正や福島正則(ふくしままさのり)のように武将らしい武将は尾張(おわり)の出身で、秀吉の正妻ねねが飯を食わせて育てたような者ばかりだった。

 したがって、豊臣政権の仲違いには、「淀君および近江(おうみ)以来の家来」対「高台院と尾張以来の武将」という構図があったのである。

 家康は高台院に対して非常に丁重であったところから、高台院も家康には好意を持って、かつて自分が手塩にかけて育てた武将たちにも「徳川殿には協力しなさい」というようなことをいっていたらしい。これは、やくざの世界にたとえれば、不良少年の頃に食わしてもらっていた大姉御(おおあねご)からいわれたようなものだから、その影響力は大きかったと思われる。

 朝鮮の役の頃、家康は内心、「この出兵は間違っている」と思ったようである。そして次の天下は自分に来ると確信して、本気で勉強をはじめるのである。藤原惺窩(せいか)とか林大学頭(はやしだいがくのかみ)(林述斎(じゅつさい))を教授にしてシナの古典を学ぶのである。

 例えば『論語』を読めば「政(まつりごと)を為(な)すに徳を以(もつ)てすれば、譬(たと)えば北辰(ほくしん)(北極星)の其の所に居て、而(しこう)して衆星(しゅうせい)の之(これ)に共(むか)うが如(ごと)し」(為政(いせい)編)というような徳治政策の教訓が載っている。こうした言葉から、家康は力ではなく徳治の大切さを学んでいくのである。

 さらに重要なのは北条政子も読んだ『貞観政要(じょうかんせいよう)』である。家康もまた『貞観政要』を講義させて研究している。されから『吾妻鏡(あずまかがみ)(東鑑)』を研究している。『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の事績を源三位頼政(げんさんみよりまさ)の挙兵から第六代将軍宗尊(むねたか)親王に至るまで編年体で記した歴史書だが、これは要するに『貞観政要』に書かれた教訓を政治に活かした北条幕府の政治の実情をまとめたものである。それを家康は学ぶのである。

 振り返ってみると、信長も秀吉も『貞観政要』をじっくり勉強するような暇はなかった。その点で、朝鮮の役は家康の将来にとってきわめて重要な基礎をつくる時間になったといえるだろう。”

 政治権力がある者が神話の時代から現代にいたる歴史をよく知らず、また皇国史観もなしに政治を行うというのは、日本国民にとって非常に危険なことである。

戦後失ってしまった日本の精神風土を復活させなければ、日本は1990年以降現実のものとなっているグローバリゼーションの大津波に呑み込まれてしまい、日本は沈んでしまうことだろう。ギリシャの財政破たんに端を発する問題で今EUは大きな危機に直面している。他山の石としなければならない。               (続く)

0 件のコメント: