2010年10月10日日曜日

母・ともゑ (20101010)


  信輔は母・ともゑのことを物語にした。物語の登場人物は実名もあるが偽名もある。事実が不明なことは想像して肉付けしている。そういう意味でこれは小説的であるとともに物語に近い小説である。信輔は1か月かけて毎日その小説を書き続けるうちに、この齢・73になるまでずっと胸につかえ続けきていたものが消えたことに気付いた。

    この小説を書き始めるとき、信輔はその目的を次の三つに絞っていた。一つは信輔が10歳のとき33歳の若さで死んだ生母への追善供養、二つ目は信輔の自分史、三つ目は信輔の子や孫たちに自分たちの祖父母、曾祖父母たちがどんな人たちであったか、その時代の状況はどんなであったについて知ってもらうことである。

  信輔は継母・八千代の介護のため毎月のように帰郷している。1週間前、横浜の信輔のところに突然電話が入った。「ヘルパーの山内です。お母様がちょっと熱を出していて、血圧も高いです」と報告してきた。信輔は妻と一緒に急きょ帰郷するためインターネットで飛行機の切符の手配をし、土曜日であったがいつもお世話になっているかかりつけの病院に電話を入れて入院させたいと先生に伝えてくれるように依頼し、いつも使っているタクシー会社に電話を入れて八千代を迎えに行って病院に連れて行ってくれるように頼んだ。

    91歳の継母・八千代は入院して点滴を受け、白血球数が初め1600まで下がっていたのが入院1週間後1900まで回復し、赤血球数も正常に近い値に戻った。八千代は6年前大腸にリンパ腫が発生し、治療を受けているので造血能力が落ちている。白血球を増やす薬も使えない。免疫力が低下しているのでちょっとしたことで体調を崩しやすい。もし信輔の生母・ともゑが生きているとすればともゑは97歳である。その場合、ともゑは今の信輔にとってどのような母親であろうかとふと思うことがある。

  それはともかくとして、信輔は八千代の介護のため毎月のように帰郷し、その度に在郷の小学校・中学校時代の同級生たちに会っている。この度も信輔の帰りを楽しみしている芳郎が辰夫と一緒に湯平温泉で会って、昼食と入浴をして夕方までそこで遊ぶことにしている。湯平には千葉に住む同級生の洋介が帰郷の度に泊っている宿がある。

    3人の話題によく登場するのがその洋介と神奈川の座間に住んでいる貞行のことである。洋介も年に1、2度帰郷しているが貞行は郷里を出て以来殆ど帰郷したことがない。今年の4月の同級会のとき何10年ぶりかに帰郷しただけである。皆60年前同じ鶴崎中学校に入った同級生たちである。60年前13歳だった男たちの話題には信輔が小説に書いた女子の同級生のことも上がる。そのような竹馬の友だちがいるからこそ、信輔は継母の介護のため帰郷することが楽しみになっている。

    それもそう長くは続かないだろう。人生はそのようなものである。私小説を書くということは自分が生きてきた証を遺すためでもある。母・ともゑのことについて書いて遺す。それが信輔の「役割」の一つになっている。信輔にはまだ他に幾つかの「役割」があるが、すべての「役割」を終えようとするとき信輔は微笑んで「あの世」に逝くことだろう。

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